第二百五話
一五三六年九月下旬 上賀茂某所
帝の即位礼に絡む、この京での情勢。
それは(もっとも、この時代の日本にはそんなものは無いが)時計の秒針の進むが如く、動き始めた。
時は九月も下旬、徐々に残暑も収まってきた良き陽気の日の事だ。
この日僕は洛中から少し外れたあたり、上賀茂にある由緒正しき神社を訪れていた。
北山協定としての存在はまだ秘匿していたのもあり、僅かな供を連れての行動だ。
もっとも周囲は薬売りや偵察部隊による索敵を十分に済ませているし、複雑な京の情勢下では、如何なる勢力も大っぴらに<許可を得ず>軍勢を展開する事はあまりない。
野盗やそれに類する輩にさえ注意すれば、現状それ程危険であるとも言えないのだ。
それに三好康長が発案した、『京都見廻組』の治安維持部隊も徐々に機能してきているようだ。
『京都見廻組』はここまで、既に二百名程の警察部隊に成長してきていると聞いている。
この組織のトップである『洛中守護長官』に就任した竹内季治なる若者が、公家とは思えない程に肝が据わった男の様だ。
まぁこの組織は建前上独立した組織であるから、表立っての関与は避ける事としよう。
もっとも、在京総代である三好康長には目をかけ続けてもらうがな。
さて僕はこの神社の参集殿にて待っていたのであるが、少ししてまさに雅な出で立ちの男が姿を現した。
「ほぅ、貴殿が噂の、神保近衛少将であるか。」
その男は扇で口元を隠しながら優雅に僕の横を通過すると、自然に上座に収まった。
「ははっ。某が帝より従四位下・左近衛少将を賜りました、神保長職にございまする。卿が、二条関白様にございますか?」
「如何にも。身が関白の二条尹房である。そなたの噂は、広橋武家伝奏から聞いておるぞ。是非会うてみたかったものだ。」
「左様にございますか。良き噂、であれば、田舎侍である某としても嬉しい限りにございますが。」
「ほほほ、言いよるわ!」
イメージ通りの公家らしい笑いを浮かべると、二条尹房はパチンと扇を閉じた。
「…そなたをはじめとした北山協定の面々による献金により、帝の即位礼の準備も滞りなく進んでおる。帝のお近くに仕える身として、改めて礼を言うぞ。そなたの忠義の心に、帝もいたくお喜びだ。」
「ははっ。不浄な銭なれど、お役に立てたのであれば幸いにござる。…それで即位礼の儀の日取りはお決まりになられたのですか?」
「大体はな。今からひと月後になる見込みだ。数日内には、我が二条家、ならびに広橋武家伝奏の手より、在京の公家衆や各守護大名の留守居役へ向け、日取りを命ずる公式の『御教書』を一斉に発給させる手筈になっておる。」
「ほう、一斉に、にございますか」
「如何にも。公方や近衛左大臣めが何かやっているようだが、そなたが『御教書』を受け取った後ならば、大っぴらに動けるようになろう。」
「承知いたしました。当家としましても、近衛府としての責任を果たすべく準備を進めておりまする。…ああ、それはそうと。」
僕は懐から、和柄の巾着を取り出した。
「二条関白様のお陰で、”鳴滝の林業”も順調に進んでおりまする。…これは細やかな御礼にございまする。」
「ほう、そうか。かの地は身の所領なれど、持て余していたゆえ、な。」
「我が神保家はそのような地を活かす業を心得ておりますれば。是非、お納めください。」
「左様か。では、ありがたく頂戴しよう。」
二条尹房は巾着を受け取ると、ゆったりとした動きで懐へ納めた。
この後も僕は二条尹房といくつかの話を続けた。
他愛もない内容のものから京・洛中の情勢など、詳しい話は割愛するが、それなりの会談であったと言えよう。
さてこの二条尹房と言う男であるが、一言で言えば”狸”だ。
