第百九十八話
一五三六年九月上旬
北山協定が誇る、総勢五千の上洛軍が活動を開始した。
既にその先遣隊が到着している洛中では、今頃公方の手の者や甲賀の忍びが必死に情報を掴もうとしているはずだ。
さて北山協定の同盟各家と強調した手配りであるが、当然主力となる神保軍を含めた本隊を主軸とするならば、京に向けた搦手として別口の移動ルートを準備する事とした。
以前も述べたが、北山協定上洛軍の陣容は以下の通りだ。
・神保家からは黒備えの常備軍、総勢二千。
・敦賀朝倉家が千。
・上杉家が八百。
・能登畠山家が五百。
・浅井家が五百。
・姉小路家が二百。
北山協定軍、総勢五千。
この陣容の内、神保軍・敦賀朝倉軍・上杉軍の主軸を若狭ルート。
寡兵となる能登畠山軍・浅井軍・姉小路軍を近江ルートで京へ向かう事とした。
朝廷から発表された後奈良天皇の即位礼の日程は十月と言う事で後ろ倒しになったので、それ程急ぐ必要も無い行程であるとも言えた。
これはどういう訳か、関白である二条尹房の意向が強く働いているようだ。
日程の後ろ倒しは公方にとっても洛中の情報収集のチャンスが増えるわけで、この関白の意向を穿った目で見れば一方に肩入れしないようなバランスを取っているとも見えなくも無いのだが、京鳴滝城の土地を密かに提供していると考えれば、それはそれで致し方ないのかもしれない。
さてまずここで語るのは、主力の神保軍らの話では無く、搦手方面から語るとしよう。
◇ ◇ ◇
北近江は小谷城。
浅井家の本拠地であるこの小谷城を物語に出すのは久しぶりだ。
この城に到着しつつあるのは北山協定同盟国から能登畠山家五百、そして姉小路家二百だ。
この小谷城で浅井家五百と合流し、準備が出来次第に堅田経由で京に向かうと言うのが、こちら方面での段取りとなっていた。
小谷城の本丸から眼下を見つめる少女が一人。
その視線の先には我が家である小谷城に入城してくる将兵達がいた。
「姫、そんなに身を乗り出していると危のうございますぞ?」
その少女を諫めようと、白髪に口ひげを蓄えた老臣が声を掛けていた。
「まったく、爺は煩いわね…」
「姫様? 何か仰いましたか?」
「何でも無いわ。」
少女はため息をつきながら、変わらず眼下を見つめた。
「…あれ?」
その視線の先には派手さは無いものの、おそらく一軍の指揮官であろう者が目に入った。
兜を脱いていたその者の見た目はどうも麗しい。
「ねえ、爺。今日ここに来られるのは能登の畠山様と、飛騨の姉小路様と言う話よね。」
「はっ。御屋形様からはそのように聞いておりますな。」
「…どちらかの家には女武将のような方はいらっしゃったかしら?」
「いえ、そのようには聞いておりませんが。能登畠山家を率いるのは…、ひ、姫様?!」
白髪の老臣が説明をしようとした瞬間には、少女は既に駆けだしていた。
「ひ、姫様!? どちらへー!?」
「ちょっとあの方を見に行くのよー!」
「姫様、お待ちくだされ!!!」
老臣の諫め等聞く様子も無く、少女の姿は既に部屋の中に無かった。
「…まったく、あのお転婆ぶりは誰に似たのか。」
老臣は大きくため息をついた。
◇ ◇ ◇
ドタドタドタ、と小谷城の長い廊下を駆け抜け、息を切らせて大手門の前へと飛び出した少女。
その視線の先では、飛騨から神速の行軍を終えたばかりの姉小路軍二百名が、整然と隊列を整えているところであった。
「待ちなさい! 貴女、どこの誰―」
少女が勢いよく声をかけながら、先ほど上から見据えていた麗しい将の前に立ち塞がった。
だが、間近でその姿を捉えた瞬間、思わず少女は硬直してしまった。
眼前の、出で立ちから武将である事だけは分かるこの人物は、女の子と見紛うばかりの可憐な顔立ちであった。
この人物はここまで物語を読んでくれた諸賢は分かると思うが、姉小路家嫡男、四郎二郎嗣頼である。
「ええと、初めまして? そんなに血相を変えて、どうかされたのですか?」
その麗しい口から漏れたのは、少し高めの中性的な声であった。
「え…っと、あなた、男? 女? どっち?」
少女がずいっと四郎二郎嗣頼に顔を近づけた。
正直セキュリティ上簡単に近づけるのはどうかと思うが、そんなことは言いっこなしだ。
近づいてきた少女の、長い睫毛に縁取られた瞳が、目の前でぱちくりと激しく瞬いている。
四郎二郎は、お姉さんの胡桃姫譲りの綺麗な目を丸くして少し驚いたが、すぐに中性的な唇の端を上に上げ、優しい笑顔を浮かべた。
「えーっと、私は、飛騨姉小路国司直頼が嫡男、四郎二郎嗣頼です。…麗しき姫君の名を教えて頂けますか?」
これ以上声変わりもしない、少し高めの綺麗な鈴を転がすような美声が、少女の耳元で優しく響いた。
「あ、あなた、男の子なの!?」
少女は思わずのけ反ってしまった。
女の子を見紛うような整った高い顔面偏差値と、そして中性的な美声。
それに遭遇した少女は耳まで真っ赤になっていた。
