第17話 白い鳥
白い鳥は、一人で空を飛び続けていた。
目的地はない。
帰る場所もない。
ただ、人の住む場所を避けるように進んだ。
町が見えれば進路を変える。
街道を走る馬車を見つければ、高く昇って雲へ紛れる。
森の中で旅人の声を聞けば、影へ姿を隠す。
誰にも見つからないように。
誰とも関わらないように。
(これでいい)
そう繰り返しながら、いくつもの季節を越えた。
身体は変わらなかった。
羽根は抜けても、すぐに生え揃う。
傷を負っても、時間が経てば跡も残らず消えていく。
空腹も、眠気もある。
だが、老いている様子はなかった。
エリシアと過ごした時間だけが遠ざかり、自分だけが同じ姿のまま残り続けている。
本来は黒い羽根も、今では白く見せていた。
影を身体の表面へ薄くまとわせ、光の映り方を変えているだけだ。
黒い鳥は、英雄エリシアの相棒として知られている。
その姿で人前へ出れば、誰かに気づかれるかもしれない。
(もう、アッシュである必要はない)
エリシアが与えてくれた名前。
あの森に置いてきた名前。
今の自分は、ただの白い鳥だった。
人のいない森を渡り。
名も知らない山を越え。
夜になれば、高い木の枝で眠る。
朝になれば、また飛ぶ。
それだけの時間を繰り返していた。
(誰にも関わらなければ、間違えない)
守ろうとしなければ。
相手の代わりに、何かを決めなければ。
もう誰かの人生を狭めることはない。
孤独は罰ではない。
必要なことだ。
そう思っていた。
◇
その日は、空を低い雲が覆っていた。
雨になる前の、湿り気を含んだ風が吹いている。
俺は森の上空を飛んでいた。
眼下には、どこまでも木々が続いている。
その先に、細い煙が見えた。
(火か)
山火事にしては小さい。
焚き火にしては、煙の色が黒すぎる。
人がいる可能性があった。
進路を変える。
関わらない。
見ない。
それでいい。
翼を傾け、煙から離れようとした。
だが、風に乗って匂いが届いた。
焦げた木。
焼けた布。
そして、血。
羽ばたきが止まりかける。
(村か)
戦場で、何度も嗅いだ匂いだった。
空中で旋回する。
(俺には関係ない)
すでに何かが起きた後だ。
今さら向かったところで、できることなどない。
人間同士の争いなら、なおさら関わるべきではない。
(行くな)
そう言い聞かせながら、身体は煙の方角へ向いていた。
(様子を見るだけだ)
誰かを助けるためではない。
何が起きたのか、確かめるだけ。
生存者がいても、姿は見せない。
それ以上は何もしない。
高度を下げる。
森が途切れ、小さな村が見えた。
十数軒ほどの家。
畑。
井戸。
家畜を囲っていた柵。
そのほとんどが壊されている。
屋根から煙が上がり、井戸の横には荷車が倒れていた。
道には、人が倒れている。
動く者はいない。
(遅かった)
何が起きたのかは、見れば分かった。
魔物の仕業ではない。
家の扉は壊され、食料や金目の物だけが持ち去られている。
残っているのは、人間の足跡。
馬の蹄。
異なる武器でつけられた傷。
(盗賊か)
戦争が終わっても、争いまで消えるわけではないらしい。
人間と魔族が剣を収めても、人間同士で奪い合う者はいる。
村の上を一度、旋回した。
(誰もいない)
呼吸。
心音。
動く影。
生きている者の気配を探す。
何も感じない。
このまま離れよう。
そう思った瞬間、小さな音が聞こえた。
木が擦れる音。
崩れかけた家の中。
(……いる)
翼を畳み、煙の残る村へ降りた。
壊れた屋根へ止まる。
音がしたのは、その下だった。
壁が一部崩れ、太い梁が斜めに倒れている。
その隙間で、何かが動いた。
「……っ」
掠れた息。
細い指が見えた。
血と煤で汚れた、人間の手。
少女だった。
十三か十四歳ほど。
薄茶色の髪。
額から血を流している。
倒れた梁と床の間へ身体を挟まれ、動けなくなっていた。
意識はある。
だが、力はほとんど残っていない。
「……誰か……」
小さな声。
答える者はいない。
「……お父さん……」
もう一度呼ぶ。
村は静かなままだった。
少女はしばらく待った。
やがて唇を強く噛み、右手を梁へ押し当てる。
「……っ!」
わずかに軋む。
だが、持ち上がらない。
(無理だ)
怪我をしている。
身体も小さい。
一人で動かせる重さではない。
俺は屋根の上から見下ろしていた。
(人を呼べ)
近くに町があれば。
街道を探せば。
誰かを連れてくることはできる。
だが、時間がかかる。
少女がそれまで持つかは分からない。
(俺なら、すぐに動かせる)
影を伸ばす。
梁を持ち上げるだけだ。
それだけなら、少女へ姿を見せる必要もない。
(だが)
助けた後は、どうする。
傷を治すのか。
食料を運ぶのか。
安全な町までついていくのか。
どこまでが救助で。
どこからが、余計な介入なのか。
(また、俺が決めるのか)
相手が何を望んでいるかも確かめず。
自分が正しいと思った方法で。
エリシアの声が蘇った。
国へ戻ってもよかったかな。
胸の奥が痛む。
「……まだ……」
少女が呟いた。
震える手を、もう一度梁へ伸ばす。
「死にたく……ない……」
影が動いた。
(それだけ聞ければ十分だ)
生きたい。
本人が、そう言った。
ならば、梁を持ち上げることは選択を奪うことではない。
屋根から飛び降りる。
梁の影へ、自分の影を重ねた。
誰にも見えない場所から、力を流し込む。
重い。
梁だけではない。
崩れた壁も、その上へ乗っている。
それでも、戦場で受け止めた破壊の力と比べれば軽かった。
梁がゆっくりと持ち上がる。
「……え?」
少女が目を見開いた。
何が起きているのか、理解できていない。
(今だ。出ろ)
言葉は届かない。
梁をわずかに揺らす。
少女が我に返り、身体を引きずるようにして隙間から抜け出した。
力を解く。
梁が轟音とともに床へ落ちた。
少女は地面を這い、家の外へ出る。
何度も咳き込みながら、新しい空気を吸った。
しばらく、その場から動かなかった。
俺は壊れた柵へ止まり、様子を見ていた。
(助かった)
これで終わりだ。
もう離れればいい。
少女は両手を地面へつき、ゆっくり顔を上げた。
村を見渡す。
崩れた家。
燃えた畑。
動かない人々。
顔にわずかに残っていた希望が消えた。
「……お父さん」
立ち上がろうとする。
足がもつれ、転んだ。
それでも、もう一度立った。
最初に向かったのは、道の中央へ倒れていた男のもとだった。
背中に深い傷がある。
もう息はない。
少女は男の肩へ手を置いた。
「……お父さん」
揺する。
「起きて」
返事はない。
「私……出られたよ」
声が震える。
「お父さんが……隠してくれたから」
もう一度、身体を揺らす。
「……起きてよ」
声が小さくなる。
やがて、男の胸元へ顔を伏せた。
泣き声は出なかった。
肩だけが震えている。
俺は飛び立てなかった。
(見るな)
自分には関係がない。
少女が誰を失ったのか。
これから、どうするのか。
知る必要はない。
(離れろ)
それでも、翼を動かすことができなかった。




