第百七十九話
一五三六年三月 京・二条柳馬場付近
ある日の京・二条柳馬場付近。
この辺りはこれまでの京の都では見られなかった活気に包まれていた。
この場所は京の都の中で『最も金が動き、最も最先端の物資が集まる場所』と言っても過言では無かった。
しかし本来京の治安維持を担当すべき幕府の侍所は京の北東郊外にある柳原御所の守りに引きこもり、朝廷の検非違使も形骸化して久しい。
かつて足利将軍家が威を振るった三条御所や花の御所は未だ荒廃したままであり、将軍・足利義晴公みずからが堀と土塁に囲まれた郊外の城郭に引きこもらざるを得ないほど、京の都は軍事的に完全にがら空きとなっていたのだ。
民衆は自らの家の戸を閉め、また自警団等を作って自衛するよりほか無かった状況だ。
だがそんな荒廃した都の中にあっても北山協定御用商人である狩野屋が商う二条柳馬場の周辺だけは、北陸の富と物資が流れ込む”比較的”の安全地帯として存在していた。
それでも全く安全であるかと言うとそうはいかなかった。
活気に沸く狩野屋の店先。店の手代たちが、北陸から届いたばかりの大量の薬種(薬箱)を荷車から降ろし、店先へ卸そうと慌ただしく立ち働いている、その一瞬の隙にその事件は発生した。
人混みの隙間を縫って、泥に汚れた衣服を着た一人の童が音もなく間合いを詰めた。
その凄まじく素早い指先が、荷車の上に積まれていた小さな薬箱を、鮮やかにかすめ盗った――瞬間。バシッ、と鈍い音が響き、童の手首が完全に組み伏せられた。
無法の京において、自衛のために常に周囲の不審な動きに目を光らせていた、狩野屋の関係者であり市兵衛の手の者たる薬売りの、鋼のような指が少年の自由を一瞬で奪ったのだ。
「離せ! 離さねえか、この田舎商人が!」
路地裏へ引きずり込まれ狩野屋の手代たちに厳重に押さえつけられながらも少年は一切声を上げて泣くこともせず、ただ蛇のようにギラついた瞳で、手代達を睨みつけていた。
どれだけ素性を問い詰められても、獣のように唸るだけで頑なに口を割ろうとしない。
そこへ、若き婚約者である紬を連れて、京の経済活動の様子を自ら検分していた三好康長が、静かに通りかかったのだ。
「む、どうかしたのか? 与兵衛よ。」
「あ、これは弾正様…!」
与兵衛と呼ばれた手代が三好康長の方へ振り返った。
「お出掛けの最中に騒々しくいたし、申し訳ございませぬ。」
「良い。それでその童は?」
「はっ。実は、荷車から薬箱をかすめ盗ろうとした不届きなスリのガキを現行犯で捕縛いたしました。…しかしこの童、捕まってからというもの、獣のように唸るばかりで一言も喋ろうとしませぬ。まったくふてぶてしい、往生際の悪い泥棒めにございます。」
「ふむ…」
三好康長は屈みこみ、その少年をじっと見据えた。
少年は泥に汚れ、見るからに粗末な服を着ていた。
しかしその鋭い眼差しや押さえつけられても崩れない身のこなしには、どこか武士の子供のような、ただ者ではない雰囲気が漂っていた。
少年が命懸けで盗み、地面に転がった小さな薬箱を、少年は泥にまみれながらも必死に両手で抱きしめ、絶対に離そうとしなかった。
周辺の手代たちが「ふてぶてしいガキだ」と突き放す中、三好康長の袖を紬がそっと引いた。
「孫七郎様。…ウチ、その子の目が気になりますわ。銭ではなく、その盗もうとした『薬』を、命懸けで守ろうとしている。あの子、生きるために、必死に誰かを救おうとしておいでです。我が主の目指す民のための世であるならば、その少年は救うべきではございませぬか?」
控えめながらも本質を突いた婚約者の進言に、康長は心の中で微笑んだ。
そして少年の蛇のような瞳と真っ直ぐに視線を合わせ、静かに問いかけた。
