第13話 二人の暮らし
エリシアは、片腕で暮らす方法を一つずつ覚えていった。
最初は、寝台から身体を起こすだけでも難しかった。
右手で身体を支えようとすれば、掛布が絡まる。
足を床へ下ろしても、左右の重さが違うせいで均衡を崩す。
「……思ったより不便だね」
(当たり前だ)
嘴と影を使って支えようとすると、エリシアが止めた。
「待って」
(何だ)
「もう一回、自分でやる」
(今、転んだだろ)
「次は転ばないかもしれない」
右手の位置を変える。
両足を床へつける。
一度呼吸を整え、勢いをつけずに身体を起こした。
上半身が持ち上がる。
少し揺れる。
それでも、今度は倒れなかった。
「できた」
(危なっかしい)
「でも、できたよ」
子供のように笑う。
俺はすぐ支えられるよう、足元へ影を伸ばしながら鳴いた。
「カァ」
「褒めてくれた?」
(警戒しているだけだ)
「素直じゃないね」
(誰のせいだ)
服を着ることにも苦労した。
右腕を袖へ通し、頭を入れる。
左側の布が余り、身体へ巻きつく。
嘴で引こうとすると、また首を横へ振られた。
「自分でやってみたい」
(手伝った方が早い)
「早ければいいってものでもないよ」
布を歯で噛み、右手で引く。
何度も失敗する。
途中で息を切らし、寝台へ座り込む。
それでも休んだ後には、もう一度始めた。
ようやく服を着終える。
左右は少し歪んでいた。
「どう?」
(曲がってる)
「着られてるからいいの」
得意そうに言った。
水差しを持てば床へ落とし、器へ水を注げば半分を机へこぼす。
俺が影で水差しを固定すると、エリシアが笑った。
「便利だね、その力」
(今さらだな)
「戦場では、もっと怖い使い方をしてたけど」
(必要だったからだ)
「今は、水差しを支えてる」
(平和でいいだろ)
「うん。この方が好き」
戦場では敵を縛り、剣を逸らした力。
今は、エリシアの生活を助けている。
(この方がいい)
誰かを傷つけるより。
エリシアを支えるために使う方がいい。
だが、何でも先回りしてやろうとすると、彼女は止めた。
落としそうな器を影で支える。
「まだ落としてないよ」
(落とす前に拾った)
「私が持とうとしてたのに」
(落とすだろ)
「落とさないかもしれない」
火打ち石へ先に影を伸ばす。
「アッシュ」
(何だ)
「自分で取れるよ」
(時間がかかる)
「かかってもいいの」
棚の上の食材を取ろうとしたため、影を伸ばす。
「それも自分で」
(届かないだろ)
「椅子を使えば届く」
(落ちたらどうする)
「そのときは助けて」
(最初から俺が取ればいい)
「それだと、私はずっと何もできないままだよ」
穏やかな声だった。
だが、はっきりとした拒絶でもあった。
「危なくなったら助けてほしい」
エリシアは椅子の背へ右手を置いた。
「でも、最初から全部やらないで」
(……分かった)
影を引く。
エリシアは椅子へ乗った。
身体が揺れる。
俺はすぐに支えられるよう、足元へ影を広げた。
それでも手は出さない。
エリシアが棚から食材を取り、無事に床へ下りる。
「ほら、できた」
(危なかった)
「でも、できた」
同じ言葉を繰り返す。
エリシアにとって重要なのは、結果だけではなかった。
自分で選ぶこと。
自分で試すこと。
失敗すれば、別の方法を考えること。
それ自体が必要だった。
俺は、理解したつもりになった。
ただ、その考えを森の外へ向けることはなかった。
◇
日が経つにつれ、エリシアは少しずつできることを増やした。
片手で火を起こす。
歯を使って紐を結ぶ。
身体と机で器を挟みながら、食事を作る。
洗濯物を片手で絞る方法も覚えた。
布に水が残ると、俺が翼で風を送った。
「鳥と一緒に洗濯する日が来るとは思わなかったな」
(俺も片腕の女と洗濯するとは思わなかった)
初めて一人で料理を作った日。
エリシアは黒く焦げた皿を、得意そうに持ち上げた。
「できた」
(焦げているけどな)
「食べられればいいの」
(俺に食わせるつもりか)
「大丈夫。たぶん」
(たぶんをつけるな)
焦げた部分を嘴でつつく。
苦い。
俺の顔を見て、エリシアが笑った。
「そんなにまずい?」
(鳥の餌にも向かない)
「じゃあ、次は火を弱くしよう」
(まだ作る気か)
「何事も練習だよ」
自分でも一口食べる。
眉が寄った。
「……これは失敗だね」
(最初から言ってる)
久しぶりに、二人で笑った。
森での生活は穏やかだった。
朝、エリシアが火を起こす。
俺は上空から周囲を確かめる。
昼には川へ行った。
俺が魚を浅瀬へ追い込み、エリシアが籠で捕まえる。
最初は何度も逃げられた。
「アッシュが追い込む場所を間違えたんじゃない?」
(籠を動かすのが遅い)
「鳥のくせに厳しいね」
(夕食がかかっている)
もう一度。
影を水底へ伸ばす。
驚いた魚が浅瀬へ逃げる。
エリシアが身体ごと籠を押し込んだ。
銀色の魚が一匹、籠の中で跳ねる。
「捕れた!」
(声が大きい)
「だって、捕れたよ」
(見れば分かる)
「アッシュも嬉しいでしょ」
(夕食だからな)
夕方には薪を集める。
夜は小さな食卓を挟み、同じ食事を分けた。
剣の音はない。
怒号もない。
人々の視線もない。
エリシアは以前よりよく笑うようになった。
少なくとも、俺にはそう見えた。
(これが必要だった)
長い間、誰かのために戦い続けた。
これからは、自分のために生きればいい。
俺はそう考えていた。




