第21話
「王妃陛下が、公務から退かれることになったそうだ」
婚約者の言葉に、クラーラは伏せていた目を上げた。
「ええ。わたくしも、父から聞きました」
「王妃宮から孤児院へ出された支援や、人選についても見直されるらしい」
「……そうらしいですわね」
婚約者は向かいの椅子に腰を下ろしていた。
卓の上には、まだ手をつけられていない茶が置かれている。
しばらくの沈黙の後、婚約者が口を開いた。
「以前、君に第二王子殿下とのことを尋ねたね」
クラーラの指先が、わずかに動いた。
「君は、孤児院のためだと言った。王妃陛下の御意向でもある、と」
「……そのように思っておりました」
「今も、そう思っている?」
その問いに、クラーラはすぐには答えられなかった。
孤児院のためだったことに、嘘はない。
気づく機会がなかったわけでもなかった。
第二王子と並ぶ自分へ向けられた、周囲の視線。
政務室へ現れたクラリスの、張りつめた表情。
そして、カレンが口にした言葉。
王妃がなぜ自分を選び、なぜ第二王子とともに動かしたのか。
考えれば、見えてしまうものがあったからだ。
「孤児院のためであったことは、今も変わりません」
クラーラはゆっくりと答えた。
「ですが……わたくしは、何も分かっていなかったのだと思います」
「分かろうとしなかったのではなく?」
「……そうかもしれません」
クラーラは再び目を伏せた。
「王妃陛下にお声をかけていただき、孤児院のために力を尽くせることが嬉しかったのです。第二王子殿下も、真摯に話を聞いてくださいました」
婚約者の表情が、わずかに固くなる。
クラーラはそれに気づきながらも、言葉を続けた。
「自分が役に立っているのだと思いたかった。だから、その場がどのように見えるかまで、考えようとしなかったのかもしれません」
「私がどう思うかも?」
「……はい」
小さく答えると、婚約者は目を閉じた。
怒っているのだろうか。
それとも、呆れているのだろうか。
クラーラが身を固くしていると、彼は静かに息を吐いた。
「家からは、婚約について改めて考えるべきではないかという話も出た」
クラーラの顔から血の気が引いた。
膝の上で重ねていた指に、力が入る。
「そう……ですのね」
「私も、今までどおり婚約を進めてよいのか、分からなくなっている」
クラーラは息を止めた。
「君が第二王子殿下との婚姻を望んでいたとは思っていない。だが、問題はそこだけではない」
婚約者は真っ直ぐにクラーラを見た。
「君は、自分が噂の渦中にいることにも、誰かの思惑に利用されていることにも気づかなかった。私がどう思うかも、クラリス嬢がどのような立場に置かれるかも考えなかった」
「……はい」
「いずれ私の妻となる人として、君を信じてよいのか。今の私には、まだ答えが出せない」
婚約者は立ち上がった。
卓の上の茶は、結局一度も手をつけられていない。
「今日は、これで失礼する」
「フェリクス様……」
呼び止める声に、フェリクスは足を止めた。
けれど、振り返らなかった。
「君も、これからどうしたいのか考えてほしい」
静かに扉が閉じられた。
クラーラは閉ざされた扉を見つめたまま、しばらく動けなかった。
フェリクスの名は、これまでにも何度も呼んできた。
けれど、彼が何を思い、何を望んでいるのかを考えたことはあっただろうか。
自分にとって彼は、いつもそこにいる婚約者だった。
話を聞いてくれなくても、孤児院に関心を示さなくても、婚約者であることまで変わるとは思っていなかった。
だから、自分が彼を傷つけるかもしれないとは考えなかった。
クラーラは膝の上で、強く手を握った。
次にフェリクスと向き合うときも、謝れば済む話ではない。
今度は、分かったつもりにならず、彼の言葉を聞かなければならない。
そして、自分がこれからどうしたいのかも、自分の言葉で答えなければならなかった。
◆
王太子宮の執務室は、ひどく静かだった。
以前なら朝から、報告や裁可を求める文官や、次の予定を告げる侍従が絶えず出入りしていた。
今、卓の上に置かれている書類は、わずか数枚だけだった。
この部屋で王太子の判断を待つ者は、もう一人もいない。
王太子は、卓上の書類を手に取った。
端には、宰相府確認済みの印が押されている。
自分のもとへ届いた時には、すでに内容は決められていた。
王太子がすることは、最後に名を書き入れるだけだった。
「……なぜだ」
低い声が、広い部屋に落ちた。
自分は、王太子として務めを果たしてきたはずだった。
面倒に思うことはあった。
判断を先延ばしにしたことも、細かな話を文官へ任せたこともある。
それでも、差し出された書類には目を通した。
求められれば人前にも立った。
王太子として決めるべきことは、自分なりに決めてきたつもりだった。
それなのに今は、何一つ任されない。
王太子は書類を卓へ落とした。
乾いた音が、静かな部屋に響いた。
以前なら、判断に迷えば母に尋ねることができた。
母はいつも、答えを知っていた。
王太子が何かを決めれば、その意図を周囲へ伝え、反発を抑え、話が進むよう取り計らってくれた。
今、その母は王妃宮の奥へ留め置かれ、公務も人事も取り上げられている。
面会すら、宰相府の許しなくしてはかなわない。
母の手が離れた途端、誰も自分の言葉を聞こうとしなくなった。
「母上まで……」
王太子は額へ手を当てた。
「母上が、何をしたというのだ」
南の離宮のことも、孤児院のことも、王宮祝宴のことも。
説明は聞いた。
だが、どれも母が直接命じた証拠はない。
母の名を勝手に使った者がいた。
母の意向を誤って受け取った者がいた。
それだけではないのか。
それなのに、諸侯は母を王宮の表から追いやった。
「何が悪かったんだ……」
その時、卓の上に置かれた王太子の手へ、そっと別の手が重ねられた。
王太子が顔を上げる。
イレイナが、卓を挟んだ向こう側に立っていた。
「イレイナ……」
イレイナは、王太子の手を両手で包んだ。
「殿下……わたくしがいます」
その声は、ひどく優しかった。
「皆様が殿下を理解なさらなくても、わたくしは存じております」
王太子の目が揺れた。
「何を……」
「殿下が、これまでどれほど頑張ってこられたかですわ」
イレイナは迷わず答えた。
「お疲れの日にも書類をご覧になり、皆様のお話を聞き、王太子として務めを果たしてこられました」
「私は……間違っていなかったのか」
「もちろんですわ」
イレイナは、王太子の手を強く握った。
「殿下は、いつも皆様のためを思っていらしただけですもの」
王太子は、しばらくイレイナを見つめていた。
それから、縋るようにその手を握り返した。
「イレイナ……もう、私には君だけだ」
王太子は、かすかに笑った。
「君だけが、私を分かってくれる」
「わたくしは、いつでも殿下のおそばにおります」
イレイナも微笑んだ。
卓の上には、王太子が目を通しても、もはや何一つ変えられない書類が並んでいた。
扉の外を、何人かの足音が通り過ぎた。
その足音は、扉の前で止まることなく遠ざかっていった。
王太子は、イレイナの手を握ったままだった。




