第百八十九話
一五三六年六月 飛騨・桜洞城近郊の寺院
「ち、国司殿とやらはまだ来ないのか。」
一人の武将が舌打ちをした。
新緑の美しい初夏の頃。姉小路の名跡を継ぎ、飛騨国司となった直頼が呼びかけた『御披露目』の場は、桜洞城ではなく、近郊の静かな寺院の畳の上であった。
ここに集まったのは、高原諏訪城の江馬氏、白川郷の帰雲城主・内ヶ島氏、そして高山盆地の広瀬氏ら。
これまで飛騨の覇権を巡って血で血を洗う小競り合いを続けてきた国人衆の当主たちだ。
誰もが「三木が何の用だ」「朝廷のハクを傘に着て威張り散らす気か」と、殺気立った値踏みの視線を走らせていた。
だが、部屋のド真ん中に用意されていたのは、上座も下座もない、車座(円形)の座布団であった。
現れた姉小路直頼は、国司の立派な服ではなく、いつもの武骨な平服姿のまま、江馬たちの並ぶ円の中へとドカリと腰掛けたのだ。
「…おい、儂と貴殿らは今更知らぬ仲でもあるまい。今日は腹を割って話そうじゃないか。」
姉小路直頼はそう言って、悪戯が成功した少年のような豪快な笑みを浮かべた。
驚きに目を丸くする国人たちを見渡しながら、直頼はまっすぐな瞳で言葉を続ける。
「儂はな、飛騨の未来を神保に、北山協定にかける事と決めた。その上で貴殿らは、儂と共に来るか、このまま虚しい喧嘩を続けるか……今ここで決めて欲しいのだ。」
「…な、何を勝手なことを」
「まぁまぁ落ち着いてくれ、左馬介殿よ。」
江馬の当主が苦々しく口を開きかけるが、姉小路直頼の放つ圧倒的な武人の覇気に気圧される。
江間氏は桓武平経盛流を称し、飛騨に根を張ったこの地域の名門だ。
その当主でさえ、姉小路直頼の静かな覇気には圧倒されたのである。
広間に、張り詰めた重い静寂が流れる。すでに神保への納税義務がある内ヶ島をはじめ、誰もが姉小路(三木)の真意を測りかね、拳を握りしめていた。
だが、直頼の口から続いたのは、彼らの予想を遥かに超える、あまりにも泥臭く、頼もしき本音であった。
「神保近衛少将は、同盟国としては形の上で儂と対等だ。まぁ、現実は知らんがな。」
直頼がガハハとぶっちゃけて笑うと、極限まで高まっていた広間の空気が、ふっと弛んだ。
「だがな、神保の者がこの飛騨に入り、もし我らに不利益があれば、この国司となった儂が必ず少将殿へ直に進言することを約束しよう。どうだ? 貴殿ら。ここらでそろそろ、みみっちい喧嘩はやめにしないかね?」
姉小路直頼がまっすぐな瞳で言い放ったその瞬間、円座の一角から、冷ややかな声が飛んだ。
「フン。口先だけなら、なんとでも言えるな。姉小路国司様。」
白川郷・帰雲城の主、内ヶ島雅氏が、鋭い視線で姉小路直頼を睨み据えた。
「我が内ヶ島は、すでに安全保障の引き換えとして神保家への納税義務を負わされておる。そこへ今度は、朝廷の宣旨を盾にしたお前が『国司』として上に降ってくるわけだ。神保に吸い上げられ、さらに三木にも頭を下げろと? どこが腹を割った対話だ。我らを神保の犬の、そのまた犬にする気か?」
内ヶ島雅氏の痛烈な反論に、広間の空気が再び凍りつく。江馬左馬介や広瀬ら周囲の諸将も、内ヶ島の言い分に「そうだ、実利はどうなる」と静かに身を乗り出した。
だが、姉小路直頼は怯むどころか、待ってましたと言わんばかりに不敵に笑ってみせた。
「それは逆だな、内ヶ島殿。お前が近衛少将を苦々しく思っているからこそ、儂の存在が生きてくるのよ。」
「何だと…?」
「これからは近衛少将等に飛騨から何か金子等納める必要あらば、『それは国司である姉小路が一括して取りまとめ、神保へ納める』と要求するつもりだ。つまり、お前の領地に神保の役人が直接入って財布を覗き込んでくるのを、儂が国司の権限で突っぱねて、間に入って守ってやるということだ。あのえげつない近衛少将の配下と直接やり合うのと、同じ飛騨の武士である儂を間に挟むの、どちらが息がしやすい?」
内ケ島雅氏はハッとして言葉を詰まらせた。
神保の飛騨総代と言えば、あの小嶋邦鎮である。
あの若きバケモノは正直、内ケ島雅氏の手には負えぬ存在だ。
姉小路直頼は畳をドンと叩いて、言葉を畳み掛けた。
「それだけではない。あの越中の技術を入れれば、お前のところの鉱山等産業の生産量は何倍にも跳ね上がるはずだ。。増えたモノは全て狩野屋が全部買ってくれる。神保への税など一瞬でチャラになり、お前の蔵には見たこともない富が残るぞ。領民達も助かろうよ。どうだ、儂を信じて飛騨一国で大儲けするか、それとも神保に目を付けられたまま、この山奥でみみっちい縄張り争いで共倒れになるか。お前ほどの知恵者なら、どちらが『実利』か分かるはずだ。」
「そ、それは…」
これにはぐうの音も出なかった。
元々内ケ島氏から神保への納税義務は、国内の脅威、つまり三木(姉小路)ら他の国人からの安全保障の代わりに生まれたものだった。
