第百八十四話
一五三六年四月 越中城ヶ崎城
「花ちゃん、この御膳を持って行ってくれる?」
ここは越中城ヶ崎城の台所。
何となく洋風(近代風)に作られたここで、神保長職の正室である芳が腕を振るっていた。
夫である神保長職を含め、男衆は今頃酒宴で盛り上がっている事だろう。
いや、何故武家当主の奥方様がここで料理を作っているのか?
それはもちろん”芳様”であるからに他ならない。
芳は誰から強要されるでも無く、自分の意思で、好きでここに立っているのだ。
「ママ、やっぱりここにいたのですか?」
台所の入り口からひょこっと顔を出したのは小三郎長教の嫁である胡桃だ。
「あら、胡桃ちゃん。どうしたの?」
「小三郎がママを探していましたよ。義父上達が相手にしてくれないから寂しいんじゃないですか?」
「まあ、小三郎も元服して少しは逞しくなったと思ったけど、まだまだ甘えんぼさんね。まぁほっといて良いわ。」
芳がにっこりを笑った。
胡桃は思わず、「んぐっ!」っと言葉を飲み込んだ。
芳は齢は二十八くらいになっているはずだが、この笑顔は毒気が抜かれるような代物だ。
ちなみに胡桃が芳の事をママと呼んでいるのは、芳がそう呼んでくれと言ったからだ。
芳は夫である神保長職からいくつか英単語を教わっていて、それを気に入ってそうしているのだ。
「は、はぁ。小三郎、ほっといていいんですね。…っと、あたしも何か手伝いましょうか?」
「ありがとう。でも胡桃ちゃん、炊事できるんだっけ。」
「あら、ママったら田舎出身のあたしを舐めてらっしゃる?」
「ふふふ、御願いね。」
胡桃も加わり、芳達は今夜の酒宴に出すための料理を作り続けた。
その後半刻程で全てを作り終えることが出来た。
「ふー、これで最後ね。花ちゃん、みんなでこれを持って行ってくれたら今日はもう休んでね。」
「はい、御方様。」
女中の花らは一礼すると、膳を持ってその場を離れて行った。
「さて…と。」
芳がぐっーっと背伸びをすると再びまな板の前に立った。
「あれ、まだ何か作るんですか?」
「ふふ、次は芳たちの食事の準備よ。せっかく加賀から庄五郎さんと一緒に奥さんも来てるんだから、お客人としておもてなししてあげなきゃね。一緒に食事しようと思ったの。」
「ああ、梓さんですか。…あたしも手伝います。」
「ありがとうね、胡桃ちゃん。」
胡桃も芳の隣に並んだ。
二人は手際良く料理を続けていく。
「んーでもあたし、梓さんの事ちょっと苦手なんですよね。」
「そうなの? あの子、とてもいい子じゃない。庄五郎さんはちょっと尻に敷かれている気はするけど。」
「それですよそれ。あの松波様程の方があんなにやりこまれてるなんで、美人で気品はあるんですけどちょっと怖くて。」
「あら、勝気な胡桃ちゃんが怖がるなんてちょっと不思議ね。」
「ママはあたしの事をなんて思ってるんですか?!」
胡桃は困り眉になりながら苦笑いした。
まぁ確かに胡桃は大人しい双子の弟である三木四郎二郎よりもだいぶ強気であり、弟を心配するあまりグイグイ引っ張っていくタイプだ。
嫁いだ先の小三郎長教に対しても、小三郎が年下であるため、まるで弟の様に接していた。
その胡桃が怖がると言う事は、つまりそう言う事だ。
「…へえ、わたくしのことが、どうかしたんですか?」
「ヒャいッ!?」
台所の入り口――部屋続きになっている今風に言えばダイニングの向こうから、不意に涼やかな声が響いた。
びくっと肩を跳ね上げた胡桃が振り返ると、そこには美しい着物をこれ以上ないほどエレガントに着こなした梓が、お盆を手に持って立っていた。
「あ、梓さん……! い、いつからそこに?」
「今さっきですわ。えーっと、御屋形様がおっしゃるには『だいにんぐ?』の席で待っておりましたら、『美人で気品はあるけれど怖い』という単語が台所から聞こえてきたあたりかしら?」
「へ、へぁぅ!!(この人薬売りの人並みに忍び足が得意なのかしら…)」
クスリと、上品でありながらどこか悪戯っぽく微笑む梓を見て、胡桃は声にならない声を上げた。
しかし、芳はそんな2人の空気などお構いなしに、ぱっと顔を輝かせた。
「あ、梓ちゃん! ちょうど今、梓ちゃんの分の御膳も出来上がったところなの。さあさあ、ダイニングの席に座って!」
「ありがとうございます、御方様。わたくし、御方様の手料理をすっごく楽しみにしておりましたの。あ、旦那様達の分の膳は、さっき花さん達と一緒に男衆の席へ運んでおきましたわ」
「ありがとう、さすが梓ちゃんね」
「どういたしまして。(ふふ、御方様にはわたくしもかないませんわね。)」
芳のふんわりとした笑顔に、ピリッとした空気は一瞬で溶けていく。
芳と胡桃は、出来上がった料理をすぐ隣のダイニングテーブルへと手際よく運び入れた。
こうして、モダンなダイニングで、年齢も立場もバラバラな3人の『女子会』が始まった。
「…でも梓さん、松波様をあんなに尻に敷いてるって本当なの? あ、いや、本当なのですか?」
「ちょっと胡桃ちゃん、なんてこと聞くのよー。」
芳が思わずケラケラと笑った。
「いえ御方様、事実ですから否定はいたしませんわ。でも胡桃様、あれは尻に敷いているのではなくて、旦那様がわたくしに頭が上がらないだけですのよ?」
「それ、おんなじ意味ですって!」
「そうかしら。あ、それについて御屋形様が面白いことを仰っていましたの。」
梓がすぅーっと息を吸った。
「御屋形様が旦那様の事を『あやつは”マムシ”であったはずだが、アレではまるで”ツチノコ”だな』と。」
梓は大袈裟な物まねをしながらそう言った。
「それでね、わたくしはこうお返ししたわ。『そうですね。わたくしの”ツチノコ”はとても可愛らしいのですよ。せっかく算盤を教えて差し上げていると言うのに未だ間違えるからわたくしはよく怒るのだけれど、その度に顔を真っ赤にしながらシュンって縮こまっていかれるの。』。そしたら御屋形様ったら、『…梓殿はまるで蛇使いだな』っておっしゃったの。」
「やだー。庄五郎さんったら可愛い~。」
芳は手を叩きながら笑った。
その様子を見て胡桃はあんぐりと口を開けたまま、箸を止めてしまった。
あれ、梓はこんなに陽気な人だったろうか?
