第四話 ――帰路 ― 雪の果て ――
風の音が、耳の奥で遠く響いていた。
野橋雪ノ丈は、倒れ込むように山道を登っていた。
振り返れば、江戸の町が白く霞んで見える。
背の袋の中で、刀がかすかに鳴った。
抜きもせず、握りもしない。
ただ、その重みだけが、自分の中に残っている。
山の中腹に、崩れかけた寺があった。
屋根は落ち、柱は傾いている。
だが、雨風を凌ぐには十分だった。
雪ノ丈はそこに身を寄せ、焚き火を起こした。
火の粉が舞い上がる。
その光の中で、ゆっくりと刀を抜いた。
刃に映る自分の顔は、見慣れぬものだった。
目の奥に、何も映っていない。
「……終わった、のか」
刃についた血は、すでに乾いていた。
それでも――
広住の最期が、耳の奥から離れない。
仇を討ったはずだった。
だが、胸に残ったのは、重く沈むような痛みだけだった。
雪が寺の隙間から舞い込む。
白い粒が火に落ち、音もなく消えた。
雪ノ丈は刀を鞘に納め、そのまま横になった。
火は、何度も消えた。
そのたびに、無言で起こした。
どれほどの時が過ぎたのか、分からない。
外へ出ることもなく、ただそこにいた。
空腹はあったはずだ。
だが、それすらも遠かった。
眠りだけが、深く沈むように訪れた。
――どこかで、声がした。
「剣は、呼吸の間で斬るものだ」
草太郎の声だった。
雪ノ丈は、目を閉じたままわずかに口元を緩める。
「ああ……」
かすれた声が、火の中に消える。
「あのときの呼吸は……まだ、止まっていない」
その言葉を最後に、再び沈むように眠りへ落ちた。
やがて夜が明けた。
山の霧がゆっくりと晴れていく。
雪ノ丈は静かに起き上がった。
寺の外には、雪が厚く積もっていた。
一歩。
足跡が残る。
もう一歩。
振り返ることはなかった。
「……帰るか」
小さく呟く。
その声は風にさらわれ、どこにも届かない。
江戸の喧騒も、血の匂いも、遠くへ消えていく。
その足は、故郷・霞ヶ沢へ向かっていた。
――そこに、何が残っているのかも知らずに。




