第十話 ――余燼 ― 新たなる影 ―
夜風が、血の匂いを運んでいた。
野橋雪ノ丈は、倒れ伏す本間の亡骸を見下ろしていた。
手にした刀は、わずかに震えている。
(……終わった、か)
吐く息が白く揺れ、月の光が刃の血を鈍く照らした。
そのとき――
背筋をなぞるような視線が走った。
雪ノ丈は反射的に身を翻し、刀を構える。
闇の向こう。
松の木陰に、ひとりの男が立っていた。
最初からそこにいたかのように、動かない。
背は高く、黒羽織。
腰の刀に手はかけていない。
ただ、その眼だけが夜気を裂いていた。
「……誰だ」
低い声が、静かに落ちる。
男はゆっくりと歩み寄り、片手を上げた。
「待て、はやまるな。俺は本間に用があった」
視線を亡骸に落とす。
「……だが、手遅れのようだな」
雪ノ丈は構えを崩さない。
「俺は野橋雪ノ丈。あんたは」
男は、わずかに笑った。
「切原善蔵――そう名乗っておこう」
「本間に、何の用だ」
「連れ戻しに来た」
雪ノ丈の眉が、わずかに動く。
「本間は任を外れ、上意を無視してここへ来た。
上からは命じられていた――“従わぬなら斬れ”とな」
感情のない声だった。
「……だが」
切原は亡骸のそばに膝をつき、そっと瞼を閉じさせる。
「俺の出る幕は、なくなったらしい」
短く息を吐く。
「すまんな、本間」
それだけ言って立ち上がった。
雪ノ丈は刀を納めず、低く言う。
「このまま帰すわけにはいかんな」
切原は薄く笑った。
「やめておけ」
風が吹く。
草が揺れる。
「俺とお前が刀を抜けば、どちらかが死ぬ。……今夜は、その時ではあるまい」
しばしの沈黙。
「広住の件、上には報告せぬ」
切原は静かに続けた。
「証もない。死人の名を並べる意味もない」
雪ノ丈は黙って見つめる。
切原は刀の柄に軽く触れたが、抜くことはなかった。
「いずれ機会があれば――」
わずかに口元を上げる。
「その腕、確かめさせてもらう」
そう言い残し、本間の亡骸を背負った。
その背は、真っ直ぐだった。
迷いがない。
やがて闇に溶ける。
足音も消えた。
静寂だけが残る。
雪ノ丈はしばらく、その場に立ち尽くしていた。
やがて刀を下ろし、ゆっくりと鞘に納める。
夜空の月は雲に隠れ、風がまたひとつ、血の匂いを運んでいった。
――新たな影が、動き始めていた。




