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第百九十四話


一五三六年七月 京・畠山屋敷



「御免! 三好弾正忠様はいらっしゃるか?」



精悍な顔立ちの若武者の声が屋敷に響いた。

ここは能登畠山家が屋敷。

京郊外にあるこの屋敷は名門のそれの如く、大きな門構えの邸宅であった。

更には数年前より神保家との共同利用をしていたため、隣地を買い取り増築を行っていた。


この門自体は開かれているものの、どこからともなく視線を感じるような、何とも言えない雰囲気を醸し出していた。



「あ、えーっと、お兄さん、弾正忠様に用事があるのかい?」



少しして、箒を持った少年が姿を現した。

風貌こそそのあたりの童と変わらないが、どことなく利発そうな少年だ。



「おや、お前はここの奉公人かい? ああ、俺は弾正忠様に用事があってな。これを見てくれるか?」



そうこの男、つい数日前に三好康長との面接を経て郎党に採用された、甚介その人である。

甚介は三好康長から渡されていた任官状を少年に手渡した。



「えー、えーっと。」



少年は必死に任官状の文字を読もうとしているが、ちょっと読めないようだ。



「ああ、俺は五百住(いおずみ)甚介康久と言う。弾正忠様にはつい先日召し抱えて頂いてな。」

「へぇ、そうなんだ。」



ここで少し話を遡りたい。

先日の京都見廻組役宅での面接で三好康長の郎党になったのは書いた通りだが、あの後、三好康長と甚介の間ではこのようなやり取りが行われていた。



◇ ◇ ◇



「三好弾正忠様。この甚介、これより神保家と弾正忠様のために、この命、粉にしてお仕えいたします。」

「うむ、期待しているぞ。……だが甚介、これから秋に向けて我が右腕として動くにあたり、名字なしでは些かハクが足りぬな。お前は摂津の高槻の出であったな? 」

「はっ。摂津国東五百住(ひがしよすみ)村の出身にございます。」

「ふむ。」



三好康長が腕を組んで少し上を向いた。

そして少しして、視線を甚介へ戻した。



「…では名字は五百住(いおずみ)とするが良い。『よすみ』よりは『いおずみ』の方がゴロが良かろう。諱はそうだな。俺の名から『康』を授けよう。…お前の方で何か良き諱は考えられるかな?」

「ま、まことにございますか!?」



これから主となるべき男からの破格の偏諱の申し出に、甚介は一瞬、ハッとしたよう目を大きく見開いた。

三好康長が知っている訳では無い。

だが、甚介には、立身出世を夢見て一足先に阿波へと渡った、優秀な実の兄がいた。

その兄は名を改める際に、『久』の字を充てるつもりだ、と聞いていた。

(もっとも、今その兄が何をしているのかは知らないのだが。)



「…では弾正忠様の『康』の字と『久』を合わせ、康久(やすひさ)と名乗りたく存じまする。」

五百住(いおずみ)甚介康久か。良き名では無いか。…これからの活躍を期待しているぞ。」

「ははっ。ありがたき幸せ。これからよろしくお願いしまする!」



甚介が深々と頭を下げた。

そして頭を上げた時の、三好康長の満足そうな笑みを、甚介は忘れることが出来なかった。



◇ ◇ ◇



「…という訳だ。それで、童よ。弾正忠様はいらっしゃるかな?」

「…童じゃないよ。おれは八郎って言うんだ!」

「そうか。では八郎、どうなのだ?」



甚介は優しい笑顔を浮かべて再び問いかけた。



「うーん、実は弾正忠様は今狩野屋のほうに行ってるんだ。でももうすぐ帰ってくるはずだから、屋敷の中で待っていなよ。」



八郎が甚介の手を取って屋敷の中に引っ張ろうとした。

何とも警戒感のない事か…と思ったところだが、周囲から感じる視線がこの子供を見守っているのだろう。



「む、良いのか?」

「弾正忠様のお客人を追い返したらおれが怒られちまうよ!」



甚介は八郎にグイグイと手を引っ張られ、屋敷の奥へと通された。

この屋敷は手前側は本来の家主である畠山家の区域であるが、神保家(および狩野屋)の区域は奥屋敷に設けられていた。


さて甚介はこのまま奥へ通された。

意外な事にもこの童・八郎はなかなかの働き者で、テキパキと麦湯の用意をしてくれた。

その後ろには女中の着物を着た女性が心配そうにその姿を見つめていたが、八郎の母親だろうか?



