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女神の従魔  作者: 梅椿 六花
第二章 守れない鳥
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第16話 英雄エリシア

 墓は、小屋の近くに作った。

 エリシアがよく空を見ていた、大きな木の下。

 晴れた日には木漏れ日が落ちる。

 春には小さな花が咲く場所だった。

 影で土を掘った。

 戦うために使ってきた力で。

 初めて、誰かを眠らせる場所を作った。

 雨を吸った土は重い。

 影を伸ばすたび、黒い土が持ち上がる。

 穴は少しずつ深くなった。

 人一人が入る大きさになっても、作業を終えられなかった。

 掘り終えれば、エリシアを入れなければならない。

 土を戻さなければならない。

 顔が見えなくなる。


(まだ)


 小屋へ戻る。

 エリシアは寝台へ横たわっている。

 眠っているように見えた。

 声をかければ起きるような気がした。


(もう少し待てば)


 朝になった。

 昼になった。

 夜になった。

 エリシアは起きなかった。

 身体は冷たくなっていく。

 その変化だけが、死を現実へ近づけた。

 俺は身体を布で包んだ。

 片腕を失い、以前より軽くなった身体。


(軽すぎる)


 初めて会った日。

 エリシアは小さな鳥だった俺を抱き上げた。

 傷ついた身体を胸元へ抱え、寒さから守ってくれた。

 今度は、俺が彼女を運ぶ。

 影で身体を支え、墓へ下ろす。

 右手を胸の上へ置いた。

 持たせるものを探す。

 剣はない。

 黒い鎧は重すぎる。

 花は、やがて枯れる。

 俺は、自分の羽根を一枚抜いた。

 黒い羽根。

 エリシアの右手へ挟む。


(これくらいしかない)


 土を戻す。

 少しずつ、身体が隠れていく。

 胸。

 肩。

 顔。

 顔が見えなくなる直前、影を止めた。


(行かないで)


 今さら言っても届かない。

 それでも、動けなかった。

 どれほど時間が過ぎたのか。

 やがて、最後の土を戻した。

 石を置く。

 名前を刻む。

 影で刃物を支え、一文字ずつ削った。

 エ。

 リ。

 シ。

 ア。

 ただ、それだけだった。

     ◇

 小屋は広くなった。

 一人いなくなっただけなのに。

 机も。

 椅子も。

 寝台も。

 以前と同じ場所にある。

 それなのに、何もかもが遠く見えた。

 朝になっても火は起きない。

 水差しを落とす音も。

 焦げた料理の匂いも。

「おはよう」と呼ぶ声もない。

 俺は以前と同じように外へ出た。

 魚を探す。

 薬草を集める。

 森の周囲を確かめる。

 持ち帰っても、使う者はいない。


(何をしている)


 途中で気づき、薬草を落とす。

 翌日も、同じことを繰り返した。

 身体だけが、エリシアのために動き続けていた。

 夜になると、寝台の横へ止まった。

 誰も眠っていない寝台。

 しばらく待つ。

 声は聞こえない。

 墓のある木へ移動する。

 エリシアを守る必要は、もうない。

 それでも、誰かが森へ近づけば追い返した。

 小屋も。

 墓も。

 誰にも触れさせたくなかった。

 季節が巡った。

 墓の周りへ草が生える。

 花が咲く。

 葉が落ちる。

 雪が積もる。

 俺の身体は変わらなかった。

 羽根も。

 力も。

 エリシアと過ごした時間だけが、遠ざかっていった。

     ◇

 どれほどの年月が過ぎたのか。

 ある日。

 一人の若い冒険者が、森へ迷い込んできた。

 装備は新しく、動きもぎこちない。

 剣の位置が歩くたびにずれ、そのたびに腰へ手を伸ばして直していた。


(追い返すか)


 いつものように霧を出せばいい。

 道を歪めればいい。

 だが、翼は動かなかった。


(……どうでもいい)


 誰が来ても。

 もう、エリシアは傷つかない。

 男は何度も地図を開きながら、森の奥へ進んだ。


「完全に迷ったな……」

 やがて小屋を見つける。

「こんなところに?」


 警戒しながら扉を開けた。

 埃の積もった机。

 使われなくなった食器。

 片側だけ深く沈んだ寝台。

 そして、壁へ立てかけられた黒い鎧。

 男の動きが止まった。


「……これ」


 ゆっくり近づく。

 傷だらけの表面へ触れる。


「嘘だろ」

 息を呑む。

「これ……黒鎧?」


 修復された跡。

 欠けた肩口。

 何度も戦場を渡り歩いた証。


「まさか」


 男は小屋の外へ飛び出した。

 大きな木の下にある墓へ気づく。

 近づき、刻まれた名前を読んだ。


「エリシア……」

 その瞬間、表情が変わった。

「エリシアって、あのエリシアか!?」

 興奮した声が森へ響く。


「黒鎧の英雄エリシア!?」


(英雄?)

