第二百八話
一五三六年十月上旬 洛中(内裏・清涼殿)
カツ、カツ、と、磨き上げられた内裏の廊下に、僕の履物の音が静かに響き渡る。
――ついに、この時が来た。
京鳴滝城で管領・細川道永や同盟大名たちとの作戦会議を終えた数日後、僕は着慣れた肩衣や袴、陣羽織を脱ぎ、黒を基調とした正装である『武官束帯』に身を包んでいた。
腰には太刀を帯び、手には笏を持ったものだ。
波多野秀忠の『備前守』というような自称の武家官位とは格の違う、帝から直々に拝領した従五位下・左近衛少将としての所謂公式なものだ。
内裏の東西南北の門には、我が神保軍・黒備えの精鋭が守りを固め、現代の距離にして数百メートル程先に駐屯する『侍所』を称する公方の一軍(その内の多くは一向一揆衆)へ睨みを利かせていた。
なお六角定頼の軍勢は内裏から見て公方勢から反対側へ着陣しているようだ。
遠巻きにこちらを覗く位置ではあるが、逆に敢えてかどうかは分からないが、我等から見えやすい場所にいるとも言えた。
「左近衛少将・神保長職殿。これより御前へ」
武家伝奏である広橋兼秀の静かな先導により、僕は内裏の最深部たる清涼殿の奥座敷へと足を踏み入れた。
…とその前に、太刀は広橋兼秀に預けておいた。
しかし、こんなことは史実ではありえない事だ。
史実での神保長職は周辺の脅威により滅びを待つばかりの、ただの田舎侍で終わっていた筈だ。
そんな神保長職は、権威中の権威である、天皇陛下の御前へ参上しようとしているのだ。
…帝と言えば御簾で姿形を隠した形式で謁見するんだったかな。
それが歴史小説やゲームの影響から脳裏に浮かんだものだった。
現代の天皇陛下のように日本各地に行幸され、国民と触れ合うような、そんな事は時代や情勢が許さなかったはずだ。
だが、その瞬間の光景は、室町・戦国の朝廷の伝統からはとても考えつかないものであった。
本来ならば、武家が帝と対面する際は必ず遮られているはずの御簾が左右へ綺麗に開け放たれていたのだ。
「こ、これは前代未聞であるぞ。二条関白め、これほど神保を依怙贔屓するとは…」
その様な事を呟きながら鋭い視線を送ってくるのは、左大臣・近衛稙家だ。
彼は僕が御簾が開け放たれた状態で帝の謁見するこの現実を見て、まるで呪詛の様に独り言を呟きながら、大量の冷や汗を流し、唇を震わせていた。
この男はパリパリの公方派だから、それも致し方なかろう。
ま、見なかったことにしよう。
周りを見回すと、ここにいたのはまさに帝の側近とも言うべき公家達であった。
関白・二条尹房、
左大臣・近衛稙家、
権中納言(兼武家伝奏)・広橋兼秀
内蔵頭・山科言継。
その他にも名門名家の位階が高い公家が控えていた。
さて声を掛けられるまでは、帝の御尊顔を見ることはできない。
僕は額を床に擦り付けんばかりに平伏した。
静まり返る清涼殿の奥座敷。張り詰めた静寂を破り、御簾の向こう側――いや、最初から完全に開け放たれている御簾の先から、穏やかでありながら深く響く、高貴なお声が発せられた。
「面を上げよ、神保近衛少将。」
「ははっ!」
僕は武官束帯の袖を静かに正し、ゆっくりと面を上げた。
本当に、最初から御簾が全て左右へ綺麗に開け放たれており、時の帝・後奈良天皇の玉顔がダイレクトに僕の目の前に降臨していたのだ。
これが国家の象徴たる、最高権威と言うものか。
僕はこの時代にやってくる前、時の天皇陛下が故郷の町を行幸された際の車列に出くわしたことがあった。
その時にはパワーウィンドウを開けられた状態で皇后陛下が穏やかな笑顔でこちらに手を振って下され、おそらく奥にいらっしゃった天皇陛下の御尊顔を拝見する事は出来なかったが、それでも国の象徴たる、まさにオーラに近いものを拝見した気がしていた。
眼前の帝から感じるものは、こんなことを言っては不敬に当たるかもしれないが、それに勝るとも劣らないものであった。
それでも即位してからここまで多大な苦労をされてこられたのだろう。
所々お疲れの様子も垣間見えていた。
「ば、馬鹿な…。まさか真に神保相手に御簾無し等と…」
近衛稙家は相変わらずの呪詛であった。
「左大臣様、それは実務を分からぬ暴論というもの。静かになされよ。」
すかさず、僕の多額の献金に大感謝している(と思われる)内蔵頭・山科言継が近衛稙家を黙らせようとしていた。
「内蔵頭も、かの田舎侍に絆されたと言うのか?」
「そうではありませぬ。しかしながら近衛少将は多額の献金を朝廷になされ、此度の即位礼もそのお陰で出来るのですぞ? 帝の即位礼こそ、ここ十年来の悲願と言うもの。それに少将は形骸化していた近衛府としての職務を果たすべく、精鋭にて警護までしてくれているのだ。まさに忠臣と言うものですぞ。」
「ぐ、ぐぬぬ……っ!」
いいぞ山科さん、もっと言ってくれ。
僕は何も言わないから、その左大臣をもっとやり込めてあげて欲しい!
