第百九十六話
一五三六年八月 南近江観音寺城
近江国は繖山にそびえ立つ難攻不落の名城、観音寺城。
その一室にて、南近江の覇者であり、甲賀忍びへも影響力のある六角定頼は、京の柳原御所から届いたばかりの極秘の御内書(将軍の手紙)を睨みつけたまま、彫りの深い顔をこれ以上ないほど苦虫を噛み潰したように歪めていた。
部屋には譜代の老臣後藤但馬守、まだ二十代後半と若く血気盛んな家臣・蒲生藤十郎定秀、そしてつい日前元服を終えたばかりの定頼の嫡男・六角四郎義賢が同席していた。
「まったく…。公方様も、とんでもない劇薬を我が六角に放り込んできてくださったものだ。」
定頼がギリ、と奥歯を噛み締めて呟いた手紙の中身。
それは六角家にとって最悪に困難で、最悪に甘い内容あった。
曰く、『秋の即位礼の折、近衛少将・神保長職が連合軍五千を率いて上洛する。ついては六角殿、そなたを幕府の最高職たる【管領代】に任ずる。我が幕府の公式な最高司令官のハクを以て、神保の軍勢を上から統制し、完全に封じ込めてくだされ』……という内容だ。
「父上! これぞ我が六角家が天下の覇権を握り、幕府の権威を我が手の内に収める千載一遇の好機ではございませぬか!」
まだ齢十五の若武者である六角四郎義賢が、その目をギラギラと輝かせて座布団から身を乗り出した。
「公方様の公式な『管領代』のハクがあれば、近畿の諸将はこぞって我が六角の命に従いましょう! 越中の田舎大名(神保)などが五千を率いて上洛してこようとも、我らが上から目線で睨みつければ、戦う前にひれ伏すしかございません。直ちに引き受け、我が家の精鋭を率いて上洛いたしましょう!」
「左様! 若君の仰る通りにございます、殿!」
二十八歳の藤十郎定秀もまた、その若き勢いと名門の矜持に突き動かされるように熱く拳を握った。
「管領代の看板があれば、我らは合法的かつ大義名分を以て神保を抑え込めるのですぞ!」
「まさに天下の六角の名を知らしめる好機よ!!」
若侍達が血気盛んに言葉を発していた、その時である。
「馬鹿者どもがッ、二人まとめて目を覚ませ!!」
部屋を激しく震わせる、六角定頼の怒号が響き渡った。
突然の烈火のごとき一喝に、六角義賢と蒲生藤十郎定秀はハッとしたように息を呑んで居住まいを正した。
六角定頼はドカンと文机を叩き、額から流れる大量の冷や汗を拭いもせずに、ガタガタと震える手で将軍の書類を床へ叩きつけた。
「これのどこが好機だ、完全な泥船ではないか! 四郎、藤十郎、お前たちはまだ若い故、あの神保長職の恐ろしさを知らぬのだ!」
「……若君、蒲生殿。殿の仰る通りにございますぞ」
重苦しい空気の中、それまで静かに控えていた実務方トップのベテラン宿老、後藤但馬守が重々しく口を開いた。
その老獪な目にも、定頼と同じ深い警戒の色が浮かんでいる。
「若君はまだお若く、あの時の小谷城の件を直接はご覧になっておられぬ故、致し方なきことなれど……神保長職という男は、刀を交えること無く、それも見事に浅井亮政を説き伏せ、我が六角と京極の軍勢を完璧に撤退させた化物にございます。浅井に一切の不利益を与えぬままあの戦を終わらせたあの得体の知れなさ…。儂はあの時、背中に冷たいものを感じたものだ…」
「あ、あれは我が六角の勝ち戦と聞いていたが……」
六角四郎義賢が、戸惑ったように声を漏らした。
「あれは、京極様の要請を受けて我等が参戦した戦は、もう十年も前の事。確かに浅井は一時北近江を退去はしたが今は舞い戻って半国守護気どりなのですぞ。方や京極様は北近江を失っておられる。終いには神保長職はその浅井を同盟に引き入れ、帝の信も厚いと聞き及んでおります。…御屋形様はあの戦にて神保長職と顔を合わせその不気味さを見抜き、今まで事態に関与しないでこられたのですぞ!」