「ああ、すまないね。…これは美味い麦湯だ。」

「そうだろ!? おれが淹れたんだぞ!」



そう言いながら八郎がスススと甚介に近付いていった。

まるで子犬のような甘え方に、甚介は思わず八郎の頭を撫でた。



「ははは、良く味が出ていて美味いぞ。」

「えへへ、ありがとう。甚介の兄ちゃん!」


「ま、まぁ、この子ったら。御武家様、申し訳ございません!」



先程の女性が慌てた様子で頭を下げようとした。



「あ、いや。子供は大人に甘えるものですよ。…貴女は八郎の御母堂様かな?」

「は、はい。亜貴、と申します。」

「亜貴殿、と申されるか。弾正忠様がお戻りになるまで、この八郎を我が話し相手としてお借りしますがよろしいですか?」

「はい。それはもちろん…。でもご迷惑じゃないかしら…」

「大丈夫ですよ。」

「…そうですか。では私は下がっております故、何かあればお呼びくださいませ。」



八郎の母、亜貴が一礼し、部屋を下がっていった。



「もう、母ちゃんはいつも口うるさいんだから…」

「そんな事言うんじゃないぞ、八郎。このご時世、親孝行はしておくものだぞ。」

「うーん、そうだけど…」



この戦国の世。

いつ命を落とすか分からないものだ。



「俺はもう孝行すべき親も居らぬ故な。」

「あ…ごめんなさい。兄ちゃん…」

「ははは、大丈夫だぞ。」



甚介が再び八郎の頭を撫でた。



「ところで八郎。お前は御母堂殿とここで奉公しているのかな?」

「うん。おれと母ちゃんは弾正忠様に拾って貰ったんだ。」



八郎は四ヶ月ほど前の出来事を話した。



「そうか。…それは苦労したのだな。」

「ううん、でも今は楽しく働かせてもらってるよ。それに弾正忠様や紬様に読み書きや計算を教えてもらってるんだ。」



八郎が顔を輝かせながら言った。



「ねえ、兄ちゃんはどこから来たの?」

「俺はな、摂津から来たんだ。まぁ俺も職探しで京に来たってところかな。」



まぁ兄の話については触れなくても良いだろう。

そうこうしている内に、三好康長が帰ってきたようだ。



「おう、甚介。待たせてすまぬな。」

「いえ、この八郎が話に付き合ってくれたからまったく退屈しませんでしたよ。」

「そうか、八郎がな。」


「弾正忠様、お帰りなさい!」

「八郎よ、いい子にしていたか。俺はこれからこの甚介と仕事の話をするから、(俺の妻)の手伝いをしてきてくれるか?」

「うん、分かったよ。弾正忠様。」



八郎がペコっと頭を下げると、駆け足で部屋を出て行った。

パタパタと廊下を駆けていく小さな足音が遠ざかるのを見届けると、三好康長が仕事モードの顔になった。



「…さて甚介よ。今日お前を呼び出したのは他でもない、これからお前に任せたい事業の話だな。」



三好康長がバサっと京の地図を広げた。



「…とその前にお伺いしてもよろしいですか?」

「何かな?」

「…この屋敷は先日の京都見廻組の役宅と違い、方々から視線と言うか、色々感じられるのですがこれはいったい??」

「ああ、そうか。お前の言う通りだよ。」



三好康長がパンと手を叩いた。

すると、音も無く黒装束の男が姿を現した。



「こ、この御仁は?」

「これは我が御屋形様が遣う、『薬売り』と言う組織の者でな。俺の近くにも数名が居てくれていてな、情報収集や陰からの警備に活躍してもらっているよ。」

「所謂、乱波というやつですか。」

「そう思ってくれて構わん。」

「なるほど…」



甚介は黒装束の男の方を見た。

醸し出される雰囲気は武芸者のそれとは違う、何とも言えないものだ。



「…以前狩野屋にお邪魔した時にも同じ雰囲気を感じましたが。」

「ま、お前の感触の通りだよ。」