近衛稙家が顔を真っ青にして大量の冷や汗を流すのを見届けると、ここで、パチンと扇を鳴らす小気味良い音が清涼殿の静寂に響いた。
「そこまでにせよ、左大臣。帝の御前なるぞ。」
二条尹房が僅かな動作で制したのであった。
なるほど、これが公家達の戦か。
我等のような武家のそれと違ってこの場での死傷者が出る事は無いのだろうが、これはこれで恐ろしいものだ。
「少将よ。朕がこの国の主、後奈良である。此度の上洛、ならびに即位礼への至れり尽くせりの寄進、まっこと大儀であったぞ。そなたの忠義の心に、朕もいたく喜んでおる。」
「ははっ!勿体無き御言葉!有難き幸せにございまする。不浄な銭なれど、帝のお役に立てたのであれば、これ以上の幸いはございませぬ。」
僕は武官束帯の袖を静かに正し、最大級の格式を以て再び深く平伏した。
「ははは、少将よ。楽にするのだ。そなた程の忠臣をそこまで畏まらせては、罰が当たると言うものよ。のう、関白よ。」
「左様にございますな。私もこの乱世、帝への忠義において少将の右に出るものはおりませぬ。」
帝や二条尹房の言葉を受け、僕は再び横目で近衛稙家を見た。
近衛稙家からはもう生気が感じられないな。
自らが肩入れしている公方・足利義晴への皮肉を言われたわけだから。
「帝や関白様がかようなお言葉を掛けてくださるとは、何と感謝を申し上げればよいか…」
「ははは、恐縮するのもそこまでにせい。ささ、近う!」
「は、ははっ。それはしかし…」
いや、流石にそれは良いのだろうか?
帝が僕に全幅の信頼を置いて下さっているのは嬉しい限りなのだが、僕のような田舎侍が帝に近付くなど…。
「ほほほ、少将殿。何をそこまで畏まっておいでか。帝が近うと仰せなのじゃ、ささ、前へお進みくだされ。」
戸惑う僕の背中を押すように、横から二条尹房が閉じた扇をパチンと鳴らして笑いかけた。
僕は二条尹房の方へ少し視線を向けると、彼は僅かに頷いた。
これはもう覚悟を決めるしかない。
僕は意を決し、武官束帯の裾を捌きながら、スッと数歩前へと膝を進めた。
…近い。
現代の距離にして僅か一メートル程。
最初からすべて開け放たれた御簾の先、時の帝・後奈良天皇の気高き威光が、文字通りダイレクトに僕の五感を包み込んでくる。
「少将よ。敢えて長職と呼ぶが良ろしいかな?」
「ははっ! 勿体無きお言葉、恐悦至極にございまする。この神保長職、いかようにとお呼びくだされ!」
僕は武官束帯の袖を正し、右手の笏を畳に据えて、最大級の礼節を以て再び深く平伏した。
帝から直々に諱で呼ばれるという事実。
それは、僕を遠い地方の野蛮な侍ではなく、内裏の最深部に仕える『真の忠臣』として認めるという、朝廷における最上級の信頼の証に他ならなかった。
「な、な…っ!?」
すぐ横で聞いていた公方派の最高峰・近衛稙家が、今度こそショックのあまり白目を剥いて卒倒しかけているのが、僕の視界の端に見えた。
自らが肩入れしている公方ですら、朝廷からは職名でしか呼ばれぬというのに、僕が帝との距離を完全に中抜き突破したのだ。それも当然の反応だろう。
帝は僕の顔をじっと見つめ、声のトーンを少しだけ落として力強く宣言された。
「長職よ。此度の即位礼の儀、そなたの敷いた精鋭にて警護を完遂した暁には、そなたを左近衛中将に任じようと思うておる。」
「そ、それは真にございますか!?」
「うむ。朕としては褒美もやりたいと思うたのだが、如何せん、朝廷には金が無い。なれど、そなたの忠義には報いたいと思うてな。」
「それはまっこと恐悦至極にござりまする。帝の御恩に報いるべく、この神保長職、身を粉にして働きまする。」
「ははは、簡単に身を粉にして無くなってしまうのは朕が困ってしまうぞ。これからも長職には色々と相談に乗ってもらわねばならぬのだからな。」
帝はとても上機嫌な表情を浮かべられていた。
他方、近衛稙家は今にも消え入りそうなほどに顔面蒼白になっていた。
うん、見なかったことにしておこう。
ついに神保長職が昇殿を果たし、帝と謁見を致しました!
表現には気を付けたつもりですが、何か間違いがあったら申し訳ございません!




