第百九十七話
一五三六年八月下旬 京鳴滝城
南近江の観音寺城にて、大大名六角定頼が「神保の目的を暴け」と甲賀の忍びを手配していたちょうど同じ頃である。
通常、戦国時代における「五百」の軍勢の移動には、膨大な時間がかかるのが常識であった。兵糧の足配り、武具の点検、そして道中の国人領主への挨拶や関所での通行交渉。それらをこなしていれば、どれほど急いでも半月、いや一ヶ月近くは要するのが常であったはずだ。
だが越中、いや、北山協定の盟主たる神保長職の手配りはそうでは無かった。
もちろん、道中のほとんどが自らの同盟勢力圏であったからと言うのもあるが、若狭から山陰に至る進軍ルートの兵糧と中継拠点は、すべて「先回り」で完璧に確保されている。
関所での不毛な足止めなど全く存在しない。
さらに、逆井徳次郎城正らの突貫工事によって密かに開通していた『鳴滝道路』が、五百人の移動を順調な者としていた。
誰もが「まだ動くはずがない」と油断しているその隙を突く――。
侍大将・遊佐右衛門佐総光によって十二分に訓練された精鋭部隊は他国が情報戦の狼煙を上げるよりも早く、文字通りの『神速』を以て、京の裏山へと滑り込もうとしていた。
そして、その神速の上洛軍を鳴滝の地で今か今かと待ち構えている男がいた。
「……おいおい、いくらなんでも早すぎるだろう?」
鬱蒼と茂る夏の木々の隙間から、まだ普請中ながらも着々と曲輪が形成されつつある『京鳴滝城』の関門を見上げ、十八歳の若武者、五百住甚介康久は、呆れたように苦笑いを浮かべた。
主たる三好康長から「数日後には軍の先遣隊五百が到着する」と現場指揮官を任されたのは、つい先日のことだ。
戦国乱世の常識を捨てたつもりの甚介であったが、まさか越中の本国からこれほどの間を置かずに五百の軍勢が、京の裏山へ音もなく滑り込んでくるとは夢にも思っていなかった。
しかも、この京鳴滝城の周囲は、広橋卿を通じて二条関白家の名義へ変更された土地だ。
この場所に近付く者などいないし、もし近付こうものなら、不幸にも行方不明になってしまう、そんな場所なのだ。
表向きは【二条関白家の神聖なる直轄御料地】。
近衛左大臣や幕府の隠密がどれほど血眼になって洛中を嗅ぎ回ろうとも、この「立ち入り禁止の聖域」の奥深くに、精鋭軍が接近してくるなど、天地がひっくり返っても気づけるはずがなかった。
京鳴滝城の(簡易的な)城門から見るとの先には、一糸乱れぬ行軍をしている黒備えの一団が行軍して来る。
そして半刻後、その軍団は京鳴滝城指揮官・五百住甚介の目の前に整列しているのであった。
◇ ◇ ◇
「皆の者、遥々越中からの行軍、真にご苦労な事にござる。俺は在京総代である三好弾正忠様から、この京鳴滝城指揮官を任された、五百住甚介康久である。ついた早々申し訳ないが、指揮官はどなたかな?」
「ははっ、某が!!」
派手さは無いが機能的な甲冑を付けた髭を蓄えた武者が、洗練された立礼を行った。
五百住甚介も返礼を行った。
「うむ。ご苦労。麾下の者らにはまず旅の疲れを取って頂きたい。…あそこの屋敷に麦湯と甘味を用意してある故、まずはゆるりと休まれよ。」
「ははっ。かたじけなき事にございまする。」
「貴殿はええと、何と言われるのかな。」
「失礼致しました。某、石黒左近と申しまする。」
髭を蓄えたその武者は、もう一度深く居住まいを正して洗練された立礼を行った。
五百住甚介もまた、大人の武将に対する敬意を込め、精悍な顔を引き締めて返礼を行った。
「おお、石黒左近殿にございますか。大殿より一軍を任された将なれば、某などより様々な経験を積んでおいででしょう。若輩者な某に、色々とご教授願いたいものですな。」
「ははは、おだてても何も出ませぬぞ。五百住殿。」
「おっと、まずは配下の者達を休ませねばな。石黒左近殿は某に同道頂けるかな。」
「御意。」
石黒左近は一礼すると配下の将兵達へテキパキと指示を出した。
そして将兵達が休憩場所とされている屋敷に向かうのを見届けると、再び五百住甚介の前へと戻ってきた。
「五百住殿、お待たせ致した。」
「うむ、では左近殿はこちらへ。」
五百住甚介は京鳴滝城の本丸…と言っても陣屋みたいなものだが、指揮官クラスの者が詰める建物へと案内した。
城の成り立ちから豪華さを一切排除したものであるが、全てが機能的に洗練された代物だ。
「…しかし某も聞いてはおりましたが、まさか洛中からほど近い場所にこのような砦が普請されているとは思いもよりませんでしたな。」
甲冑を脱ぎラフな出で立ちとなった石黒左近が麦湯を飲みながらそう言った。