この時代の公家と言えば実権を持たず(持てず)武家に振り回されていたと思われがちだが、いやもちろんそのような者もいたとは思うが、従一位ほどの位階を与えられたこの人物は、やはり並大抵の者では無い。
彼等は彼等なりの戦い方を知っていると言えよう。
「さて近衛少将よ。そなたにここに来てもらったのはもうひとつ目的があってな。」
「はて、その目的とは?」
「…おい、連れて参れ。」
二条尹房がパンと手を叩いた。
少ししてやってきた人物は、僕としては少し以外な人物であった。
「…これはお久しゅうございますな。六角様。」
「うむ、左様ですな。」
その人物は、何と六角定頼であった。
六角定頼は僕から少し離れた場所に座った。
「二条関白様、お召しにより罷り越しまして御座います。」
「うむ、ご苦労。六角弾正少弼よ。まぁ楽にすると良いぞ。」
ふむ。
少し前に甲賀の忍びを捕らえて繋ぎを付けようとしていたばかりだったのだが、まさかこんな形で六角定頼に会う事になるとはな。
「目的とは、某を六角様に引き合わせる、と言う事でございますか?」
「そうよ。そなたは近衛府として内裏を守護する者、そして弾正少弼そして京内の風俗の取り締まりを行うのが職務だ。即位礼に向けて、打ち合わせを密にすべきであろう?」
「…関白様。恐れながら、今更そのような建前の話はよろしいのではありませぬか?」
六角定頼が口を挟んだ。
「おお、恐や恐や。」
六角定頼の言葉に、二条尹房が大げさに肩を竦めてみせた。
「…関白様は某に、近衛少将殿と良く話せと言われたいのでしょう?」
「職務の打ち合わせは必要であろう。」
「それはおっしゃる通りでござる。」
「フ、貴殿は相変わらずだのう? そんなに我が意図を、身に言わせたいのかね?」
二条尹房は扇で六角定頼を指示した。
「要するに、じゃ。貴殿らは武家であろう。本来であれば意の異なる者共は戦にて雌雄を決するのだろ? のう、弾正少弼よ。」
「…左様にございますな。」
「なれど、今は帝の即位礼を控える大事な時期じゃ。公方や近衛左大臣らは坊主共と結託をし、洛中の近くに公然と兵を集めておる。」
二条尹房が横目で僕の方を見て来た。
なるほど、情報収集は出来ているという訳か。
「そこで、じゃ。身が貴殿らに戦場を提供してやろう。」
「それが、この場、と仰せですか?」
「そうじゃ。帝の即位礼という目出度き時に、数千の兵がぶつかり合うなど、必ず避けなければならぬことだ。」
前にも述べたが、二条尹房と言う男は老獪な狸だ。
つまり、ここで僕と六角定頼でよく話し合い、武力衝突を避けよと言っているのだ。
それも、本来もう一方の当事者であるはずの公方を抜きで、だ。
「なるほど、良く分かり申した。」
六角定頼は深く頷くと、ささっと体を翻し、僕の方に向きを変えた。
「さて神保殿よ。二条関白様は、ここで貴殿と戦をせよ、とお命じだ。」
「…それは思ってもよらぬ事にございますな。」
「十年前、貴殿と初めて小谷や観音寺で話したとき、この若者はタダモノでは無いと感じたものだ。」
「某も、この御仁は並々ならぬ御方だと思っておりました。」
「あの時、貴殿は我が観音寺城を調略により落とせると言っておったな?」
「ああ、そんなこともありましたな。」
そう、当時小谷城での問題を解決した後、観音寺城で会談したんだったな。
十年か。もう、そんなに前になるんだな。
「それから今に至るまでの、貴殿の手腕よ。儂は今更、貴殿を若造と侮ったりはせぬ。武家の当主どうしとして、この場所で我が六角を落としてみせよ。」
「またそれは難儀なことを…」
しかし横目で二条尹房を見ても、不敵に笑っているのが見えるだけだ。
なるほど、これは避けられぬ戦いと言う事か。
神保長職は二条関白とは初対面です。六角定頼と二条尹房は過去の職務で面識があるものと考えています。




