第二話 ――江戸ゆき――
草太郎の墓の土は、まだ湿っていた。
線香の煙が風に流れ、霞ヶ沢の山を越えて消えていく。
野橋雪ノ丈は、その前に座り込んだまま動かなかった。
掌を合わせたまま、ただ静かに目を閉じている。
背後で、高早弘志が言葉を探していた。
「……江戸へ行くのか」
雪ノ丈は答えない。
だが――
腰に差した刀が、その意思をすべて語っていた。
「僕も……」
「来るな、弘志」
低く、迷いのない声だった。
「お前まで斬りの世界に落ちるな。草太郎が嫌がる」
弘志は何も言えなかった。
雪ノ丈は静かに立ち上がり、墓前に一礼する。
そして、そのまま振り返ることなく歩き出した。
春の霞の向こうへ、その背は溶けていく。
江戸・本所。
人の波が絶えない町だった。
商人の声、荷を運ぶ足音、笑い声。
すべてが入り混じり、絶え間なく流れている。
だが――
雪ノ丈の耳には、何も入っていなかった。
(……違う)
霞ヶ沢の静けさとは違う。
ここには、もっと濁った何かがある。
雪ノ丈は、無意識に刀の柄に触れていた。
――風が、重い。
やがて足を止めたのは、一軒の小屋の前だった。
〈口入れ屋 中村〉
暖簾をくぐる。
「へぇ……」
奥から現れた親方が、雪ノ丈を値踏みするように見た。
「腕に覚えのありそうな若ぇのが来るとはな」
その視線は、自然と腰の刀に向けられる。
「仕事を頼みたい」
「仕事、ねぇ」
親方は口の端を歪めた。
「斬りか? 護りか?」
「……人探しだ」
短く答える。
雪ノ丈は懐から銅貨を取り出し、机に置いた。
乾いた音が、やけに大きく響いた。
「広住秋ノ進。旗本の倅だ。行方を知らねばならん」
一瞬。
親方の眉がわずかに動いた。
「広住様、ねえ……」
その声音が、少しだけ低くなる。
「最近は忙しいらしいぜ。お武家の護衛でな」
「どこだ」
「井伊様んとこの屋敷に詰めてるって話だ」
「井伊……直弼か」
その名を口にしたとき。
空気が、わずかに変わった。
親方は笑みを浮かべたまま、目だけを細める。
「やめときな」
軽く言ったつもりだったのだろう。
だが、その言葉には確かな重みがあった。
「あの辺りは風が変だ。……血の匂いがしてる」
雪ノ丈は黙っていた。
そして、ゆっくりと顔を上げる。
「風なら、慣れている」
その一言で、親方はそれ以上何も言わなかった。
暖簾を出る。
江戸の風は冷たかった。
人のざわめきが遠くに引いていく。
空を見上げると、薄い雲の奥に灰色の陽が沈みかけていた。
「草太郎……」
小さく呟く。
その名は、もう返ってこない。
雪ノ丈は刀の柄に触れた。
確かめるように、ゆっくりと。
(斬る)
それだけが、今の自分を支えていた。
その夜。
静かに、雪が降り始めた。
音もなく、白く。
江戸の町を覆い隠していく。
翌朝。
門前に積もった雪を、人々は踏みしめていた。
そして――
その日を、後に人々はこう呼ぶ。
桜田門外の変。