 身体が固まる。

 男は墓の前へ膝をついた。


「魔王を倒した、あの人だろ?」


(魔王?)


「人間と魔族の戦争を終わらせた英雄」


「黒い鎧を着て、黒い鳥を連れていたっていう……」


(黒い鳥)

 胸の奥が強く脈打つ。


「像もあるんだよ、町に」

「肩に鳥を乗せたやつ」

「子供の頃から、何度も話を聞いた」


 男の声が震えていた。


「魔王に操られていた魔族を解放して、人間も助けたって」

「本当にいたんだな」


 墓石の土を払い、伸びた草を抜く。

「ここで暮らしてたのか」

「誰にも知られずに」

 小さく呟いた。

「すげえな」


 恐れも、嫌悪もなかった。

 ただ、純粋な敬意だけがあった。


(何を言っている)


 俺は動けなかった。

 黒い鎧。

 黒い鳥。

 不吉の象徴だったはずだ。

 人々は恐れていたはずだ。


(違う)


 男が語るものは、俺の知る噂と正反対だった。

 英雄。

 魔王を倒した。

 戦争を終わらせた。


(そんな話は)


 聞いたことがない。

 知るはずがない。

 俺は、外の情報を探すことをやめていた。

 昔と同じ悪い噂が続いていると、勝手に思い込んでいた。


「どうして誰も見つけられなかったんだろうな」

 男が墓の前で呟く。

「国は何度も人を送ったって聞いたけど」

(国が)

「森へ入れなかったらしい」

「霧が出たり、同じ場所へ戻されたり」

「英雄を守る魔物がいた、なんて話もあるけど」

(俺だ)


 霧を作った。

 道を曲げた。

 人を追い返した。


「直接、感謝を伝えたかった人も多かっただろうな」

「人間だけじゃない」

「支配から解放された魔族にも、彼女を英雄と呼ぶ人がいるって」

(魔族も)


 世界は変わっていた。

 俺が知らない間に。


(いつから)


 異形を倒した後。

 魔族兵が武器を捨てた後。

 エリシアが、国へ戻ろうかと言ったとき。

 すでに人々は、彼女を探していたのかもしれない。

 森へ来た兵士たちも。

 国からの使者も。

 悪意を向けに来たのではない。

 感謝を伝えに来た可能性があった。


(俺は、何も確かめなかった)


 古い噂を信じた。

 またエリシアが傷つくのが怖かった。

 だから、世界が変わっている可能性を見ようとしなかった。


(守ったつもりだった)


 傷つくものから遠ざけた。

 だが同時に。

 エリシアを待っていた人々からも遠ざけた。

 国へ戻る選択。

 感謝を受け取る選択。

 治療を求める選択。

 外の世界を知る選択。


(俺が決めた)


 エリシアのためだと言いながら。

 本人の代わりに。

 男は墓へ深く頭を下げた。


「ありがとうございました」


 その言葉を。

 エリシアは一度も聞けなかった。

     ◇

 俺は森を出た。

 影で羽根の色を白く変えた。

 黒い鳥は、英雄エリシアと共に知られているらしい。

 正体を知られたくなかった。

 冒険者の言葉を確かめるため、最も近い大きな町へ向かう。

 街道には、人間だけでなく魔族もいた。

 角を持つ者。

 耳の形が違う者。

 荷物を運び、人間の商人と話している。

 人間と魔族の子供たちが、同じ道を走っていた。


(戦っていない)


 かつてなら、出会った瞬間に剣を抜いていた者たちが。

 今は同じ道を歩いている。

 町の門には、人間と魔族、両方の兵士が立っていた。


(本当に終わったのか)


 戦争が。

 あの異形を倒した後に。

 町の中央広場。

 そこに像があった。

 黒い鎧をまとったエリシア。

 左腕を失う前の姿。

 剣を持ち、前を見ている。

 その肩には、小さな黒い鳥。

 俺がいた。

 像の足元には、色とりどりの花が置かれている。

 人間の土地の花だけではない。

 魔族の地で咲くという、黒い花も混じっていた。

 人間の子供が、像を見上げている。


「この人が魔王を倒したの?」

「ああ」

 父親らしい男が答える。

「人間も魔族も救った英雄だよ」

「魔王って、すごく強かった?」

「大勢の魔族を操り、戦争を続けさせていたらしい」

(操っていた)


 意思を失った魔族兵。

 同じ動きを繰り返す兵士たち。

 異形が崩れた後、武器を落とした者たち。


(あれが)


