第二百十二話
一五三六年十一月 越中城ヶ崎城
十一月も中旬に差し掛かり、朝晩は幾分冷え込む日も増え始めた。
この日僕は居城・越中城ヶ崎城の執務室で内政の仕事を行っていた。
帝の即位礼で遠征をしていた関係で、先にも述べた通り領内の年貢・税収の取りまとめをしなければならない。
もちろん領内においては内政の分業を進めているのだが、それでも今回は朝廷への献金も絡んでくるので、どうしても僕の関与が必要となってくるのだ。
「御屋形様!元気か?」
そんな中、長岡六郎、もとい、細川永元が元気の良い声で部屋の中に乗り込んで来た。
まったくこいつは遠慮が無い。
まさにズカズカと乗り込んで来た、と言う表現がぴったりだ。
「む、六郎か。俺が忙しくしていると言うのに、いったい何の用だ?」
「つれない事を言うなよ、御屋形様。」
細川永元は意に介さず、僕の眼前にズカっと腰を下ろした。
召し抱えた当時から変わらず生意気な奴だ。
「まったくお前は仕方のない奴だな。」
「そう言わないでくれよ。弥五郎殿の代わりに、茶を持ってきたと言うに。」
細川永元が水筒を持ち上げた。
「まぁ、少し休憩するか。」
「そうだぞ。御屋形様が働き者なのはおれも知っているが、休憩も必要だと思うぞ。」
細川永元が湯呑に麦湯を注ぎ、僕に手渡してきた。
まぁこんな奴だが、思いやりはある方なんだよな。
「うむ、ありがとう。む、これは…」
僕は茶を口にした。
その味わいは緑茶や麦湯のそれとはなんか違うな。
「なるほど、これは茉莉花茶だな。」
「じゃ、じゃす? 何を言っているんだ?」
ああ、ついうっかり。
しかし茉莉花茶の日本語言いかえは何だ?
「あ、いや……『茉莉花の茶』と言ったのだ! …これは明から輸入したものと思うが、どうか?」
僕は冷や汗を押し殺し、暖かいお茶を啜りながら、平静を装った。
帝の即位礼が無事に終わり、気が緩んでしまったのかもしれないな。
「そうだ。おれの正室である青が狩野屋の店舗で明からの貴重な茶と言う事で見つけて来たんだ。…なぁんだ、御屋形様は知っていたのか。」
細川永元が少し残念そうな表情になった。
「あ、いや。知ってはいたが飲むのは初めてだぞ。この茶は落ち着く効果があるからな。礼を言うぞ、六郎。」
「そ、そうか。良かった良かった。おれの妻も喜ぶぞ。」
細川永元の表情がぱあっと明るくなった。
細川永元とその妻、青姫が結婚したのはもう六年程前になるか。
「そうそう、御屋形様。報告があるんだが良いかな。」
「ああ、何だ?」
「…妻が懐妊したようなんだ。」
「ほう、それはめでたいではないか。」
細川永元の妻である青姫だが、おそらくは後に青岩院と呼ばれた女性だと思われる。
思われる、とはっきりしない表現だが、この歴史では長尾為景が既に死去しているため、その側室にならなかったこの青姫が、長岡六郎(細川永元)に嫁いできたのだ。
史実では青岩院はかの有名な上杉謙信を生んだわけだが、この歴史ではそれが発生しなかった。
そんな青姫が懐妊した子が男子であれ女子であれ、史実では生まれる事のない子供というわけだ。
「御屋形様が上洛している時に分かったんだよ。」
「そうか。管領・細川道永様には文は出したのか?」
「ああ。…ところで義叔父上いや、義父上は元気にされていたか?」
「おおよ。年甲斐も無いほどにな。」
「なれば良い。波多野殿の丹波にしばらく籠っているおいでだろうから、心配しておったのだ。」
「世継ぎか姫か分からんが、子が生まれたら越中に招待すると良いだろう。管領様の事だ、喜んでここにやってくるぞ。」
「ははは、違いないな。」
細川永元が大きな声で笑った。
「ところで御屋形様。おれと青の子が無事生まれたら、名は何が良いかのう?」
「む、随分気が早いな。それは幼名の話か? 細川京兆家は代々聡明丸と名付けているんじゃないのか?」
「うーむ、そうだが、おれは自分が細川の御曹司だと思っていないからな…」
うーむ、それはそうか。
我が神保家の家臣になったことで歴史だけでは無く、意識まで大きく変わってしまったのかな。
「なるほどな。」
「…御屋形様、何か良き名を付けてもらえないか?」
「お、俺がか!?」
「おれではどうにも思いつかなくてな。御屋形様の発案であれば青も納得するだろう。」
うーむ、突然そんなことを言われてもな…。
そうだな…。
「…では世継ぎなら虎千代、姫なら虎姫はどうかね? 青姫は中々に凛とした女子ゆえ、よう合っておると思うのだが。」
すみません、この歴史では生まれる事のない謙信さん。
ちょっとパクらせてもらいました!
