第一話 ――序章・雪に至る前夜――
その日、風は穏やかすぎた。
後に血の匂いに変わるとも知らずに。
相模の南、霞ヶ沢の里。
春の気配が残る中、村はずれの市原道場から竹刀の音が響いていた。
「はっ!」
乾いた音が弾ける。
野橋雪ノ丈は一歩退き、打たれた腕の痛みよりも、向かいの男の笑みに苦笑した。
「今日も負けたな、雪ノ丈」
「竹刀だからだ。真剣なら、どうかな」
「口を言うな。お前は力で押しすぎる」
市原草太郎は竹刀を肩に担ぎ、軽く息を吐いた。
「剣は、呼吸の間で斬るものだ」
その言葉は、妙に胸に残った。
雪ノ丈は、ほんの一瞬だけ思う。
――自分には、その“間”がまだ掴めていないのではないか、と。
道場を出ると、夕暮れの風が頬を撫でた。
――嫌な匂いがした。
気のせいだと思った。
だが、その違和感は胸の奥に引っかかり続けた。
「やあ、雪ノ丈。今日も負けたのかい」
門の前で、高早弘志が待っていた。
「うるさい」
「ははっ、飲もうよ。あの勝ち気な先生に負けたんだ、今夜ぐらい酔いなよ」
二人は村の小さな居酒屋で盃を交わした。
酒は甘く、弘志の笑い声が響く。
それでも、胸の奥の違和感だけは消えなかった。
夜、帰路につく。
そのときだった。
――はっきりと分かった。
血の匂いだ。
「……なんだ?」
月の光の下、道の端に黒い影が横たわっている。
駆け寄った瞬間、雪ノ丈の呼吸が止まった。
「草太郎!」
着物の背が裂け、血が土に吸い込まれている。
雪ノ丈が抱き起こすと、草太郎の唇がわずかに震えた。
「……ゆき……の……じょう……」
「誰にやられた!」
「……ひろ……ずみ……あきのしん……」
その名が、風に溶けた。
草太郎の手が、雪ノ丈の袖を掴み――
そして、静かに落ちた。
「なんでだよ……なんで草太郎さんが……」
弘志の声が震える。
雪ノ丈は答えなかった。
草太郎の胸に掌を当てる。
温もりは、もうなかった。
――遅かった。
ほんの少しでも早ければ。
あの時、違和感に従っていれば。
そんな考えが、一瞬だけ脳裏をよぎる。
だが――
「……背から斬ったか」
雪ノ丈は静かに呟いた。
「武士の恥だな」
ゆっくりと立ち上がる。
その瞳に、初めて冷たい光が宿った。
――藩主催の剣術試合。
草太郎は勝ち、広住秋ノ進は観衆の前で叩き伏せられた。
その夜から、あの男の目には狂気が宿っていた。
「弘志」
「……なんだ」
「俺は行く」
「どこへ?」
「江戸だ」
わずかな間。
「……あの男を斬る」
風が止んだ。
春の夜は静まり返り、鳥の羽ばたきだけが遠くに響いた。
江戸・本所。
往来の中に、木札を掲げた一軒の小屋があった。
〈口入れ屋 中村〉。
雪ノ丈は暖簾をくぐる。
「へぇ、珍しいねえ。腕に覚えのありそうな若ぇのが来るとは」
奥から現れた親方が、雪ノ丈の腰の刀に目をやった。
「仕事を頼みたい」
「仕事? 斬りのかい? それとも護りか」
「……人探しだ」
雪ノ丈は懐から銅貨を取り出し、机に置いた。
「広住秋ノ進。旗本の倅だ。行方を知らねばならん」
その名を口にした瞬間――
胸の奥で、何かが静かに燃え上がった。
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