「ハァ、ハァ……ひ、姫様! なんという無礼を! こちらは他国の大事な若君にございますぞ!」
そこへ、階段を全力で駆け下りてきた白髪に口ひげを蓄えた老臣が、息を切らせながら慌てて千代の襟首を後ろからひっつかんだ。
「あいたたた! 離してよ爺! 私はただ、この……姉小路様が本当にお父様の言う通りの凄い大将なのか、確かめに来ただけよ!」
我に返った少女はお転婆よろしく、何とか爺の諫めに抵抗しようとジタバタと手足をはためかせた。
「これこれ、鶴千代! 飛騨の若君を前にして、なんというじゃじゃ馬だ!」
大手門の奥から、ガハハと豪快な笑い声を響かせながら姿を現したのは、北近江を統べる・浅井亮政であった
浅井亮政は四郎二郎の前でドッシリと腕を組み、ジタバタしている愛娘を苦笑いで見遣った。
「すまぬな、四郎二郎殿。我が愛娘・鶴千代はご覧の通りのお転婆でな。…親バカかも知れぬが、見た目は悪く無いと思っているのだがな。」
「ちょっとお父様!? 私の事は千代って呼んでって言ったよね?」
「ああ、千代だな。四郎二郎殿、この通りでな。」
浅井亮政が大げさに肩をすくめた。
「いえ、新三郎様。え…っと、千代様…と仰られますか。元気な姫君様ですね。千代様は、私を出迎えてくださったのですよね。」
浅井亮政の気持ちを汲み、四郎二郎嗣頼は優しい声で浅井の姫君・千代に話しかけた。
「そ、そうよ! えっと、四郎君?私は貴方を出迎えに来たの!」
千代は顔を赤らめながら爺やの腕を振りほどくと、再び四郎二郎嗣頼を指さしながら近付いた。
「ガハハ! よし、挨拶が済んだなら早速出発……と言いたいところだが、関白様のお手回しで即位礼の日程が十月に後ろ倒しになったと聞いている。急ぎの旅では無くなった故、まずはゆるりと休まれると良い。そうじゃ、畠山修理大夫様は儂が迎える故、千代は四郎二郎殿を案内してやりなさい。」
「お、御屋形様!? 何を!?」
爺やが目を見開いた。
この親娘、やはり似た者同士なのだ。
「うふふ、お父様分かってるじゃない! さぁ四郎君、あなたは私についてきなさい!」
千代は四郎二郎嗣頼の手をグイっと引っ張った。
「ちょ、ちょっと待ってください。千代様。」
「どうしたの?」
「え、えっと、ここまでの行軍の中ちょっと暑かったものですから、その、少し汗臭いので…」
「そうなの? そんな事は無いと思うけどな。」
千代がすんすんと四郎二郎嗣頼の臭いを嗅ごうとした。
「わわわっ! 近いです、千代様! 嗅がないでください!」
さっきまで完璧な王子様スマイルを浮かべていた四郎二郎は、千代の体を遠くへ引き剥がそうとした。
この姫は、実姉の胡桃よりも強敵だ。
「あら、別に臭くないわよ? むしろ、ほんのり飛騨の胡桃のいい匂いが――あ、待ちなさいよ四郎君!」
千代を引き剥がした四郎二郎嗣頼はそそくさとこの場を立ち去ろうとした。
「おい、新三郎殿よ。俺は何を見せられているのだ?」
自軍への手配りを終えた畠山義総が、偶然にもその場に現れた頃であった。
「これは…修理大夫様。」
「アレは貴殿の娘御だな。会うのは初めてだが、なかなかの者よ。」
「いやぁ、お恥ずかしい限りで。我が譜代の老臣である大野木兵内が言うには、アレのお転婆ぶりは儂にそっくりらしいのですよ。名門の矜持などどこへやら、気に入った獲物を見つけたら何も無視して突撃していくあたりがな。のう、兵内よ。」
浅井亮政が横にいる老臣、爺やである大野木兵内に視線を向けた。
「笑い事じゃありませぬぞ、御屋形様…」
爺やの悩みは、万国共通らしい。
「まぁそう言うな、兵内よ。お陰で退屈せぬではないか。」
浅井亮政がガハハと豪快に笑った。
「なるほど、アレでは飛騨の麗しき若君も形無しだな。」
「急ぎの旅では無い。修理大夫様、我が小谷城にて、まずは数日ゆっくりと旅の疲れを癒していかれと良いですぞ。移動の仕度はその後に粛々と進めれば参りましょう。」
「うむ、お言葉に甘えよう。…それにしても新三郎殿、結局アレはどうするのだね?」
畠山義総がクイっと親指で四郎二郎嗣頼と千代を指した。
「ハハハ。千代はあの性格ですから嫁ぎ先を見つけるのに時間が掛かるものと思っておりましたが、偶然にも、掘り出し物を見付けられた気分よ。」
「まぁあの若君は国司を継いだ者の嫡男だからな。」
「修理大夫様、仲人は予約させていただきますぞ?」
「む、長職では無くか?」
「名門の誉れ高い修理大夫様に仲人をして頂ければ、我が浅井としては鼻が高いと言うもの。」
「…それは考えておくがな。程々にしておかないと、爺や殿の白髪が抜けてしまうかもしれぬぞ。」
遠ざかる二人のジタバタとした背中を見送りながら、近江ルートの最高首脳陣たちは、冷たい麦湯を手にニヤニヤと笑い合うのであった。
コメディ調の話も必要かと思いまして。浅井鶴千代の生年は不明なので、この小説では一五二十年代の生まれと仮定し、田屋明政と婚約はしていません。