「虎千代に、虎姫、か。」
細川永元はその二十二歳の瞳を劇的に輝かせると、何度もその二つの名を口の中で反芻するように呟いた。
その顔は、もはや細川の御曹司といった形式的なものではなく、一人の我が子の未来を想う父親そのものの、最高に嬉しそうな笑顔へと変わっていた。
「御屋形様。それはまことに好い名前じゃ! 虎の如く勇猛に、されど青のように凛とした気品を持つ子……。御屋形様から頂いた名であれば、青も間違いなく大喜びするだろうよ!」
「は、ははは。そうだろうそうだろう。そう喜んでもらえると、俺も考えた甲斐があったと言うものよ。」
これは歴史からパクったなどとは言えないな。
「青殿には後日、明から輸入させた希少な薬草や干し鮑など滋養のある食べ物等を届けさせよう。大事な時期であろうからな。俺から狩野屋市兵衛に話しておこう。」
北山協定内、とりわけ越中の医療水準は他国に比べかなり高い。
それでも現代のそれには及ばないわけで、目の届く範囲くらいは最善を尽くしていきたい。
最終的には領内津々浦々まで高度な医療を届けたいものだ。
「そ、そこまで…。ありがとうございます、御屋形様。青は少し無理をしがちな気性ゆえ、こうして御屋形様から直々に滋養の品を頂ければ、これ以上の安心はございませぬ。改めて、深く御礼を申し上げまする。」
細川永元が深々と頭を下げた。
それを見て、僕は茉莉花茶の湯呑を机の上に置いた。
「さて休憩は終いだ。俺は今日中に領内の税収について纏めをせねばならんのだ。」
「はっ。…であればおれも手伝おうぞ。」
「そうだな。愛妻と、生まれてくるであろう子の為に励まねばならんぞ。」
「そ、そうだな。」
若干目が泳いでいるようだが、流石に仕事で甘えさせるわけにはいかないぞ。
「…とりあえず六郎。お前は年貢以外の手工業、我が領内が誇る和紙や手芸の税収のほうをな。もともと手工業はお前が見ていた分野もあるからやりやすいだろう。見てもらいたい点は…」
僕は資料を広げながら細川永元に説明を行った。
かつて越国内において一向一揆の暴動や、長尾為景の侵攻などの戦火により、兵役で夫を亡くした未亡人や身寄りのない孤児が数多く生まれてしまっていた。
その悲劇の救済策(人道インフラ)として、僕らは越国内に職業訓練校も兼ねた和紙や手芸の工場を普請し、彼女らが自立して暮らせる仕組みを整えてきたのだ。
そして、その優しき新産業の事業のを、責任者として泥にまみれて最前線で動かしてきたのが、他ならぬこの細川永元という男であった。
何だかんだ、細川永元は優秀な男だから、何とかやってくれると言うものだ。
そしてこの後、僕と細川永元は暗くなるまで、仕事を進めていくのであった。
史実で青姫…青岩院と言えば上杉謙信を生んだのでした。虎千代と言うのはその幼名になります。
何か月か後に生まれる細川永元・青姫夫妻の子が男子であれば細川虎千代となるわけですね。私は上杉謙信女性説をとっていませんので、姫の場合は単純に「虎姫」と考えたわけです!