その脅威の相手が手打ちをしようと言ってきているのだから、それが成れば神保の傘の下にいる必要も、納税義務も消失する訳だ。
「…く、ククク。ハハハハハ!」
沈黙の果てに、内ヶ島雅氏は思わず天を仰いで、降参だと言わんばかりに豪快に笑い出した。
「参ったな。貴殿はただの武骨者かと思えば、国司殿、お前が一番食えぬ大将ではないか。…良いだろう、あの小嶋の若造に直接財布を握られるよりは、同じ飛騨の武士であるお前の神輿に乗る方が遥かにマシだ。その代わり、神保が無理を言ってきたら、国司として命がけで我等の盾になるのだぞ。」
「当然だ。それが儂が姉小路名跡を継いだ覚悟と言うものよ。」
その言葉を受け内ケ島雅氏は姿勢を正した。
「国司殿、我が内ケ島は貴殿に恭順し、傘下に入りまする。以後、身を粉にして飛騨の発展の為、尽力するつもりでござる。…のう、江間殿らはどうするのだ?」
内ヶ島雅氏の視線を受け、それまで腕を組んで黙り込んでいた江馬左馬介は、苦々しげに、しかしフッと不敵な笑みを漏らした。
「ふん。白川郷の狐殿が早々に降参したのだ。我が江馬だけが、いつまでもみみっちい意地を張るわけにもいくまいよ。もう名門の誇りだけで生きていける時代でも無いしな。」
左馬介はそう言うと、真っ先に円座の真ん中へ、その無骨な手を差し出した。
「国司殿。我が江馬も、貴殿に合力する事を誓わせていただく。その代わり飛騨を売り渡す様な事をしたら覚悟していただきましょうぞ。」
「ガハハ! 望むところよ、左馬介殿!」
姉小路直頼の豪快な笑い声を合図に、広瀬や他の諸将たちも「……ここらでそろそろ、みみっちい喧嘩は終いだ」「大儲けさせてもらうぞ!」と、次々に笑顔で円座の真ん中へ手を重ね合わせたのだった。
今ここに、長年にわたり続いた飛騨の争いに終止符が打たれた。
それは戦では無く、それも国司の威光だけでは無く、姉小路直頼自身の人柄が現れたものかもしれない。
飛騨は国司・姉小路直頼を中心に、緩やかに纏まったのであった。
その頃、熱い手打ちが行われている一室から少し離れた、寺の縁側。
ここには姉小路四郎二郎嗣頼と小嶋邦鎮がいた。
「……六左殿。父上は大丈夫でしょうか」
四郎二郎嗣頼は心配そうな声で父らがいるであろう部屋の方を見た。
その隣で、神保家の総代として待機している小嶋邦鎮は、いつもの営業スマイルを浮かべながら、のんきにお茶を啜っていた。
「御心配召されるな、四郎二郎殿。貴方の御父上は相当なバケモノにござるよ。」
「バ、バケモノですか…?」
「いや、貴方にもその片鱗はありますけどね。」
「わ、私はそんな…」
四郎二郎嗣頼が急に中性的で美しい顔を赤らめた。
それだけ見ると人によっては惚れてしまうぞ?
「冗談はさておき、あの御仁は相当な傑物でらっしゃいます。飛騨武士とでも言うのかな。御父上は飛騨の武士として覚悟を説き、江馬や内ヶ島らを一番良い形で納得させることでしょう。まあ、我が神保からしたらちょっと想定外な事もありそうですがね。」
「想定外…?」
「あ、いやこちらの話ですよ。」
ちょうどその時、部屋の奥から、姉小路直頼や諸将たちの豪快な笑い声が地鳴りのように響いてきた。
「ほら、手打ちは成ったようでございます。」
小嶋邦鎮がいつもの営業スマイルを本物の信頼の笑みに変えて深く頷き、四郎二郎嗣頼も嬉しそうにパッと表情を輝かせた。
(さて、これから忙しくなるぞ。)
小嶋邦鎮は表情を変えずも、心の中でそう呟いた。
姉小路直頼は交渉相手としては中々に強敵だ。
まぁそれでも飛騨国内が纏まっていくのは一先ず喜ぶべき事であろう。
その日の夕方。
集まった諸将が自領へ帰っていく中、まだ寺院敷地内に居た小嶋邦鎮はとある人物に呼び止められた。
「あ、これは内ケ島様。ご無沙汰しております。」
話しかけて来たのはそう、内ヶ島雅氏だ。
「ふん、やはり貴殿も来ていたのだな。」
「ええ。しかし今日は四郎二郎嗣頼殿の付き添いでございますがね。」
「…国司殿のアレは貴殿の仕込みでは無いのかね?」
「姉小路様の御発言は拙者も会議後に報告を受けましたがね…。あれは我が神保としても頭が痛いモノにございますよ。」
「ほう、アレには神保家の意向は入っていないと?」
「我が主と姉小路様は対等な立場にございますからな。」
「フン、貴殿が言うと白々しく聞こえるものよ。」
「…某も嫌われたものですな。」
小嶋邦鎮はいくぶん大げさに肩をすくめてみせた。
「まぁいい。以降、我が内ケ島を含め、各国人は国司殿の下で纏まっていくことになる。」
「肝に銘じておきましょう。」
「…これからもよろしく頼むよ。」
内ヶ島雅氏はそう言うと、足早にその場を離れて行った。
この日、長きに渡って続いてきた飛騨国内の争いはいったん終結した。
山深きこの国は、新しい時代へと産声をあげたのであった。
姉小路直頼の名跡襲名、国司任官からの飛騨の流れがいったん一区切りとなります!!!




