第百九十九話
一五三六年九月上旬 北近江・小谷城
北山協定上洛軍のうち、堅田経由で京へ向かう事になった能登畠山軍および飛騨姉小路軍は、北近江が小谷城に到着し、諸々の準備も含め二日程逗留する事となった。
この後の予定としては補給や兵の休息を終えた後、浅井軍五百を加え、千二百の軍勢で堅田に向かう事になるだろう。
さてこの準備の前半部分として、浅井亮政は配下や周辺の商人、漁師等に命じ、琵琶湖を渡る為の船の準備を行っていた。
この間、商人や漁師は仕事が十分にできなくなる訳だが、狩野屋・北山協定から供給される資金を使って、それを準備したという訳だ。
薬売りが大軍勢が琵琶湖を渡ると言うような噂を流しているが、これだけの船を集めているとなれば、それに信憑性を与える事だろう。
さてそれはそうと、やはり北山協定各家はそれぞれ個性的で一筋縄ではいかぬ者が揃っている様に見える。
ドタドタと落ち着きの無い足音が響いた後、ここ小谷城の客間の襖が勢いよく開いた。
「ほら四郎君! いつまでそうやって部屋に閉じこもっているのよ。せっかくお父様が『四郎二郎殿を案内してやりなさい』って言ってくれたんだから、私と遊ぼ…じゃなかった、早く私についてきなさい!」
勢いよく客間の襖が開け放たれ、夏の終わりの爽やかな風とともに飛び込んできたのは、浅井亮政が愛娘であり勝気なじゃじゃ馬娘、浅井千代であった。
「わ、わわっ! いきなりなんですか、千代様!?」
四郎二郎嗣頼は驚きの余り、机の上の書類をまき散らしそうになった。
「そんなの後でやればいいじゃない? ねーねー、四郎君!」
千代が背後から四郎二郎嗣頼に圧し掛かった。
控え目に発達した双丘が背中に触れるのを感じ、四郎二郎嗣頼は女の子と見紛うばかりの整った顔面偏差値を耳の裏まで真っ赤に染め上げた。
彼は健全な男の子なのだ。
「ちょ、ちょっと待ってください千代様……! 離れて、いえ、起き上がってください! 汗臭いからと言ったでしょう……!」
「えー、全然臭くないわよ? むしろ四郎君のほうが、ほんのり飛騨の胡桃のいい匂いがするんだけどなー。ほら、そんな堅苦しい書類は後回しにして、早く行くわよ!」
悪気も羞恥心も全くも無く、ただただ無邪気に背中に体重を預けてくる近江在住の野生児美少女。
京の雅な貴族から見たらはしたないと言われてしまうだろうが、田舎侍の娘だから仕方ない。
良いぞ、もっとやれ。
四郎二郎嗣頼は、心臓の鼓動が太鼓のように激しく鳴り響くのを必死に隠しながら、ガタガタと座布団を蹴立てるようにして立ち上がった。
「……分かりました! 行きます! 行きますから、ちょっと離れてください!」
結局、千代の無自覚な行動力の前に完全に尻に敷かれる形で、四郎二郎嗣頼は赤面したまま部屋を連れ出される羽目になるのだった。
◇ ◇ ◇
「ちょっと千代様! 走るのが早すぎます! だから袖を引っ張らないでくださいッ!」
小谷城の大手門を飛び出し、琵琶湖畔の木戸港へと続く長閑な田舎道を、四郎二郎嗣頼は手を引かれたまま大慌てで叫んだ。
「えー? 四郎君、男の子のくせに情けないわね! もうすぐよ!!」
もうすぐ、と言われながらも四半刻くらい走っただろうか。
「ほら、もう着いたわよ!」
千代がケラケラと楽しそうに笑いながらパッと手を離すと、自慢げに両手を広げて目の前の光景を指し示した。
「…へっ?」
そこで四郎二郎が息を切らせながら見上げた光景は、彼の想像を遥かに超える、高度に整備された港湾施設であった。
皆もご存知の通り、琵琶湖は日本最大の湖である。
当然各地に港のような設備はあっただろうが、ここはかなり整備されているようだ。
「どうよ四郎君、凄いでしょ! これがお父様の作った木戸港よ! 海津や高島の関所なんて一切介さずに、ここから琵琶湖のど真ん中を突っ切って、一直線に堅田まで行けちゃうんだから! 」
二人は知る由も無いが、現代においてこの場所は港の”跡”が残っているのみの場所である。
この歴史においては浅井家が北山協定に加盟したことにより経済力が段違いだ。
それに加え、浅井亮政はこの場所の地政学的な価値を正確に理解していたのだろう。
「…お父様はあんな強面だから分からないかもしれないけど、領民が豊かになる事を願っているわ。この港が出来てから、領民の皆が凄く喜んでくれてね。」
何と、信じられない千代のしんみり顔だ。
いや、失礼。
確かに南近江の六角は現在敵は無いが、味方でも無い。
堅田が北山協定寄りになった以上物流路を構築する必要があるのだ。
無論他にも既存の港湾施設はあったわけだが、直轄地であることが望ましいと言う事だ。
「なるほど。態度が不明瞭な高島七頭や南近江の六角様の影響を受けない、自らが制御できる航路を…」
生真面目な四郎二郎嗣頼は仕事モードでブツブツとそう呟いた。