「まったくもって…。俺も三好弾正忠様からこの場所を教えられた時は、耳を疑ったくらいにござる。」
五百住甚介もまた、肩の力を抜いてふっと笑いながら自分の麦湯の器を持ち上げた。
「何せここは、広橋卿を通じて、形式上二条関白家の持ち物となった土地にござる。やんごとなき場所にこのような武骨な兵共が駐屯するとは、誰が思う事にございましょう?」
「二条関白家の御料地、ときましたか……! ハハハ、これは御屋形様の発案か、それとも三好弾正忠様のかな?。」
石黒左近は髭をさすりながら、心底感心したようにニヤリと不敵に笑った。
「ん…、俺は弾正忠様の郎党として召し抱えられた身にて未だ大殿にお会いした事は無いが、大殿はやはり奇抜な発想をお持ちなので?」
「ははは、儂も数える程しかお会いした事は無いが、あの混乱した北陸を平らげた盟主様が普通な思考であるわけがあるまい?」
「フ、面白い事言われますな。左近殿。」
五百住甚介は思わず目を丸くした。
「……確かにその通りですね。あの恐るべき加賀の一向一揆衆を、平らげてしまわれたお方だ。常人の枠に収まるはずがありません。まだ見ぬ大殿への期待が、ますます膨らみましたよ。」
五百住甚介は麦湯をゴクリと飲み干すと、居住まいを正して陣屋の机の上に、逆井徳次郎城正たちが仕上げた精密な地形図をバサリと広げた。
「さて、そんな規格外の大殿や弾正忠様が、この京鳴滝城に寄せる期待もまた、これまでの戦国の常識を超えるものです。さっそく仕事の話で申し訳ないのですが、左近殿。」
五百住甚介は鋭い目をキリッと細め、地図のある地点をトントンと指差した。
「貴殿にはまず、洛中の情勢を頭に入れて頂きます。ご存知の通り、秋に行われる帝の即位礼に向けて、これから上洛軍本隊がやって参りましょう。先遣隊の皆様方には、滞りなく動ける様、十分な準備をお願いしたい。」
「…今のところは主力はこの場所から動かぬで良い、と言う事でよろしいですかな?」
「左様で。…しかしながら左近殿や一部の者には狩野屋に擬態して、洛中の視察をして頂く。」
「商人に化けるのですか?」
「ええ。実は薬売りが言うには、洛中にて、甲賀の忍びが辺りを嗅ぎまわっている様でしてな。」
「甲賀…よもや六角様の手の者か?」
石黒左近の問いに、五百住甚介が静かに頷いた。
「その可能性が極めて高いでしょうね。まぁしかし、諜報戦への対応に関しては薬売りに任せておくしかありませんな。」
このタイミングでは北山協定(神保家)側は、六角が観音寺城で行われていた軍議の様子など、知る由も無いのだ。
素人が下手に動くよりもそれは専門の者に任せ、自分たちは自分で出来る最大限の事をするしか無いという訳だ。
「…なるほど。餅は餅屋、と言う訳ですな。分かりやすくて実に良い。」
石黒左近は感嘆の声を上げた。
越中本国では様々な仕事が、高度に分業されていた。
それでいて属人化しているわけでも無く、それぞれが十分に助け合いできるような仕組みが構築されていた。
これが京の神保家の息が掛かる所においても徹底されているようだ。
「…して我等はまず本隊を迎え入れる準備と並行して、万が一公方様らに露見したときでも、速やかに行動できる様にしておく、これが当面の任務にございます。俺はまだ若輩につき至らぬ点もあろうかと存ずるが、何卒ご協力頂きたく。」
五百住甚介が深々と頭を下げた。
「…いや、五百住殿。指揮官が軽々しく頭を下げるものではありませぬぞ。」
「そう言っていただけるとありがたいが、俺はまだ実戦経験があるわけではありませぬ故、な。」
かの三好弾正忠康長に見いだされた五百住甚介である。
優秀な男であるのは間違いないだろうが、経験に勝るものはないことを深く理解しているのだ。
「承知致した。儂に分かることは都度進言させていただきましょう。」
石黒左近は深く頷いた。
…さてこの後の話であるが、おそらくひと月以内で本隊、つまり同盟各家を含めた残り四千五百の兵が京に向かってくる見込みである。
それらの準備が整い、実際に帝の即位礼への警備行動の任務が発動されるまでは、京鳴滝城は秘匿され続けるのが望ましい。
そうすれば帝の即位礼の開始直前に、五千もの大軍が、突如として洛中に出現するのだ。
公方らは度肝を抜かれる事になるだろう。
目下の懸念は洛中を嗅ぎまわっている甲賀の忍びになるわけだが、神保家側もこれへの対抗策として、薬売りらがその活動実態を探っている頃であろう。
帝の即位礼に向けて、時計の針が止まることなく、洛中の町において動き続けるのであった。
ついに京に神保の軍勢(の一部)が入りました!




