第二百九話
一五三六年十月上旬 洛中(内裏・清涼殿)
公式の拝謁が終わり、二条尹房や山科言継が、顔面蒼白の近衛稙家を促して清涼殿の広間から退下していく。
僕は近衛府の少将としての職務通り、彼らの退出を見届けてから最後に一礼して去ろうと、静かに畳へ手を突いた。
だが、その時だった。
「長職。そなたは、そのまま残れ」
既に他の公家らたちの姿が無くなった清涼殿の静寂に、後奈良天皇の、先ほどよりも一段とトーンを落とした、だが信頼に満ちた御声が響いた。
「ははっ……?」
驚いて顔を上げた僕の視線の先で、パタン、と、清涼殿の重い障子戸が足音もなく静かに閉め切られた。
近衛稙家を門前まで送り届けたはずの二条尹房と、内蔵頭・山科言継の二人が、すべてを察したように男前な唇の端をニヤリと吊り上げて、音もなく僕のすぐ横へと戻り、居並んだのだ
う、ううむ、これは何とも言えないメンバーだな。
関白。それは日本の朝廷で、成人の天皇を補佐し政務を司る、言わば朝廷の最高職だ。
史実において、豊臣秀吉が関白を目指したのも、その権威の高さゆえであろう。
また内蔵頭と言うのは朝廷の宮廷の財政を司る要職だ。
これに就いている山科言継と言えば、逼迫した財政の建て直しを図っていた苦労人だ。
「人目が無くなったな。ささ、長職、もっと近く、その御帳台の畳まで近う寄れ。」
み、帝は何てことを仰るんだ?!
先程の位置でも十分近いと言うのに、そこまで近寄ったら、まさに手が届いてしまう距離では無いか!?
「お、恐れながら…」
「何じゃ、長職よ。」
「某のような田舎侍に、何故その様な事を…?」
これが率直な気持ちである。
現代の感覚であっても、時の帝にここまで接近できることは中々考えにくいからだ。
「…先も言ったが、そこまで謙遜されると逆に嫌味だの。のう、関白よ。」
「左様。帝は少将の忠義、働きを高く評価しておいでじゃ。」
「そう言う訳じゃ。さ、近う寄れ。」
そこまで言われて反論するのは逆に不敬か。
「で、では、失礼いたしまする。」
僕は二条尹房らと共に帝の近くに寄った。
まるで密談を行うかのようだな。
「表向きの即位礼の形式など、先程で終わりじゃ。朕が真にそなたたちと回したいのは、この先の『この国の安寧(真の裏相談)』の話よ。」
眼前におわす、後奈良天皇という御方の人となり。
それは国家国民を想い、民の豊穣を願う、そして学問にも秀でた賢君であったと言うのがもっぱらの評判だ。
ただこの時代の情勢がそれを許さず、その想いがあまねく民に届くことは無かった。
「長職、朕は長年この内裏に閉じ込められ、民の苦しむ姿を直接見に行くことすらできなんだ。なれど、此度の即位礼を無血で完遂させた暁には、いつか近場でもよいから、この京都の民の元へ行幸をして直に声をかけてやりたいのだ。」
形式上帝が治めるべき日ノ本であるが、この戦国乱世の中ではこれが現実だ。
「だがな、先程も言ったように朝廷には金が無い。…そして軍事力も無い。そなたが務める近衛府の職務も、最早名ばかりのものになり下がってしまったのだ。そこに、そなたのような力を持った忠義者が現れたと言うものよ。」
「…つまり某に、銭と兵を出せと?」
「ほほほ、急に正直者になったの。」
「こ、これは失礼致しました。」
「良い。ここにおるは、朕が信を置く者のみ、故な。」
帝が扇で合図を送った。
それを受け、内蔵頭・山科言継が帳簿を広げた。
「少将殿、これが現在の朝廷の現実なのだ。…先も帝が自ら宸筆を寺社にお売りになっている状況だ。内裏の調度品を売った事もあるくらいでな。」
山科言継が苦渋に満ちた表情で話し始めた。
帳簿に書かれた数字は、まさに厳しい台所事情が示されていた。
「内蔵頭様。帝の御料地からの収入はほぼ無いと言う事ですか。」
「左様。主な収入は少将殿のような武家からの献金と言うのが実情だ。」
まぁそれは勘付いていた事ではあった。
史実では周防周辺で一大勢力を築いていた大内義隆あたりが多額の献金をしていたはずだ。
その他にも織田信秀のように朝廷工作として献金を行っていたと思う。
