第11話 一人では行かせない
影を裂き、彼女のもとへ飛ぶ。
身体が地面へ落ちる寸前、背後へ回り込む。
影を広げ、衝撃を受け止めた。
完全には止められない。
それでも、頭から地面へ叩きつけられることだけは防いだ。
エリシアが地面を転がる。
血が土へ広がった。
(立つな)
俺は彼女のそばへ降りる。
(もういい)
異形は、まだ動いていた。
胸の核には小さな亀裂が入っている。
先ほどの衝突で無傷ではない。
だが、倒れてはいない。
(逃げよう)
影を広げれば、エリシア一人くらいなら運べるかもしれない。
試したことはない。
それでも、ここにいるよりはいい。
(もう十分だ)
片腕を失った。
これ以上戦えば死ぬ。
俺は嘴で服を引いた。
「カァ! カァ!」
エリシアの瞼が動く。
ゆっくりと目を開いた。
「……アッシュ」
(帰ろう)
声は届かない。
エリシアは残った右手を地面へついた。
(やめろ)
身体を起こす。
膝が揺れている。
血が止まらない。
(立つな)
それでも、彼女は立ち上がった。
左腕を失った身体で。
残った右手を伸ばし、少し離れた場所に落ちていた剣を拾う。
刃には大きな亀裂が入っていた。
いつ折れてもおかしくない。
「……止まれ」
エリシアが異形を見る。
声は弱い。
それでも、意志は揺れていなかった。
(何を考えている)
「ここで」
一歩進む。
足元へ血が落ちる。
「止まれ」
俺の中で、何かが切れた。
(どうして、そこまでして前へ出る)
誰も責めない。
逃げてもいい。
片腕を失った。
もう十分なはずだ。
(俺は、あんたに死んでほしくない)
届かない言葉だけが、胸の中で響く。
エリシアは歩く。
異形へ向かって。
背後の兵士たちは、誰も声を出せない。
理解できないものを見る目で、その背中を見ている。
異形が腕を上げた。
再び圧力が集まる。
先ほどほど大きくはない。
核へ亀裂が入り、力が漏れている。
(今なら)
倒せるかもしれない。
だが、エリシア一人では届かない。
(……くそ)
逃げてほしい。
戦ってほしくない。
それでも彼女は止まらない。
(なら、せめて)
一人では行かせない。
俺は翼を広げ、エリシアの頭上へ飛んだ。
「アッシュ?」
(後ろを頼むと言っただろ)
今さら逃げるつもりはない。
異形の胸。
亀裂の奥で、黒い光が脈打っている。
(俺が道を作る)
影へ潜り、異形の背後へ出る。
圧力がこちらへ向いた。
すぐ別の影へ移る。
右。
左。
上。
異形の視線も、力も、俺を追う。
破壊の波が翼の先を掠め、黒い羽根が空へ散った。
(まだだ)
エリシアが距離を詰めるまで。
あと十歩。
異形が俺へ両腕を向ける。
(こっちを見ろ)
影から飛び出し、顔の前を横切った。
圧力が追ってくる。
直前で急降下する。
破壊の波が、異形自身の肩へ当たった。
黒い表面が砕ける。
「……コ……ワ……」
初めて、異形の身体が大きく揺れた。
(自分の力なら壊せる)
エリシアまで、あと五歩。
だが、彼女の足がもつれた。
血を失いすぎている。
膝が落ちかける。
(行け)
俺はエリシアの影へ沈んだ。
足元から影を持ち上げ、身体を前へ押す。
支える。
黒い翼で、背中を押す。
「……ありがとう」
(礼は後で聞く)
エリシアが踏み込む。
異形が彼女へ気づいた。
胸の核へ力を集める。
(させるか)
俺は異形の足元にある影を一気に広げた。
沈めるほどの力はない。
だが、一瞬だけ足場を奪うことはできる。
異形の身体が傾いた。
核の位置が下がる。
エリシアの剣先と、一直線に重なった。
最後の一歩。
エリシアが全身の力を、残った右腕へ集める。
剣を突き出した。
刃先が胸の亀裂へ吸い込まれる。
硬い表面を貫く。
剣が途中で折れた。
だが、折れた刃は核へ届いていた。
「――っ!」
エリシアが柄をさらに押し込む。
「……コ……ワ……」
異形の声が途切れた。
胸の奥で、黒い光が膨らむ。
(離れろ!)