後藤但馬守の熱の籠もった諫めに、六角義賢と蒲生定秀は二の句が継げず、背筋に冷たいものを感じて押し黙った。
六角定頼は深いため息を吐くと、未だにズキズキと痛む胃を掌でさすりながら、鋭い目を後藤但馬守へと向けた。
「但馬の言う通りよ。その後も神保長職は加賀一向一揆をも平らげ、おそらく畿内の情勢にも戦わずに息を吹きかけているのだ。我が六角が『管領代』という中身のない古い看板だけで公方方としてしゃしゃり出れば、秋の即位礼の場で、何をされるか分かったものでは無いわ!」
…その神保長職が北山協定と言う同盟軍を引き連れて上洛をするわけだ。
その場に自軍がいる事等考えたくもない。
いや、六角ほどの国力があれば五千の兵を用立てることは出来るだろう。
日和見の諸将共も、『管領代』に靡くものはいるかもしれない。
だが、これは理屈では無いのだ。
六角定頼は椅子の背に深く体を預け、鋭く低い声で命じた。
「…但馬。至急、甲賀に繋ぎを取り、腕利きの草を洛中に放つよう要請せよ。」
「はっ…。しかし恐れながら…」
「何だ?」
「公方様の要請に応えられると?」
「無論、本意では無い。なれど、無下に断る訳にもいくまい。公方様への返書としては、管領代の受託は留保、まずは洛中周辺の情報収集に当たる、と回答せよ。まずは神保近衛少将が作ったというあの『京都見廻組』の役宅および狩野屋、能登畠山屋敷周辺を嗅ぎ回らせ、奴らの裏の牙城の爪痕を何でもいいから暴き出すのだ。」
「御意。」
後藤但馬守はそう答えると、歳の割には素早い動きで部屋を出て行った。
その姿を見送ると、六角定頼は二人の若侍の姿を見遣った。
…この二人は状況を飲み込めているのか?
六角定頼自身、蒲生藤十郎には期待をしている。
事実幾つもの武功を上げているのは事実だからだ。
…我が嫡男はどうか?
六角定頼からの怒号を受けて茫然自失となっている姿には、嘆息せざるを得ない。
どちらもまだまだ足りぬようだな。
六角定頼は痛む胃を押さえながら、二人を置き去りにして部屋を辞していった。
◇ ◇ ◇
「但馬よ、まずは一杯。」
「はっ、頂きます。」
その日の夕刻、六角定頼は先程の会議にもいた重臣・後藤但馬守と酒を酌み交わしていた。
前述の通り、この後藤但馬守は譜代の重臣であり、六角定頼は厚き信頼を置いていた。
「但馬はこの度の事態をどう見る? いや、お前なら分かってると思って、敢えての質問だ。」
「はっ。御屋形様の御懸念の通りでございますれば、公方様には出来るだけ正確な返事をせず、我等としては出来る事をしなければならぬと思いますが…」
件の書状には、『管領代』に就任する代わりに直接的な軍事的関与、つまり六角軍の出兵要請が書かれている訳だ。
それには六角の影響下にある、甲賀による情報収集も期待されているに違いない。
「甲賀の連中の実力を疑う訳では無い。だが神保近衛少将も相当な諜報網を持つと聞く。…全貌は分からんがな。」
甲賀を影響下に持つ六角定頼は、何においても情報が全てだと言う事を理解していた。
それだけに北山協定、とりわけ越中で見えてくる彼等の繁栄、つまり表の姿に隠された裏の部分の不気味さを実感している訳だ。
それは相当に暑き壁、濃厚な霧の向こう側にあると言わざるを得ない。
「御屋形様。某は彼奴らの堅田での動きも不気味に思うておりまする。」
「堅田か…」
堅田は元来一向一揆衆の影響力が強く、自立傾向が強い土地であった。
自治都市、と言っても過言ではない。
六角はそこに対しての自治を保障すると共に安全を提供してきたのだ。
その安全とは、外部からの圧力についてのみであり、正直一向一揆衆の内輪揉めには関心が無かった。
だが突如、迫害され没落していた筈の堅田本福寺が力を盛り返し、堅田の支配層がガラっと一新された。