胡桃がふと梓のおちょこを見ると、中にあったはずのお酒は綺麗に消えていた。
見れば、梓の足元には既に徳利が二本ほど空になって転がっている。
「ふふふ、梓ちゃんたらお酒強いのねー。芳も負けないんだから!」
「マ、ママ!? いつからお酒を??」
気づけば、芳も自分のおちょこになみなみとお酒を注ぎ、クッと喉を鳴らしていた。
もともと精神年齢が若い芳である。
お酒が入ると、そのあどけなさに拍車がかかり、頬をほんのり桜色に染めて「えへへ、美味しい~」と完全にふわふわモードに突入してしまった。
ダイニングテーブルの上は、一瞬にして混沌な空間と化す。
「胡桃様、お酒は人生の潤滑油ですわよ? さあ、お召し上がりになって!」
「あ、あたしにはまだお酒は早いって~~!! 小三郎~~!!!」
「そうよ胡桃ちゃん! 小三郎のことなんか忘れて、みんなで飲も!」
「は、はぅぅぅ…!(どうしよう、ママも梓さんも完全に出来上がってる……!!)」
唯一の素面である十五歳の胡桃は、おろおろと視線を彷徨わせるしかない。
このままでは自分までこの怪しげな「だいにんぐ」の闇に呑まれてしまう。
危機感を覚えた胡桃は、頭をフル回転させ、さっき台所へ来る前に十三歳の旦那(小三郎)から聞いたばかりの、とっておきの話を引っ張り出した。
「そ、そうだ。そう言えばさっき小三郎が『父上(御屋形様)が京の朝廷から近衛少将に任官された!』って大騒ぎしていましたよ! お祝いに、京の高級なお菓子も山ほど届いたとか……!」
必死の話題逸らしだった。この大ニュースを投げ込めば、少しは2人の酔いが冷めるかと思ったのだ。
しかし、酔っ払い2人はその大ニュースを、独自の方向へ拡大解釈した。
「あら……長職さまが、しょうしょう? よくわからないけれど、お祝いしなければならないわね!」
「ええ、お祝いですわ御方様! では、わたくし達も男衆の席へ突入いたしましょう!加賀からとびきりのお酒を持ってきたのよ!!」
「ええ!そうね!京のお菓子も、酒の肴にするしかないわ!!」
「ふふふ、京の実家も少しは役に立つと言うもの。御屋形様の臣下の妻冥利に尽きますわ!」
「普段は神保家の侍大将は総光おじさんだけど、今日のお祝い大将は芳よ!突撃、とつげきーー!!!」
「御方様! わたくしはいつまでも御方様についていきますわ!!!!」
二人は料理の膳や酒を持ってすくっと立ち上がった。
これはもう、男衆が酒宴を行っている広間へ突撃する構えだ。
「ちょっと待ってくださいお二人ともーーー!!」
話題を逸らすどころか、火に油を注いでしまった。胡桃の必死の制止も虚しく、ふわふわ笑顔の芳と、目が据わったまま上品に笑う梓は、お盆を手にダイニングを飛び出していった。
「も、もう! 誰かあたしを助けてーー!」
半泣きの胡桃はヨロヨロとその後を追いかけていった。
この後、酒宴会場となっている大広間で何が繰り広げられたか、それは想像に難くない。
官位受領と言う、神保家にとって目出度き日に酒宴は行われたのだ。
得意げになっているであろう男衆の所へ突撃する妻たち。
神保家で行われる酒宴は基本『無礼講』なのであるが、この日の酒宴は官位受領並に”歴史的”となったことであろう。
たまにはコミカルな話も良く無いでしょうか? 神保家のアイドルである芳も、梓もいけるクチです(笑)