「四郎君? なに難しそうな顔をしてるのよ!」
千代がいくぶん不満そうな顔で覗き込んだ。
「あ、いえ。ここは本当に素晴らしい港湾施設ですね。新三郎様が整備されたこの港は、近江を発展させ、領民の皆さんの生活を豊かにしてくれるでしょうね。」
「で、でしょ!? 四郎君、やっぱり分かってくれるのね!」
父親の事業を褒めちぎられ、千代は嬉しそうに白い歯を見せた。
そこから二人は当たり障りも無い、そして時折、年相応の話を語り合ったはずだ。
少し大きめの切り株に肩を寄せ合うように腰を下ろした二人の背中は、この一刻だけは乱世の雰囲気を感じられない、そういうものに感じられた事だろう。
楽しい時間が過ぎるのはあっという間で、徐々に日が傾き始めた。
「ねぇ、四郎く…」
千代は夕日に照らされた四郎二郎嗣頼の顔を見るなり、思わず口をつぐんだ。
赤く燃えるような茜色の光が、四郎二郎の長い睫毛と、驚くほど整った鼻筋を鮮やかに縁取っている。
最初は、自分より可憐で女の子にしか見えないお坊ちゃまだと思っていた。
部屋に押し掛けたときだって、ワタワタと赤面して慌てる姿がどこか可笑しかったはずなのに。
どくん、と千代の胸の奥で、これまで感じたことのないような大きな鼓動が跳ね上がった。
急に耳の裏まで熱くなるのを感じて、千代は慌てて視線を琵琶湖の湖面へと逸らした。
「なによこれ」、と千代は心の中で必死に言い訳を探す。
お父様の港を褒めてくれたから嬉しかっただけ。
ただ、夕日が綺麗だから見惚れただけ。
そう自分に言い聞かせようとするのに、一度走り出した心臓の音は、四半刻前の全力疾走のときよりも激しく、耳の奥で鳴り響いて止まらない。
「千代様? どうかしましたか?」
不思議そうに覗き込んでくる、四郎二郎の鈴を転がすような優しい美声。
その声すらも、今はなぜかくすぐったくて、千代は膝の上の着物の裾をぎゅっと握りしめた。
「なんでも、ないわよ。ただ、夕日が眩しかっただけ!」
お転婆よろしくフンとそっぽを向いてみせたが、赤くなった顔を夕日の赤のせいにできているかどうか、じゃじゃ馬娘には全く自信が持てないのだった。
「そ、そうですか。」
四郎二郎嗣頼はそう答えると、スクっと立ち上がった。
「…では千代様。暗くなる前に城に戻りましょう。遅くなると、新三郎様や爺やさんが心配されますからね。」
四郎二郎嗣頼が千代に向けて右手を差し出した。
「・・・」
千代は無言でその手を取り立ち上がった。
千代は立ち上がった後も、その手は離さない。
「…そうね、帰りましょう。」
二人は、手を繋いだまま、小谷城に向けてゆっくりと歩きだした。
少なくとも、千代はこの時間を名残惜しむかのように、ふわふわとした感覚のまま地面を踏みしめた。
急いで琵琶湖へ駆けていった往路とは大違いだ。
この人は優しい。
この時間を無駄にしたくない。
となりにいる四郎二郎嗣頼は、千代に向けてきっと何かを語りかけている事だろう。
千代は適当な相槌を打ちながらも、その頭の中にはそんな思考が支配していた。
夕日に照らされながら、若い二人は小谷城に向けて歩を進めたのであった。
◇ ◇ ◇
「おや、兵内よ。あれを見ろ。」
小谷城の本丸、その曲輪から、城主・浅井亮政は大手門から登ってくる四郎二郎嗣頼と千代を見つめていた。
「あ、あれは…」
千代の爺やである大野木兵内思わず目を細めた。
「…どうやら飛騨の御曹司はあのじゃじゃ馬をもう手懐けてしまったようだぞ?」
なんと、二人は自然と手を繋いでいたのだ。
二人の初々しくも甘酸っぱい後ろ姿が、茜色の城郭の奥へとゆっくり消えていく。
「ま、まさかあの姫様がのう。…御屋形様はよろしいのですか?」
「父親としては複雑な気持ちであるがな。まぁ、あの御曹司の人柄は分かっているつもりだ。我が浅井にとっても不利益は無かろうよ。」
「それはそうですな。」
「これはこれで、忙しくなるぞ。さぁ夕餉の席はいつもより少し豪華にしようでは無いかガハハ!!!」
浅井亮政は大野木兵内の肩をバンバンと叩くと、豪快に笑いながら建物中へと消えていった。
城の台所に指示を出すつもりだろう。
「まったく、御屋形様も変わらぬのう。」
譜代の臣である大野木兵内は孫娘の様な姫の恋路に一安心しつつも、叩かれた肩を摩りながら、夕日に染まる木戸港の方向を見遣った。
その方角には複数の船が停泊しているのが見える。
これからあの船を持って、北山協定同盟軍を堅田へ向かわせるのだ。
その準備を間違いなく進めなければならない。
宿老の老臣として、大野木兵内は戦の前線出る事は無くなったものだが、それでも家臣としての責務を果たす覚悟だ。
大野木兵内はふぅーっと大きく息を吐くと、自らの主の後を追っていった。
ラ、ラブコメを書きたくなったのです…!




