第百七十八話
一五三六年二月 京・広橋兼秀卿邸
席が改まり夕餉が運ばれてくると、淡い水色の童直衣を正した十歳の広橋国光は、康長の膝の上に陣取って離れようとしなかった。
運ばれて来た夕餉は思ったより豪華という訳でも無かったのだが、これは今の京の経済状況を現しているのだろう。(もっとも庶民よりは豪華なわけだが。)
無論武士である三好康長は質素な事には慣れていたので、別に不満に思う事は無いのだが。
さて三好康長は表面上神保家在京総代として表情を変える事は無かったのだが、己の膝に乗っかる『名門広橋家の御曹司』の確かな重みと、至近距離から注がれる蛇のような(しかし年相応に潤んだ)瞳に、背中に冷たい汗が垂れてくるのを禁じ得なかった。
その横から、主である広橋兼秀が上機嫌で徳利を持ち、康長の杯へと酒を注いだ。
「さ、弾正よ、まずは一献。」
「頂戴いたします。」
三好康長は膝の上の国光を落とさぬよう器用に杯を掲げその酒をひと口、自らの喉へと流し込んだ。
「おや、これは加賀の酒にございますな?」
この味は飲んだことがあった。
上洛の途中で加賀金澤城で歓待を受けた時に飲んだ酒と同じ味だな。
「そうじゃ。梓が身に送ってきてくれての。越中守殿が加賀を平定し街道の安全を整えてくれたおかげで、良き酒や肴が届くようになったのだ。まっこと、良き時代になったものよ。」
広橋兼秀が直衣の袖をパシっと払い、実に見事な満足げな笑みを浮かべた。
「ははっ。勿体無い御言葉にございまする。帝にお仕えする武士として、恐悦至極に存じまする。」
三好康長が礼を述べた。
「弾正様、そろそろ私の話も聞いてくださいませ。加賀の梓義姉上は、本当に寂しい思いなどされておりませぬな? その、父上よりも年上の松波長利殿とやらは、姉上を大切にしておいでなのですか?」
広橋国光がぐいっと顔を近づけて来た。
その気が無くとも、育ちの良い美少年の顔が近付くと思わずドキっとしてしまうものだ。
「は、はあ……国光様、その、少しお顔が近うございます……。あ、いや、松波殿は実直な男にございます。今や加賀の城においては、義姉君の辣腕の前にて完全にひれ伏し、その一挙手一投足にオロオロと赤面しているのがもっぱらの評判ですぞ。」
「ククク、やはりそうか。梓の奴、加賀の頑固者をそこまで飼い慣らしておるとな。……時に弾正。貴殿はまだ正室を娶っておらぬと聞き及んでいるが?」
広橋兼秀は加賀の美酒に顔を赤らめながら、上機嫌で柄銚子を持ち上げた。
上司筋から酒を勧められては、中々断れるものでは無い。
「は、はあ。某は我が主から命ぜられる実務で手一杯にございまして。妻を娶るなど、帳簿の予定にはございませぬが…」
「それはいかん!それはいかんぞ!!」
広橋兼秀は手酌で注いだ酒をグビっと飲み干した。
どうも、中々酔いが回ってきたようだ。
「実はな、加賀へ発った梓の実の妹で、身の養女となっておる紬という娘がおってな。梓とは違い、実におしとやかで控えめな娘なのだが……。あやつ、貴殿がこの屋敷に来るたびに、陰からそっと貴殿の姿を見つめておってな。どうかしたのか?と聞いたのだが、何と申したと思う?」
「は、はぁ…。某には…」
「あやつ、身の前で真っ赤になりながらな、『ウチ、三好様をお慕いしておりまする…』と申したのだぞ。」
「な、何と…?」
三好康長は危うく酒杯を落としそうになった。
「あやつにこれほど乞われては、父親として動かねば男が廃るというものよ。身は弾正の実直な仕事ぶり・人柄をよう知っておる。貴殿ならば我が義娘を安心して任せられると言うもの。」
「父上! それは素晴らしいに案にございます! 紬義姉上はいつも優しく私を褒めてくれるのです。紬義姉上が弾正様のお嫁様になれば、毎日お屋敷に遊びに行けますね! やったぁ!」
「ち、ちょっとお待ちくだされ!!」
「何じゃ、我が義娘では不満と申すのか?」
「え、弾正様は私の義兄上になっていただけないのですか?」
父である広橋兼秀は扇子で三好康長の差し、息子の国光がガバっと抱き着きながら潤んだ目で三好康長を見上げた。
何なんだこの親子は。
必死に断る算段を立てようにも、膝の上の美少年に物理的に組み伏せられ(抱き着かれ)、正面からは酒の回った気鋭の武家伝奏が不敵に笑っている。
ここ数カ月神保家在京総代として腕を振るってきた三好康長ではあったが、この広橋親子の息の合った波状攻撃の前にタジタジにならざるを得なかった。
「い、いや、滅相もございませぬ。広橋卿、そして国光様。某のような田舎侍に広橋家御息女のような高貴な姫君を妻に迎えるなどと…」
「ククク、当主たる身が言うのだから何の問題があると言うのか。そうじゃ、あと一押しが足りぬというのじゃな?」
広橋兼秀がパチンと扇子を鳴らすと、奥の襖が静かに開いた。
そこにいたのは仕立ての良い、しかし慎ましやかな濃紫色の着物を纏った十代半ばほどの美しい少女であった。
長い黒髪を後ろできれいに一つに束ねたその佇まいは、実におしとやかで、夜の雪のように清らかに思えた。
「これが我が義娘の紬じゃ。おい、紬。何を照れている、早く入ってきて弾正殿に挨拶をしなさい。」
「は、はい。失礼致します。」
三ヶ月間、何度もこの広橋邸に足を運んでいた康長だったが、公家の厳格な「奥向きのしきたり」のせいで、彼女の姿を見るのは今日が完全に初めてであった。
少女は康長の前で丁寧に手をつき、一分の狂いもない見事な公家流の礼を捧げた。
「…初めまして、三好弾正様。広橋が義娘、紬にございます。お噂は、かねがね姉上や父様から伺っておりましたわ。」
何と清らかな声だろう。
これは姉の梓とは正反対のようだ。
それでも紬の眼差しはまっすぐに三好康長を捉えていた。
紬ははにかむように頬を赤らめ、ポロッと静かな微笑みを浮かべた。
「あ、いや。…某は三好孫七郎康長にござる。」
「まぁ! 孫七郎様とおっしゃるのね!?」
三好康長は思わず官位名では無く、仮名を名乗ってしまった。
「…ククク、ハハハハ! ほれ見よ、弾正。いや、孫七郎殿。貴殿も随分と焼きが回ったものよ。初対面の女子を前に、うっかり素の仮名を漏らすなどな!」
広橋兼秀が柄銚子をことんと置き、実におかしそうに大笑いした。
康長とそれ程歳の変わらない若い父親の瞳は、すべてが己の計算通りに運んだことを確信し、満足げに細められている。
「…これはしてやられましたな。」
「そうじゃ。ここまで来たら断るとは言うまい?」
「某は断れる、と仰るのですか?」
「身と弾正の仲じゃ、分かっておろう?」
広橋兼秀が柄銚子を紬の手に渡した。
「さあ、婚約の祝いじゃ! 今夜は朝まで飲むぞ!」
広橋兼秀が上機嫌で酒を煽る横で、康長は人生で初めて、自らの完璧な防御壁を内側から完全に粉砕されるのだった。
広橋邸での話の続きです。三好康長の外堀が埋められていきます。




