第12話 帰る場所
森の小屋へ戻ってから、エリシアは三日間眠り続けた。
戦場の治療師によって、失われた左腕の傷は塞がれている。
それでも、血を失いすぎていた。
異形が放った破壊の力も、身体の奥へ何かを残していた。
呼吸は浅い。
顔色は白い。
ときおり苦しそうに眉を寄せる。
俺は寝台の脇から離れなかった。
(息をしている)
胸が上がる。
少し間を置いて、下がる。
また上がる。
(大丈夫だ)
何度も確かめた。
呼吸の間隔が少し長くなるたび、胸の奥が締めつけられる。
寝台へ飛び乗り、鼻先へ顔を近づける。
かすかな呼気が羽根を揺らした。
(生きている)
小屋の外は静かだった。
戦場の怒号も。
剣がぶつかる音も。
助けを求める声もない。
聞こえるのは、風が木の葉を揺らす音と、遠くを流れる川の音だけだった。
二人で暮らしていた場所。
帰るべき家。
(ここなら大丈夫だ)
誰もエリシアを見ない。
黒い鎧を恐れる者もいない。
黒い鳥を不吉だと呼ぶ者もいない。
戦場へ戻ってほしいと頼む者もいない。
(ここなら休める)
そう信じていた。
小屋の中には、以前と同じものが残っている。
片方の脚が少し短い机。
エリシアが修理した椅子。
川で拾った、妙な形の石。
俺が気に入っていると思ったらしく、窓辺へ並べられた木の実。
何も変わっていない。
変わったのは、エリシアの身体だけだった。
黒い鎧は部屋の隅に置かれている。
左の肩当てはなく、胸当てには深い亀裂が走っていた。
剣はない。
異形へ突き立てたまま折れ、戦場へ残してきた。
(もう必要ない)
鎧も。
剣も。
二度と身につけなくていい。
そう思いながらも、俺は傷だらけの黒い鎧から目を離せなかった。
これまでエリシアを守ってきたもの。
同時に、何度も彼女を戦場へ連れ戻したもの。
影を伸ばし、鎧の上へ布をかけた。
(見えなくていい)
目を覚ましたエリシアが、最初に見る必要はない。
◇
三日目の夕方。
寝台の上で、エリシアの右手がわずかに動いた。
指先が寝具を掴む。
瞼が震える。
ゆっくりと、目が開いた。
「……アッシュ」
「カァ!」
思っていたより大きな声が出た。
静かな小屋へ鳴き声が響く。
エリシアが弱々しく笑った。
「……うるさい」
(悪かったな)
声が出る。
俺の名前を呼べる。
冗談を言える。
それだけで、全身から力が抜けそうになった。
エリシアは周囲を見回した。
「戻ってきたんだ」
(ああ)
「小屋まで運んでくれたの?」
(半分くらいは治療師たちだ)
最後の道程は、影で彼女の身体を支えた。
片腕を失い、意識のない人間を運ぶには、鳥の身体はあまりにも小さい。
それでも、誰かへ任せたままにはできなかった。
エリシアが身体を起こそうとする。
右手で寝台を押す。
反対側でも身体を支えようとして――動きが止まった。
視線が左へ向く。
肩から先には、何もない。
「……そっか」
静かな声だった。
「なくなったんだ」
(ああ)
俺は寝台へ飛び乗り、残された右手へ身体を寄せた。
エリシアの指が、黒い羽根を撫でる。
「変な感じ」
左肩がかすかに動いた。
「まだ、手がある気がする」
(痛いのか)
「指を握ってるつもりなのに、何も動かないんだ」
エリシアは、何もない空間を見つめる。
「痛くないのに、痛い気もする」
俺には理解できなかった。
失われたはずの腕が痛む。
ないはずの指が動いているように感じる。
身体だけが、まだ失ったことを受け入れていないのかもしれない。
「剣、持てないな」
(持たなくていい)
「もう戦場には戻れないね」
(戻らなくていい)
心の中で答える。
エリシアは天井を見つめた。
悲しんでいるようにも、安心しているようにも見えない。
変わってしまった事実を、一つずつ自分の中へ置いているようだった。
「国へ帰った方がよかったのかな」
身体が強張る。
「何が起きたのか、ちゃんと報告してない」
(報告なら、残った兵士がする)
「勝手にいなくなったみたいになってるよね」
(気にするな)
「でも……」
エリシアがこちらを見る。
「アッシュは、戻りたくなかったんだよね」
(ああ)
町で聞いた言葉が蘇る。
黒い鳥が死を呼ぶ。
黒い鎧の女が魔物を引き寄せる。
不吉な二人。
大きな戦いの後なら、噂はさらに悪くなっているかもしれない。
片腕を失った姿さえ、災いを呼んだ罰だと言われるかもしれない。
(そんな声を聞かせたくない)
エリシアはもう十分に傷ついた。
これ以上、傷つく必要はない。
しばらく考えた後、エリシアは右手で俺の頭を撫でた。
「ここで暮らそうか」
(それがいい)
「二人なら、何とかなるよね」
(何とかする)
「頼りにしてるよ、アッシュ」
エリシアが笑う。
その笑顔を見たとき。
俺は、自分の選択が正しかったのだと信じた。




