第百八十七話
一五三六年五月下旬 京都・二条大路 京都見廻組役宅(建築現場)
三好康長に頭をくしゃっと撫でられ、その背中を見送ったあの初日の夕暮れ。
洛中守護長官に任じられた竹内季治は、粉々に砕け散った家の誇りとプライドの重さに、一晩中、役宅の自室で悶々と苦しみ、のたうち回った。
(自分は、ただのお人形だったのか……。雅なナリでは、誰も守れぬというのか……!)
涙を流し、拳を畳に叩きつけ、苦悩の果てに彼が選んだのは、まさかの選択であった。
そして、翌朝。
昨日、雅な姿の季治を「若造」と怒鳴りつけた大柄な町衆の男をはじめ、五十名の男たちが再び屯所の建築現場に集まっていた。
またあの公家の若造は偉そうにモノを語るのか?
いや、そもそももうここには来ないかもしれない。
男衆とて、京の町を守りたい、そのような気概は持ち合わせていた筈だ。
今までもそうしていたのだ。
今更あんな甘ちゃんを寄越して、いったい何を考えているのか?
男衆はそのようなこと考えながら、気怠そうに転がる木材に腰掛けていた。
だが、屯所の入り口に「その若者」が現れた瞬間、広場の空気が一変した。
「……おい、嘘だろ」
誰かが、あんぐりと口を開けたまま声を漏らした。
そこにいたのは、昨日の雅な烏帽子も、美しい白の直衣を纏った高貴な公家様ではなかった。
髪を無骨に結び、泥の汚れすら目立たない地味な足軽用の麻衣を身に付けた、一人の泥臭い若者の姿だった。
そう、竹内季治その人であった。
竹内季治は昨日あれほど自分を嘲笑った五十名の荒くれ者を見据え、そして静かに前に立ったのだ。
その手には、昨日ずり落ちそうになっていた家の誇りである弓が、今度はしっかりと握られている。
「皆、昨日はすまなかった。」
竹内季治は深々と頭を下げた。
そしてゆっくりと頭を上げると、眼前の男衆を見渡した。
屯所が、水を打ったように静まり返った。
昨日とはまるで違う光景。
その姿を見つめていた三好康長も、思わず息をのんだ。
「わたくし、いや、俺は皆と共にこの京の町を守る決意だ。俺は家伝の弓こそ多少は得意だと思っているが、その他には何もできないちっぽけな人間だ。どうか、皆の技を教えてほしい。そして皆の力を貸してほしいんだ。」
誇り高いはずの五位の公家が、自分たちと同じいで立ちで、はるかに身分の低い町衆に教えを乞うている。
そんなのは誰も見たことが無かった。
「へっ、たった一日で見違えたじゃねえか。」
口を開いたのは、あの大柄の男だ。
「良いぜ、長官さんよ。俺がアンタに捕縛術を仕込んでやる。だが、遠慮はしねえから覚悟するんだな。」
「ああ、よろしく頼む!」
竹内季治は再び頭を下げた。
昨日までの彼は、もうここにはいない。
そして、彼を蔑む男衆も、もういないことだろう。
(フ、広橋卿。あなたも目論見は良い意味で外れたみたいですよ。)
三好康長はそう心の中で呟きながら瞑目した。
その顔には心なしか笑みを浮かべている様に見えた事だろう。
狩野屋が手配した大工たちの木槌の音が、昨日よりもどこか軽快に、初夏の京の空へと響き渡るのだった。
◇ ◇ ◇
そして日も高くなり、そろそろ昼餉の時間となった。
竹内季治は男衆と同じ弁当を受け取り、建築現場の片隅に腰かけていた。
「よう、長官さんよ、ご一緒して良いかい?」
かの大柄の男が弁当を少し高く掲げながら話しかけて来た。
「ああ、もちろんだ。ええと…」
「竹蔵だ。ハハハ、アンタも俺も同じ”竹”仲間だな。」
竹蔵と名乗った男は竹内季治の隣にドカっと座った。
「そうだな。よろしく頼む、竹蔵。……うおっ!?」
竹内季治がお弁当の蓋を開けた瞬間、その豪華な中身に思わず目を丸くした。
美しく美味しいお米に、京では中々手に入らない新鮮な魚の塩焼きや、栄養満点のおかずがぎっしりと詰まっていた。
「この弁当は狩野屋が準備してくれたみたいだな。」
「ふうむ、越中はそこまで豊かだと言う事か。」
(これではどちらが都か分からないな。)
竹内季治は思わずそう思った。
「違えねえ。でもよ、こんな美味え弁当を出してくれるなんて、それほど俺達に期待してくれているって事じゃないのかい?」
「ああ、そうだな。」
竹内季治はそう言うと、白米を口の中へ放り込んだ。
口の中へ広がる甘味は、半日働いた疲れを癒してくれるかのようだ。
