第百八十六話
一五三六年五月上旬 京都・二条関白邸
禁裏でのあの生々しい会議から、一週間ほどが経った頃。
関白・二条尹房の邸宅の奥深く、灯明の火だけが揺れる密室にて、二人の公卿が対座していた。
「…伝奏よ。」
「はっ。」
関白・二条尹房が、手元のお茶を優雅に啜りながら、対面に座る武家伝奏・広橋兼秀へと視線を向けた。
「件の『京都見廻組』だが、五位の位階を持ち、公方が文句をつけられず、されど我が朝廷の言うことをよく聞く都合の好い男など、そう簡単に見つかるものかな?」
二条尹房が少し困ったような顔で言った。
いや、含み笑いが含まれるこの表情は、政治的な駆け引きだろうか?
二条家は名門の家系であるが、それでもこの地位に就くと言う事は、並大抵の人間では無いと言う事だ。
これは試されているのだろう。
そう考えた広橋兼秀は低姿勢ながらも不敵な笑みを浮かべながらそれに応じた。
「関白様、ご安心くださりませ。この兼秀、ちょうどおあつらえ向きの者の名を思いつきましてございます。」
「ほう? 聞こうではないか。」
二条尹房が、品定めをするように目を細める。
広橋兼秀は滑らかな所作で一歩身を乗り出した。
「…それは久我家の諸大夫を務めます、竹内季治にございまする。」
「竹内……。確かあそこは、清和源氏の血を引く武門の家柄であったな。位階は確か……」
二条尹房がそこまで言い掛けたところで、広橋兼秀は肯定する様に頷いた。
「左様で。かの者は従五位下・近江守。今年でちょうど十八になる、文武に励む新進気鋭の若者にございます。この季治を京都見廻組の、朝廷における公式の官職、新たに新設する『洛中守護長官』に据えるのです。これが、公方へのこれ以上ない強烈な牽制となりましょう。」
「洛中守護長官…の。尤もらしい官位名やないか。」
広橋兼秀の言葉に、二条尹房の含み笑いが、本物の興味を帯びたものへと変わった。
思わず京言葉になったのがその現れであろう。
「足利の公方様は『源氏の長者』を気取って、京の治安は幕府の領分だと騒いでおります。…近衛の左大臣様もですが。なればこそ、同じ清和源氏の名門であり、かつ我が朝廷に仕える五位の近江守を長官に据えるのです。さすれば、幕府が何を言ってこようが、『同じ源氏の武門の誉れ高き血筋による、帝直属の職務である』と一蹴できます。公方とて、己の血統を否定できず、手出しはできませぬでしょう。」
その言葉に、二条尹房はぽんと手を叩いて愉快そうに笑い声をあげた。
「ハハハ、なるほど! それは小気味よい。公方の鼻をあかすには最高の神輿だな!」
「それだけではございませぬ。季治は家を興そうと燃えている新進気鋭の熱血漢。裏から『お前の働きを帝も見ておいでだぞ』と耳打ちしてやれば、喜んで見廻組の先頭に立つでしょう。我々は近衛少将や我が娘婿に銭を出せればよいのです。朝廷が裏からその手綱を引くには、これ以上ない逸材にございます。」
広橋兼秀のこの言葉は半分、いや六割程は合っていて、残りは嘘である。
家を興すのに躍起な公家の若者は確かに御しやすいであろう。
それに金や物資(+初期の育成の手)を出すのは神保家に違いない。
…だが神保家が手を出している間はどうなるか?