三好康長が顎で合図を送ると、黒装束の男は再び音もなく、まるで最初から存在しなかったかのように部屋の隅の影へと溶けて消え失せた。

甚介はその神業のような隠密行動にゴクリと息を呑み、己の主君となる康長へ改めて居住まいを正した。



「…なるほど。大殿が敷かれた情報網の中枢という訳ですな。」

「洛中においてはまだ不十分であるがな。…それ故な、この秋に向けて万全の準備を整えなければならない。」



三好康長がトンと地図のある点を叩いた。



「…お前はここに何があるか、知っているかな?」

「そこは…、公方様がおられる御所にございますな。」

「その通り。」



三好康長は再びその地点をトントンと叩いた。



「この秋、帝の即位礼が執り行われる。我が御屋形様は同盟軍の率い、近衛府としての御役目を果たされるおつもりだ。」

「この洛中に兵を入れられるおつもりか?」



甚介が目を見開いた。

それは三好康長、いや、その主の真意を計りかねたためだ。



「まぁ落ち着け。京都見廻組を支援する我が神保家が、京を混乱に陥らせる事は無いぞ。」



その言葉に、甚介はほっと胸をなでおろした。



「…失礼いたしました。大殿と殿が、この京の都を戦火に巻き込むようなお方ではないと分かってはおりながら、上洛の軍勢と聞き、思わず最悪の事態を想像してしまいました。」

「ハハハ、無理もない。この乱世、大軍の上洛と聞けば誰もが国盗りの大戦(おおいくさ)を想像するからな。だが、我らの目的は幕府を武力で滅ぼすことではない。戦う前に、相手の逃げ道をすべて理詰めで塞ぐことにある。」



康長は不敵にニヤリと笑うと、広げた京の地図の北西の山影―まだ誰も全貌を知らない神保家の砦『京鳴滝城』のあたりへと指を滑らせた。



「公方様には我が御屋形様が、書状を送っていてな。今頃、『神保らはいったい、どこに兵を留め置くつもりだ!?』と大混乱されている事だろう。そこでここだ。まさか京の裏山に、若狭からの調達だけで大軍を受け入れる巨大な要塞がすでに普請されているとは、夢にも思っていまい。」

「ま、まさかこんな近郊に…?」

「その通りだ。そこで五百住甚介、お前に任せたい最初の事業がこれだ。既にある程度普請は進めているが、御屋形様の軍の先遣隊が五百、数日後にはここに到着すると聞いている。」

「…なるほど。俺にはその兵達の面倒を見ろと?」

「そう言う事だ。現場指揮官と打ち合わせを行い、当面訓練に励んで欲しい。」

「承知いたしました。ではすぐにでも…」



甚介が態勢を起こそうとした。



「まぁ落ち着け。それほど急ぐ必要もあるまいよ。今夜は夕餉を馳走する故、今日は泊っていくと良いぞ。…八郎の遊び相手もなって欲しいしな。」

「ははっ。有難く頂戴いたしましょう。」

「ははは。八郎も喜ぶだろう。」



三好康長は嬉しそうに甚介の肩を叩いた。

現状、五百住甚介が任された仕事は、密かに作られた『京鳴滝城』に駐屯する部隊の指揮・訓練だ。

今の甚介はまだ、その輝かしい未来の全貌を知らない。

柳原御所の公方方が「神保はどこに大軍を泊める気だ!?」と冷や汗を流して狼狽ろうばいするのを他所に、京の裏山に佇む『京鳴滝城』は、若き天才たちの合流を迎えながら、静かに、しかし冷徹に牙を研ぎ澄ましていくのであった。








ちなみに五百住甚介は畠山屋敷には初出勤になります。なので八郎と初対面のシーンがあったわけですね。

このお二人が既に誰か分かっている読者様がいらっしゃいまして、良いシーンと思っていただけてたら嬉しいのですが。

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― 新着の感想 ―
久の字が付く……?アラ?もしかしなくても甚介の兄って松永久秀⁉️
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