 あの異形が、魔王だった。

 エリシアも。

 俺も。

 何も知らずに戦っていた。


「鳥も一緒に戦ったの?」

「そう伝えられてる」

 父親が像の肩を指す。

「英雄の大切な相棒だったんだ」

(相棒)


 黒い鳥は、不吉の象徴ではなくなっていた。

 英雄と共に戦った存在として、像に残されている。

 近くでは、魔族の女性が子供へ話していた。


「この人が、昔の王様を止めてくれたのよ」

「人間なのに?」

「人間だからでも、魔族だからでもないわ」


 女性は像を見上げる。


「目の前に苦しんでいる人がいたから、戦ってくれたの」


(そうだ……)


 エリシアは、相手が誰かで剣を振るう人ではなかった。


 戦火の燃える中。

 一人の魔族の少女へ剣を下ろし、手を差し伸べた。


 俺は危険だと鳴いたがエリシアは「もう大丈夫だよ」と優しく微笑みかけていた。

 少女はエリシアを見た。

 それから俺を見る。

 もう一度エリシアを見て。

 納得できないように、小さく首を傾げていた。


 エリシアがこの親子の会話を聞いたら、困った顔をしただろう。

「大したことじゃないよ」と。

 当然のことをしただけだと笑ったかもしれない。

 像の台座には、文字が刻まれていた。

 魔王を討ち、人と魔族の戦争へ終わりをもたらした英雄。

 エリシア。

 その傍らで戦った、名もなき黒き翼。

 何度も文字を読んだ。


(名前は知られていないのか)


 当然だった。

 アッシュという名を知るのは、エリシアだけだった。

 それでも、黒い鳥は像に残っている。

 不吉な鳥ではなく。

 エリシアの隣にいた存在として。


(知らなかった)


 エリシアも知らなかった。

 自分が魔王を倒したことを。

 戦争を終わらせたことを。

 人間から感謝されていたことを。

 魔族からも救い手と思われていたことを。

 黒い鳥が、もう恐れられていないことを。

 何も知らないまま。

「国へ戻ってもよかったかな」と言って。

「みんな、どうしてるのかな」と尋ねて。

 森の小屋で死んだ。


(俺が知らなかったから)


 違う。

 知ろうとしなかったから。

 エリシアは何度も言っていた。

 自分でやってみたい。

 無理かどうかは、やらなければ分からない。

 危なくなったら助けてほしい。

 でも、最初から全部やらないで。

 暮らしの中では、その言葉を聞いた。

 器を持つまで待った。

 椅子へ登る姿を見守った。

 失敗する可能性があっても、手を出すのを我慢した。

 それなのに。

 森の外のことだけは違った。

 傷つくかもしれないからと、何も試させなかった。

 誰にも会わせなかった。

 何も知らせなかった。


(守るって)


 傷つく可能性を消すことではなかった。

 相手の代わりに、世界を決めることでもなかった。

 傷つくかもしれない。

 失敗するかもしれない。

 それでも、自分で選ぶ。

 その権利まで奪ってはいけなかった。


(俺は)


 エリシアを守ったのではない。

 失うのが怖くて。

 自分が安心できる場所へ、彼女を留めただけだった。

 森を閉ざしたのは、エリシアのためではない。

 俺自身の恐怖のためだった。

 喉の奥が痛む。

 前世から残る、言えなかった言葉。

 伸ばせなかった手。

 そして今度も。

 大切な相手へ、必要な言葉を届けられなかった。

 広場の子供が、像へ花を置いた。


「ありがとう、英雄様」


 その声を、エリシアへ聞かせたかった。

 彼女が生きている間に。

 像ではなく、本物の彼女へ。


(俺が奪った)


 感謝されることだけではない。

 帰ることも。

 治療を受けることも。

 誰かへ会うことも。

 自分が何を成し遂げたのか知ることも。

 俺は像の前から飛び立った。

 白い羽根で。

 誰にも正体を知られないまま。


(もう、誰にも関わらない)


 俺が誰かを守ろうとすれば、また選択を奪う。

 俺がそばにいれば、その人の世界を狭くする。


(なら、一人でいればいい)


 町の明かりが遠ざかる。

 広場の中央では、石のエリシアが黒い鳥を肩へ乗せたまま、前を見ていた。

 俺は一度だけ振り返った。


(ごめん)


 生きている間に言えなかった。

 今さら、どれほど繰り返しても届かない。


(ごめん、エリシア)


 白い鳥は夜の闇へ飛び去った。

 黒い羽根も。

 アッシュという名前も。

 英雄の相棒だった過去も。

 すべてを置き去りにするように。

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