俺は影を広げ、エリシアの身体へ巻きつける。
核が弾けた。
音はなかった。
黒い光が一度だけ収縮し、内側へ消える。
異形の身体へ無数の亀裂が走った。
頭から。
胸から。
腕から。
砂の像が崩れるように、形が壊れていく。
最後に残ったのは、何の感情も宿していない顔だった。
「……マダ……」
小さな音。
「……タリ……ナ……」
言葉は最後まで続かなかった。
異形は崩れ落ちた。
役目を終えた道具のように。
◇
異形が崩れると、魔族兵たちが一斉に動きを止めた。
剣を振り上げていた者。
魔法を放とうとしていた者。
人間兵へ掴みかかっていた者。
糸を切られた人形のように、立ち尽くす。
一人の魔族兵が剣を落とした。
金属音が戦場へ響く。
隣の者も武器を落とす。
一人。
また一人。
やがて魔族兵たちは、人間側へ背を向けて歩き始めた。
撤退の号令が出たわけではない。
逃げているようにも見えない。
自分たちがなぜそこにいたのか分からず、ただ戦場を離れていくようだった。
(あれが操っていたのか)
異形が何者だったのかは分からない。
ただ、魔族兵たちの意思を奪っていた中心だったことだけは確かだった。
人間の兵士たちも追わなかった。
誰もが武器を下ろし、異形の残骸を見つめている。
勝った。
おそらくは。
それでも、歓声は上がらなかった。
エリシアは、折れた剣へ体重を預けていた。
左腕はもうない。
鎧の肩口から、血が落ちている。
一滴。
また一滴。
(座れ)
俺は右肩へ近づく。
(もう立たなくていい)
エリシアはしばらく戦場を見渡していた。
倒れた兵士。
傷ついた者。
武器を捨てて去っていく魔族たち。
そして、自分が失った左腕。
「……終わったのかな」
(分からない)
異形は倒した。
目の前の戦闘も止まった。
だが、戦争全体が終わったとは限らない。
「少なくとも」
エリシアが、かすかに笑った。
「ここでの戦いは終わったね」
(ああ)
折れた剣を地面へ置く。
残った右手を見つめ、ゆっくり握り締めた。
これまでと同じように剣を振るうことは、もうできない。
「私は、もう前には立てない」
(立たなくていい)
「……国へ戻った方がいいのかな」
その言葉に、俺は顔を上げた。
「何が起きたのか、報告しないといけないし」
(国へ?)
町で向けられた視線が蘇る。
黒い鳥。
戦場の死神。
不吉の象徴。
魔物を引き寄せる女。
片腕を失ったエリシアが戻れば、人々は何と言うだろう。
災いを呼んだ報いだと。
不吉な二人へ罰が下ったのだと。
(駄目だ)
エリシアは今、立っているだけでも精いっぱいだ。
そんな彼女へ、あの視線を向けさせたくない。
俺はエリシアの正面へ飛び、進路を塞いだ。
「アッシュ?」
「カァ!」
国へ戻る道とは反対。
森の小屋がある方角へ飛ぶ。
途中で振り返り、もう一度鳴いた。
「……帰りたいの?」
(あの小屋へ帰ろう)
エリシアは迷うように、戦場の向こうを見た。
国へ帰れば、傷を治療できる。
戦場で起きたことを報告できる。
彼女を知る者と再会できるかもしれない。
だが、多くの人間の目にも触れる。
「また、怖がらせちゃうかな」
(そうだ)
本当は、エリシアが悪いわけではない。
それでも、彼女が傷つく可能性を少しでも減らしたかった。
俺は森の方角へ向けて何度も鳴いた。
やがてエリシアは、小さく息を吐いた。
「……そうだね」
残った右手で、俺の頭を撫でる。
「帰ろうか」
戦場から逃げるという意味ではなかった。
二人で暮らした、森の小さな小屋へ戻るという言葉だった。
「私たちの家に」
(ああ)
前線の治療師たちが、エリシアの傷を最低限処置した。
国へ戻るよう勧める声もあった。
だが、エリシアは首を横へ振った。
「静かな場所で休みます」
誰も強く引き止めなかった。
異形との戦いを見た者たちは、彼女が何を失ったのか知っていた。
エリシアは歓声も報酬も求めなかった。
何が起きたのかを詳しく説明することもなく、俺と共に戦場を離れた。
片腕を失いながら、破壊そのものへ立ち向かった黒鎧の剣士。
その傍らを飛ぶ黒い鳥。
二人の背中を、兵士たちは黙って見送っていた。
「帰ろう」
エリシアがもう一度言った。
俺は右肩へ止まり、羽を畳む。
向かうのは国ではない。
誰にも見つからない、森の奥の小さな家。
そこなら、誰もエリシアを傷つけない。
戦場へ連れ戻す者もいない。
冷たい目を向ける者もいない。
(俺が守る)
そうすればいいのだと信じていた。
彼女が何を望んでいるのか、もう一度確かめることもなく。
その道を、俺が選んでしまったことにも気づかずに。