「童よ。現行犯の泥棒をそのまま放免するわけにはいかぬが、お前がそこまで頑なに黙り込み、その薬を離そうとしないのには、相応の理があるのだろう。誰も手出しはさせぬ故、その薬を盗んだ理由を、俺にだけ話してみよ。」
「・・・」
少年は変わらず黙したままだが、その蛇の様な眼の敵愾心が少し緩んだような気がした。
「おい、拘束を解いてやれ。与兵衛、店の奥を借りるぞ。」
三好康長は少年の肩を抱き、狩野屋店舗の奥座敷へと上がった。
奥へと通されると幾分落ち着きを取り戻したのか、少年は素直に座布団の上に座った。
「…名乗っていなかったな。俺は神保家在京総代を務める三好弾正忠康長と申す。こちらは俺の妻…になる予定の紬だ。お主の名は?」
三好康長は優しい口調で少年に問いかけた。
「八郎…」
少年は小声で応じた。
「八郎か。良き名では無いか。どれ八郎よ。その手に持っている薬箱をいったん俺に返してくれるかな? ここは狩野屋と言うのだが我が神保家の御用商人でな。俺にとっても大切な存在なのだよ。」
「ん…」
八郎と名乗った少年は三好康長に薬箱を手渡した。
「八郎、お前は素直な良い子では無いか。そんなお前が何故あんなこととしたのかな?」
その問いを受けた途端、八郎はぼろぼろと大粒の涙を流し始めた。
「母ちゃんが、母ちゃんが死にそうなんだ…!」
「それはどう言う事かな? 詳しく話してみなさい。」
「おれと母ちゃんは、備前から逃げて来たんだ。生活が苦しくて…。でも、でも、京でも何も変わらなかったんだ。それで、母ちゃんが最近熱を出してしまって…!」
そこまで話したところで、八郎は堰を切ったように大声で泣き始めた。
「なるほど。それでここから薬を盗もうとしたのだな。」
「おれには、薬を、買う銭なんか、無い! 頼む、頼むよ! 薬を譲っておくれよ!!」
八郎は縋るように三好康長の腕にしがみついた。
”子供の重み”を感じることはつい最近あったわけだが、この少年の”それ”は遥かに軽く、弱々しいものだった。
涙を流す八郎の背中を優しく摩りながら、三好康長は傍らの紬の顔を見た。
紬は何も言わず、コクリと静かに頷いた。
「よし、八郎よ。お前の家はこの近くなのか? この薬は俺が買ってあげよう。でもお前の母ちゃんが心配だ。様子を見に行きたいから俺と紬を家まで案内してくれないか。」
「え、でも…」
「なぁに、遠慮する事は無い。俺は支払いをしてくるから、お前は紬と準備して来なさい。紬、頼むぞ。」
「承知いたしました。」
八郎は紬に肩を抱かれ、奥座敷から出て行った。
「与兵衛、聞いていたな?」
「はっ。」
狩野屋の手代の与兵衛であるが、当然訓練を受けた薬売りだ。
どこで話を聞いていたかは言わずもがな、だ。
「俺はちょっと出てくる。場合によってはあの子供の母親を保護して来るから、籠の手配もな。」
「御意。」
三好康長は与兵衛の気配が無くなるのを確認すると、大きくため息をついた。
日ノ本随一の都会であるはずの京。
だが、その実態はあまりにも根深き闇の底にあった。
将軍は郊外の城に引きこもり、役人どもは職務を放棄して利権を貪るばかり。その皺寄せはすべて、備前のような地方から藁をも掴む思いで逃れてきた、あの八郎のような弱き民へと容赦なく襲いかかっている。
天下の中心たる都の皮を被りながら、その足元は泥をすする困窮に満ちているのだ。
そう考えれば我が越中は何と恵まれた状況にある事か。
主・神保長職の治世の下で、少なくとも民はここまで飢えてはいまい。
「…これは俺に課された課題と言う事か。」
三好康長はそう呟くと、ゆっくりと立ち上がって紬と八郎の後を追った。
この八郎は重要人物になる予定です。