しかしながら神保家を主として北山協定名にて、朝廷に対し相当な献金を行った。
そして広橋兼秀や二条尹房のような公家にもそれなりの心付けを行ってきた。
まぁつまり賄賂と言う事であるが、この時代だから勘弁してほしい。
もしかしたら僕が割って入った影響で、大内義隆などの大名の献金が史実より少なかったのかもしれない。
「内蔵頭様、承知仕った。では我が領内の年貢や税の集計が終わり次第に、年末の献金について調整させていただきましょう。」
今年はこれまでに京鳴滝城の普請等それなりに投資をしてきたが、領内の産業も順調であり、献金は可能であろう。
「ま、真であるか。少将殿の帝への忠義、い、痛み入る!」
山科言継が顔を綻ばせた。
この人は三十手前くらいの年齢であったと思うが、冠の脇から覗く髪には白髪が見られた。
きっと苦労しているのだろうな。
まぁ帝の威光があれば、三好康長ら神保家在京家臣や、狩野屋が動きやすくなるだろう。
「…帝。御身を守護致す兵については、申し訳ございませんが、一年程時間を頂きたい。現在帝の即位礼の守備の為に我が同盟として五千の兵を擁しておりますが、我等も自領の守りもありますれば、即位礼が終われば撤兵をしなければなりません。更には御身を守護致すのであれば、兵の練兵や兵站の準備等も必要です。」
「さもあろうな。そなたとしては如何ほどの兵を準備出来る感じじゃ?」
「二条関白様の御料地に普請した京鳴滝城には五百の兵は残します。必要あれば一年以内に更に千の兵を増派出来る事でしょう。」
「さ、左様か。それはありがたい。公方ら侍所などは理由をつけてのらりくらりと朕の言葉をかわし続けるのだ。」
「左大臣様にお命じになられても、ですか?」
「公方べったりの左大臣に言っても先に進むと思うてるのか?」
「ま、まあそれは…」
それは無理だよな。
「長職よ。無理に急かすつもりはない故、何卒良しなに頼むぞ。」
「ははっ。それはもう、心得ておりまする。」
僕の返事を受け、帝は満足そうに頷いた。
「先程も申したように、朕としてもそなたの忠義には出来るだけ報いたいのだが、何か朝廷への要望は無いのか?」
「は、はぁ…。某は現状でも既に満足しておりますが…」
「なんとも、長職は欲が無いものよの。」
うーん、これは管領・細川道永にも言われたような気がするな。
これは何か要望したほうがいいのか?
「…さすれば将来的に御身をお守り致す中で、もし我が同盟各家も帝への忠義を示せるならば、参加した各家へ御恩を頂くことは出来まするか?」
先程は神保家で千の増派を目指すと言ったが、北山協定の同盟各家からも兵を捻出できればどうだろう?
「ほほほ! 己の手柄ではなく、同盟の者たちへの御恩を乞うか。長職、そなたはまっこと、欲が無いどころか、底知れぬ名盟主よの?」
僕のの提案を聞き、帝はいたく感じ入ったように、上機嫌に深く目を細められた。
横に控える二条尹房や山科言継も、
「少将殿のその器の広さ、これぞ真の武家の棟梁の器。帝、これならば朝倉や上杉ら諸家も、神保の元で喜んで内裏を永久に守護いたしましょう。」
と、これ以上ないほど満足げに深く深く頷き合っている。
「うむ、約束しよう。長職の率いる同盟各家が朝廷への忠義を示すならば、朕自らの口から、それぞれの家へ相応の官位や感状、最高の御恩を授けてしんぜよう。長職、これからの日ノ本の安寧、そなたたちの協定に預けるゆえ、頼んだぞ。」
「ははっ。恐悦至極にございまする。この長職、命に代えましても即位礼を完遂させ、帝の御期待に報いてみせましょう。」
僕は武官束帯の袖を正し、帝へ頭を下げた。
さて幸か不幸か、いや、これは北山協定にとっては確実に『幸』であろう。
こちらから好んで公方へ喧嘩を売るつもりは無いが、向こうから喧嘩を売ってくるかもしれぬ。
史実を見れば、それは分かる訳だ。
帝や朝廷への繋がりを持っていれば、有利にコトを運べることだろう。
帝への謁見その2です。公式な場での話し合いではありませんが、帝からの願いが語られました。




