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女神の従魔  作者: 梅椿 六花
第二章 守れない鳥
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15/19

第15話 ありがとう

 エリシアの身体は、ゆっくりと弱っていった。

 冬を越えた頃には、長く外を歩けなくなった。

 春には、家の前の椅子へ座るだけで息を切らした。

 それでも、暖かい日には外へ出た。

 俺が椅子を影で運ぶ。

 エリシアは大きな木の下へ座り、空を見上げた。


「きれいだね」

(ああ)


「前は、空を見る余裕なんてなかったな」

(戦ってばかりだったからな)


「アッシュは、毎日見てたんでしょ?」

(上を飛んでいたからな)


「ずるい」

(鳥の特権だ)


「私も鳥になればよかった」

(飛ぶ練習で何度も地面へ落ちるぞ)


「でも飛ぶ練習でアッシュみたいに落ちちゃうか」

(忘れろ)


 エリシアが笑う。

 少し笑っただけで咳が出た。

 右手で口元を押さえる。

 俺はすぐ顔を覗き込む。


「大丈夫」

(大丈夫じゃない)


「少し咳が出ただけだよ」

(最近、増えている)


「そんなに見られると、咳もしづらいな」

(我慢するな)


 エリシアは空を見上げた。


 「人と魔族ってさ」


 「いつか、本当に一緒に暮らせると思う?」


 俺は答えなかった。

 エリシアも、返事を求めなかった。


 「私はね」


 「そうだといいなって、思うんだ」


 風が木々を揺らした。

 その願いが叶う日なんて、俺には想像もできなかった。


 夏が来る頃には、寝台から起き上がれない日が増えた。

 俺は薬草を探した。

 以前、エリシアや治療師が使っていたもの。

 記憶に残る形と匂いを頼りに、似た植物を何種類も集めた。


「これは違うよ」

 エリシアが葉を指先で触る。


「こっちは、お腹が痛くなるやつ」

(危なかった)


「これは合ってる」

(覚えた)


 翌日からは、それだけを集めた。

 薬草を煎じる。

 火加減を影で調整する。

 器を運び、エリシアの身体を起こす。

 一口ずつ飲ませる。

 だが、効果は一時的だった。

 少し呼吸が楽になる。

 数時間後には、また苦しそうに胸を押さえる。


(町へ行けば)


 治療師を連れてこられるかもしれない。

 国へ戻れば、もっとよい治療を受けられるかもしれない。

 何度も思った。

 そのたびに、悪い噂が蘇る。

 黒い鎧の女。

 不吉な鳥。

 災いの象徴。


(連れていって、また傷つけられたら)

 身体が弱っている今、あの言葉を聞かせたくない。

(もう少し様子を見よう)


 明日になれば。

 薬が効けば。

 暖かくなれば。

 食事を取れるようになれば。

 条件を少しずつ変えながら、決断を先へ延ばした。

 迷っている間にも、時間は過ぎていった。

     ◇

 ある昼。

 エリシアが窓の外を見ながら言った。


「誰か来てたよね」

 動きを止める。


「何度か」

(気づいていたのか)


「森の入口に、人の気配がした」

 責める口調ではなかった。


「アッシュが追い返したの?」

 沈黙した。

 それ自体が答えだった。


「そっか」

(怒ってるのか)


「私を守ってくれたんだね」

(ああ)


「ありがとう」

 胸の奥へ安堵が広がった。


 理解してくれた。

 俺の行動は正しかった。

 そう思った直後。


「でも」

 エリシアは少し考えてから続けた。


「次に誰か来たら、話を聞いてみてもいいかもね」

(駄目だ)


「悪い人とは限らないでしょ?」

(悪い噂を知ってる)


「それでも、何か伝えたいことがあるのかもしれない」

(傷つけに来たらどうする)


「そのときは、アッシュが追い返して」

(最初から会わせなければいい)


 俺は首を横へ振った。

 エリシアがこちらを見る。


「……嫌?」

「カァ」


 強く鳴く。

 しばらく、二人の間へ沈黙が落ちた。

 やがてエリシアは、弱く笑った。


「分かった」


 まただ。

 エリシアは俺の反応を見て、自分の希望を引っ込めた。

 それなのに俺は、彼女を守れたことへ安心した。

     ◇

 ある夜。

 激しい雨が降っていた。

 屋根を叩く音。

 窓を流れる水。

 森全体が、暗い水の底へ沈んでいるようだった。

 エリシアの呼吸は、いつもより浅かった。

 息を吸うたび、胸の奥で小さな音が鳴る。

 指先が冷たい。

 顔色は、月明かりより白い。


(薬)