「そう言えば…竹蔵は備前の出身だったか?」
「そうだが、何で知っているんだ?」
「ああ、それは、弾正忠殿から名簿を貰っていたからな。」
竹内季治はフッと笑みを浮かべた。
「…もしかしてその名簿の、全員の内容を覚えて来たのか?」
「ああ、昨晩な。だがまだ顔と名前が一致していないからな。覚えているとは言えぬだろ。」
「あ、いや、それでもすげえと思うが…」
竹蔵は、箸を持ったまま完全に圧倒されていた。
「…これから一緒に働く仲間だからな。」
「…すまねえ。」
竹蔵は弁当を傍らの木材の上に置いた。
「えっ、何がだ?」
「いや、昨日は言いすぎた。長官、あんたは公家にしては良いヤツだよ。」
「ははは、やめてくれ。昨日までの俺は良くないヤツだったはずだよ。」
「それでもだ。」
「そうだな。」
「さっきも言った通り、俺はあんたに逮捕術を仕込んでやる。その代わりに俺からもお願いをして良いか?」
「もちろんだ。俺に出来るものならな。」
「俺は備前で、足軽をやっていた。だから槍捌きには自信があるんだが、弓はやったことが無え。俺に弓を教えてくれ。あんた、弓が得意なんだろ?」
竹蔵が竹内季治の傍らに置いてある弓を見遣った。
竹内家に伝わる、伝来の弓だ。
「ああ、それは構わないんだが、な…」
「ん、どうかしたのか?」
竹蔵は思ってもいない答えに目を丸くした。
「いやな、俺はこの弓しか持っていないんだ。ここに届いている物資を見たが、弓は無かった。あ、そうだ。この弓を売れば、皆で使える弓を準備できるか…?」
「…何を言っているんだ?」
「いや、だからこの弓を売れば、それなりな数のモノに買い替えられるのでは無いかと…」
「あ? おめぇは馬鹿か?」
竹蔵が思わず立ち上がった。
「な、何だ。竹蔵。」
「そいつは先祖から伝わる家宝なんだろう? そんな大事なモンと簡単に売るなんて言っちゃだめだろうが!」
「あ、いや……しかし、皆の弓が無いのでは、訓練もできまい…」
竹蔵の迫力に、竹内季治が目を白黒させて縮こまった。
竹蔵は呆れ果てたように大きなため息をつき、頭をガシガシと掻いた。
「とにかくそれを売るのはダメだ。…アンタ本当に大馬鹿野郎だな。……でもよ、そんだけ本気で俺たちのことを考えてくれてるってのは、痛いほど分かった。だがな、その必要はねえよ。」
「え?」
「んなもん、三好様にお願いすれば良いんだ。」
「そ、そうなのか!?」
「ん、俺を呼んだかな?」
声がした方を見遣るとそこには三好康長が立っていた。
「あ、いや、弾正忠殿。今竹蔵と話していたのですが、彼に弓を教えたいと思っておりまして…」
「なるほど…」
三好康長は腕を組みながら、二人を見た。
まぁ先程の彼等の会話には聞き耳を立てていたので大体内容は分かっているのだが、初めて聞いたことにしておいた方が良いだろう。
「…なるほどですな。ご安心なされ。狩野屋を通じて必要な数を準備させましょう。一先ず二十張程あれば良いかな?」
「なんと、真にございますか? 弾正忠殿。」
「ええ、もちろんですよ。一両日中には準備出来る事でしょう。」
「な、三好様に相談して良かったろ?」
「ええ、そうですね。弾正忠殿、是非ともお頼み申す。」
竹内季治が軽く頭を下げた。
「ええ。では早速手配して参りましょう。」
三好康長はそう言いながら満足そうに頷いた。
そして二人に声をかけると、静かにその場を離れた。
うむ、この様子であれば『京都見廻組』は上手くいく事だろう。
三好康長は心の中で深く頷いた。
…そう言えば竹蔵は備前の出身だと言っていたな。
今度行き会った時に、宇喜多の話でも聞いてみることにするか。
三好康長は狩野屋の店舗へと足を進めながらそう思った。
八郎の母親が、実母の今際の際に八郎を引き取り、この京の町へと移住してきた、あの数年前の出来事。
備前で一体何があり、なぜ八郎は引き取られねばならなかったのか。
同じ備前出身の竹蔵であれば、八郎のルーツに繋がる、あの地の何らかの噂を知っているやもしれぬ。
三好康長は、神保家の未来を背負う若き八郎の過去に思いを馳せながら、狩野屋の店舗へと足を進めた。
『京都見廻組』発足の後半です。ここから訓練やその他業務を進め、少しずつ実働へ繋げ、将来的には目標の五百名へと増員していく流れは始まる事になります。