まぁそれ自体はどうでも良いのだが、その背後には浅井が関与しているようだ。
いや関与どころか、陣屋まで構え、一定の兵も駐屯させている。
堅田の一向一揆衆は北山派と名乗っているようだ。
「あれは気付いた頃には既に後手であった。堅田については一定の税を我が六角に納めると言う保証で、引き下がるしか無かったからな。」
六角定頼は苦虫を噛み潰したような顔でそう絞り出した。
…その神保長職が北山協定と言う同盟軍を引き連れて上洛をするわけだ。
その場に自軍がいる事等考えたくもない。
「御屋形様は、あの神保長職と言う男をどう評価されますか?」
「フ、あやつ自身か? そうよな、訳の分からん男よ。朝倉宗滴の様に武に秀でてはおらぬようだが…」
小谷城での戦の後、京に向かう途中で会った神保長職を観音寺城に招いた。
六角定頼はその時の事を思い出していた。
「…奴を観音寺城に招いた時、同じように酒を酌み交わしたよ。儂は奴に問うたのだ。お前ならこの、観音寺城を攻め落とせるか? とな。何と答えたと思う?」
「皆目見当もつきませぬ。この観音寺城を落とせるか、など…」
後藤但馬守が盃を止めて見つめる中、六角定頼は自嘲気味にフッと笑い、遠い目をしながら冷えた酒を口に含んだ。
「奴はな、こう言ったのだ。」
六角定頼が盃を畳の上に置いた。
『ここは素晴らしい山城ですな。この規模の城は、正攻法ではなかなか攻め落とせぬでしょう。』
『…申し上げましたように正攻法ではきつい、と考えます。であれば、取るべき策は調略にございます。』
『この観音寺城は幾重もの曲輪、外郭に支城があり固い守りを敷くことが出来ます。しかし、その前提としてそれらにおいて指揮官や城兵が機能せねばなりません。』
『規模が大きい城と言うのはそれを守るのには多くの人手が要ります。人が足りぬならば、目が届かぬ場所が出てくるでしょう。今の六角様であれば結束した家臣団をこの城あるいは支城へ集結させることが出来ましょう。しかし何か家中に綻びがあればどうでしょうか?』
『私が敵であれば、調略で穴となる所を探しまする。』
六角定頼はあの時の神保長職の言葉を言うと、トクトクと盃に酒を注いだ。
「但馬よ。昼間の、四郎や藤十郎の様子を見てどう思った?」
「そ、それは…」
「良いから思うた事を言うのだ。」
「はっ。…恐れながら、今のままでは神保長職が言う所の、穴になるかもしれませぬ。」
「そうよ。血気盛んなのは良い。名門の矜持で生きていくのも良い。だが、それで国や民を守ることが出来るか?」
「…できませぬ。それ故に御屋形様は楽市など、民心の安定に尽くされてきたのですからな。」
「『管領代』も同じよ。そんなものになったところで、神保めに対応できると思っているのか。…公方様も浅慮なものよ。」
いや、それほど余裕が無いのかもしれぬ。
足利将軍家だけで十分な兵を用意できず、周りに頼るしかない。
本願寺のような宗教勢力や、畿内に居る日和見の諸将達。
公方様はどれほどの協力を得られるのだろう?
「…それは我等も同じか。」
「御屋形様…?」
「いや、何でもないぞ。」
後藤但馬守の問いには答えなかった。
六角定頼自身、領内の安定や勢力の拡大に腐心してきたつもりだ。
だがそれにより名門としての名声が上がったことで、それに胡坐をかいて増長してくるものが出てきたと言う事だ。
それのどこに、足利幕府との違いがあると言うのだろう?
六角定頼はグイっと盃の酒を飲み干した。
美味い筈の、この飲みなれた筈の酒の味があまり感じられない。
痛む胃を摩りながら、六角定頼は大きくため息をついた。
六角定頼の苦悩を描くエピソードです。この後六角が北山協定と敵対するのかしないのか、ここではまだ決定稿ではありません。