 残っていた薬草を煎じる。

 口元へ運ぶ。

 だが、飲み込めない。

 水が唇からこぼれた。


(誰かを呼ぶ)


 今度こそ。

 森の外へ出る。

 人間を連れてくる。

 悪い噂が残っていても構わない。

 エリシアが生きる可能性があるなら。


(なぜ、もっと早く)

 問いが浮かぶ。

(今は考えるな)


 翼を広げる。

 影を足元へ集める。

 町までの距離。

 雨の森。

 最短の道を思い浮かべる。


「……アッシュ」


 弱い声で呼ばれた。

 振り返る。

 エリシアがこちらを見ている。


「行かないで」


 胸の奥へ、何かが刺さった。

 夢の中。

 遠ざかる手。

 言えなかった言葉。

 誰かへ向けて、同じ言葉を叫ぼうとした記憶。


(行かないで)


 俺は翼を畳んだ。

 寝台へ戻り、エリシアの右手のそばへ下りる。


「……ごめんね」

(何がだ)


「少しだけ」

 指先が、黒い羽根へ触れる。


「怖いみたい」

(大丈夫だ)


 何も大丈夫ではない。

 呼吸は弱い。

 身体は冷え始めている。

 今からでも、人を呼ぶべきではないのか。

 そばを離れるべきではないのか。

 判断できない。

 飛び立てば、戻ったときには息をしていないかもしれない。

 残れば、助かる可能性を自分で捨てることになるかもしれない。


(どうすればいい)


 戦場では、決断が遅れれば誰かが死んだ。

 正しいか分からなくても選んだ。

 今は、どちらを選んでもエリシアを失う気がした。

 俺は残った。

 エリシアが望んだから。

 それが本当に彼女のためなのか。

 俺が最後を見逃したくないだけなのか。

 分からなかった。


「アッシュ」

(ここにいる)


「私ね」

 エリシアは、息を整えるように少し黙った。


「ちゃんと、生きられたかな」

(生きた)


 誰よりも。

 自分より他人を優先して。

 傷ついても前へ立って。


「もっと、できた気もするけど」

(もう十分だ)


「できなかったことも、いっぱいあるね」

(そんなことはない)


「右手だけで、もっと料理も作れるようになりたかったな」

(焦げていないやつを頼む)


「川にも、また行きたかった」

(行こう)


「町にも」

 身体が固まる。


「一度くらい、戻ってもよかったかな」

 責める声ではなかった。

 遠くの景色を思い出すような声だった。


「みんな、どうしてるのかな」

(……エリシア)


「私がいなくても、ちゃんと進んでるかな」

(きっと進んでる)


 答えながら、俺は何も知らないことへ気づいた。

 戦争がどうなったのか。

 エリシアを探している者がいるのか。

 人々が何を思っているのか。

 何一つ知らない。

 知ろうとしなかった。


「でも」

 指先が俺の頭を撫でる。


「君に会えたから」

 ほんの少し、笑った。


「よかった」

(エリシア)


「一人じゃなかった」

(ああ)


「最後まで」

(最後なんて言うな)


 嘴で指をつつく。

 起きろ。

 いつものように笑え。

 ひどい冗談を言え。

 また川へ行こう。

 魚を捕ろう。

 焦げた料理を作れ。

 町へ行きたいなら、今度は止めない。

 どこへでも連れていく。


(だから)

 今さら、遅い言葉ばかりが浮かぶ。


「ありがとう」


 エリシアの瞼が、ゆっくりと閉じる。


「アッシュ」


 最後に、俺の名前を呼んだ。


(エリシア)


 胸の上下が止まった。

 次の呼吸を待つ。

 来ない。


(息をしろ)

 待つ。


(ほら)

 もう一度。


(起きろ)

 嘴で指をつつく。


 返事はない。

 身体を胸元へ寄せ、心臓の音を探す。

 何も聞こえなかった。


「カァ」

 小さな声が漏れる。

「カァ。カァ」


 呼べば、いつも名前を返してくれた。

 アッシュ、と。

 今は何度鳴いても、返ってこない。

 雨は朝まで降り続いた。

 俺は一晩中、エリシアの右手へ身体を寄せていた。

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