第百七十七話
一五三六年二月 京・広橋兼秀卿邸
「…しかし加賀介とは大きく出たものですな。」
三好康長は広橋兼秀に手紙を返した。
加賀介とは国名の加賀が付いている通り、その国の次官級の役職名を指す。
もっとも室町時代以降は下剋上の世となってきたこともあり自身に箔を付けるために名乗る者もいた訳だが、それでも実際に身に見合った官位を得るために任官を目指した者もいたようだ。
広橋梓の夫(になる予定)の松波長利が自らそれを目指したのかは不明であるが、神保家配下であるものの実質的に加賀一国を取り仕切る立場にある訳だから、加賀介を名乗るのは決しておかしい事ではない。
「まぁ梓はな。身内から見ても出来る人物であるとは思うのだがな…」
「梓殿は確か神社の社家出身でらっしゃいましたな?」
「そうじゃ。梓は我が広橋家が目を掛けていた神社の社家の家系の出身なのだが、その家がとある公家の不興を買ってしまってな。結果的に没落してしまったのだ。その後両親を亡くしたのを契機に、広橋家で引き取ったのだよ。」
「なるほどですな。」
これは不幸な話ではあるが、この戦国の世で名家に拾われると言う事は幸運であったと言うべきだろう。
「それで梓の家は特にその神社で勘定方を務めていたから、梓自身もその道に明るくてな。それが加賀で役に立っていれば助かる訳だが…」
なるほど、三好康長が薬売り経由で聞いている話では、まさにその方面で辣腕を振るっていると聞いている。
実直な仕事人である松波長利をも手玉に取っているとの評判だ。
(我が主は、『マムシ』が『ツチノコ』になったと言っていたな。)
三好康長は思わずそう発言しそうになったが、それは口の中に飲み込んだ。
三好康長にはその意味は分からない訳だが、おそらくは広橋梓の優秀さを意味しているのだろう。
「広橋卿、それは御心配には及びませぬぞ。」
「ほう、それは何故か?」
「我が同僚である松波長利は非常に優秀な人物です。彼は某と同じ外様ではありますが、我が主が望んで召し抱えた人材にござる。その松波殿の下で辣腕を振るっているのと言うのがもっぱらの評判でありますな。」
三好康長のこの言葉にはまったく誇張が無い。
神保家在京総代である三好康長の下には、それなりに新しく正しい情報がもたらされるからな。
聞いている話では我が主・神保長職が持ち込んで来た算盤なる計算機を用いて加賀国内の情勢を分析しているだけでは無く、人材育成にも力を入れていると聞いている。
これが広橋梓の考案だと言うのだから驚きだ。
「なるほどの。弾正程の者がそう言うのであれば間違いないの。」
広橋兼秀は嬉しそうに髭をなで、少し誇らしげに目を細めた。
前にも言ったように広橋兼秀は実力のある人物だ。
三好康長と初めて会ってから三月ほどであるが、その人となりは十分に理解しているのだ。
「梓は幼い頃から、屋敷の米蔵の帳簿を一目見ただけで、不届きな出入り商人の『中抜き(誤魔化し)』を瞬時に見抜くような娘での。あれはもう何年前になるか…、梓め、蔵にある物品の全てを数えなおすとか言いおったわ。」
「なるほど。梓殿のその冷徹なまでの『数への執着』は、そこからでございましたか。」
「執着等と生易しいものでは無いわ。あやつが加賀へ発つ前、身(広橋卿自身の事)に何と言ったと思う? 『養父様。わたくし、加賀を文字通り神保の"金のなる木"に変えてみせますわ。ですから養父様は、安心して主様から色々とふんだくってくださいませね。』と申したのだぞ。」
「そ、そこまで…」
三好康長は思わず戦慄した。
広橋兼秀に対して表情を崩すまでのものでは無いが、それでも背中に冷たい汗が垂れてくるような思いだ。
「それでも梓は身と歳が十余りしか離れておらぬ故、可愛い妹の様にも思っておったがの。」
「し、しかしながら神保家家臣、取り分け広橋卿をはじめ、公家の皆様ともお付き合いさせていただく在京総代である某も知らぬ間に官位の要求をされるのは、中々に驚きの行動でありますがね…」
「そうじゃの。そんなことをして、梓は神保家中において大丈夫であろうか?」
その問いに三好康長は少し上を見て考えた。
「まぁ、我が主・神保越中守は何も言わぬでしょうな。主は実を見る人間であります故。」
三好康長の、自らの主に対するこの評価は正しい。
神保家の害にならぬ、と言う状況である限りはね。
「弾正、お主自身の考えも同じか?」
「ええ。主が問題にせぬのであれば、某も何も申しませんよ。」
それは三好康長自身、率直な気持ちであるだろう。
もっとももしかしたら、広橋梓については”その方面では”関わらない方が良いと思ったかもしれない。
触らぬ神に何とやら、だ。
「ふむ、それは良かった。弾正も梓に目を掛けてくれると身としても嬉しく思うぞ。」
「それはもう。松波にもしっかり申しておきましょう。」
「ちちうえーーーー!」
ドタバタと走るような足音と共に、まだ声変わり前のような少年の大きな声が聞こえて来た。
「む、あれは倅の国光が帰ってきおったわ。あやつめ、あのように走り回るとはなんともはしたない事よ…」
広橋兼秀は深くため息をついた。
「ははは。国光様はまだ幼きゆえ、それは微笑ましいを言うべきでありましょうな。」
三好康長が笑いながら応じた。
「ふ、そう言ってもらえると助かる。弾正よ。」
そこまで言ったところで、淡い水色の童直衣の少年が部屋に入ってきた。
「父上、いま帰りました!」
「これ、国光。今来客中なのだぞ、静かにせぬか。」
「あ、これは三好様!失礼いたしました!!」
国光、と呼ばれた少年が謝りながらもにこーっとした笑顔を三好康長へ向けて来た。
「いやいや、国光様。お元気そうでなにより。この三好弾正、嬉しく思いますぞ。」
「弾正…!? あ、父上が言われていた官位へ任官されたのですね!おめでとうございます!」
「ははは、ありがとうございます。」
「ではこれからは私も三好様の事を弾正様、とお呼びせねばなりませんね。」
「それはどうも気恥ずかしいものですな。」
「ねえねえ、弾正様。今日は我が家にお泊りくださいませ!また国光に異国の話をお聞かせください!」
「は、はあ…しかし…」
「え、ダメですか…?」
広橋国光が少し潤んだ目で三好康長を見上げた。
「…そこまで言われては致し方ありませんな。今日は厄介になると致しましょう。」
「本当ですか? やったぁ!」
広橋国光がガバっと三好康長に抱き着いた。
「すまぬな、弾正。ささやかだが夕餉や酒を馳走する故、な。」
父、広橋兼秀は苦笑いを浮かべ、そして大きなため息をついた。
広橋家での会談の続きです。広橋兼秀の嫡男国光はまだ元服前と言う設定にしています。まだ可愛らしい年ごろの少年です。