それは腹芸で語るものなのである。
「うむ、それは上上。その人事、関白として許可しよう。早速、竹内季治を呼び出し、宣旨の準備に係れ。」
「ははっ。畏まり奉りまする。」
薄暗い密室で、二人の公卿が今度は完全に意気投合してニヤリと笑い合う。
…この会議を経て、『京都見廻組』の設立は急ピッチで進む事となったのである。
◇ ◇ ◇
一五三六年五月下旬 京都・二条大路 京都見廻組役宅(建築現場)
関白らの会議から幾分か日が経った。
狩野屋の差配によってかき集められた大工たちが、カンナをかけ、柱を立てる木槌の音が響いている。
まだ骨組みしか見えない隊士宿舎の長屋、その絶賛工事中の隣にある空き地が、今日の舞台であった。
そこに集まるのは神保家が金で雇い入れた現場の足軽や、京の町を守るために志願してきた、目つきの鋭い町衆(平民)たち。
その最初の五十名程度が、転がっている丸太や木材に思い思いの格好で腰掛け、値踏みするような視線で正面を睨みつけていた。
一見荒くれ者にも見える彼等の視線の先には、一人の公家の若者。
朝廷から『洛中守護長官』の宣旨を受けた、竹内季治が立っていた。
そのいでたちは清和源氏の気高さを象徴する見事な弓を背負い、まっことお公家様らしい雅な直衣姿。
それでも気合は十分であった。
「皆の者、聞くが良い! 帝より、我が京都見廻組に対し、正式に『洛中守護長官』の宣旨が下された! わたくしは長官の竹内近江守季治である。源氏の誇りに賭けて、この京の町を――」
竹内季治が懸命に声を張っての演説をぶち上げた、まさにその瞬間だった。
「…おいおい、うるせぇなぁ! 公家様が、しかもあんたみたいな若造が、今更町の治安を語るのかい!?」
最前列にいた、腕組みをした大柄な町衆の男が、ペッと地面に唾を吐き捨てながら声を荒らげたのだ。
その腕はここにある木材など簡単に持ち上げられそうな程隆々としていた。
「しかもそんな雅なナリで物取りや辻斬り、乞食と渡り合えるってのか!? ええ!?」
「そうだそうだ! 今まであんたらみたいなお貴族様が俺達に何をしてくれたって言うんだ? ええっ!?」
男衆は次々と不満を口にした。
「な、何だと……っ!?」
予想を遥かに超える現場の現実を容赦なく叩きつけられ、季治の顔が一瞬で真っ赤になった。
怒りと悔しさ、そして実戦経験が一度もないという図星を突かれ、拳を震わせながら言葉に詰まってしまった。
「無礼者! わたくしは、清和源氏の血を引く――」
それでも彼にはプライドがあった。
何とか場を取り繕うとした言葉、それは火に油を注ぐものであった。
「血統で飯が食えるかよ! 若造はお家に帰って雅楽でも奏でてな!」
怒号と野次が飛び交い、季治が完全にパニックに陥りかけたその時、すっ、と季治の前に進み出た者がいた。
京都見廻組の設立を援助する神保家を代表して来ていた男、そう、三好康長だ。
「そこまでにせよ、京の男たちよ。」
三好康長は静かに、しかし地響きのような重い声を放った。
その圧倒的な武人の威圧感に、一瞬で場が静まり返った。
「お前たちが飢え、辻斬りに怯えている声を、俺は知っている。…偽善に過ぎないかもしれぬが、俺は親子を保護したのだ。…京の町がこうなってしまったのは公家だけでは無い。それは俺達の様な武士にもその責任の一端があるだろう。…すまぬ。」
三好康長が深々と頭を下げた。
「そ、そんな…」
「三好様が謝る事でも…」
彼等の一部が手の届く範囲ではあるが、三好康長が方々で尽力しているのを知っていた。
「今日の所は俺に免じて勘弁してやってくれ。」
三好康長の言葉は重く、民の心に響くものであった。
「し、仕方ねえな。」
「三好様がそう言うんじゃな…」
三好康長の言葉に、荒くれ者たちはゴクリと唾を呑み込み、丸太から立ち上がって散っていった。
その様子を見届けると、三好康長は視線を竹内季治に移した。
「…」
竹内季治は虚ろな目で一言も言葉を発せず、ただ立ち尽くすしか無かった。
だらんと腕を下げ、家の誇りであるはずの弓もずり落ちそうであった。
自信満々で来たはずの彼は、その初手で打ちのめされてしまったのだ。
三好康長はポンポンと竹内季治の肩を叩いた。
…公家に対してこれは無礼な行為だろうか?
それでもこれを乗り換えてもらわなければ先はあるまい。
三好康長は竹内季治の頭をくしゃっと撫でると、その場を後にした。
ついに京都見廻組始動となります。前に述べた通り設立初期の投資、育成について神保家が多くを援助するものとなります。




