第19話
国王との話を終えたあと、二人は王宮の回廊を歩いていた。
春の光は穏やかだった。
けれど、先ほど聞かされた話は、少しも穏やかではない。
来春の王宮祝宴をめぐり、旧家と新興貴族の対立に王太子の曖昧な許可が重なったため、国王はルシアンにも当面の調整を見届けるよう求めたのだ。
王太子が抱えきれなかった仕事を、ルシアンにも拾わせたいということだった。
「殿下、どうなさいますの?」
「……どう、とは」
「お引き受けになりますの?」
「断るつもりだった」
あまりにも迷いのない返事に、クラリスは目を瞬かせた。
「まあ、珍しいご回答ですわね」
「兄上の失態だ。まず兄上自身に収めさせるべきだろう。それを、なぜ俺が尻拭いしなければならない」
「まあ、否定はいたしませんけれど」
ルシアンは前を向いたまま言った。
「もういい、とも思った。勝手に荒れればいい。兄上が恥をかこうが、俺には関係ないと」
クラリスは、しばらくその横顔を見つめた。
本当に見捨てるつもりなら、これほど多くを語りはしないだろう。
「それでも、そうはなさらないのでしょう?」
「……君は、時々ひどく性格が悪いな」
「わたくしが? 殿下を理解しているだけですわ」
「……それを性格が悪いと言うんだ」
ルシアンは小さく息を吐いた。
「ローデン伯爵家とヴァルツ子爵家は、もう動いている。職人も商人も、春の祝宴に合わせて品を揃え始めている。そこへ曖昧な許可で別の家を差し込めば、誰かが損をする。そうなれば話は別だ」
クラリスは黙って聞いていた。
「殿下らしいですわね」
「……自分でも少し嫌になる」
「褒めていますのに」
クラリスは扇の陰で目を細めた。
「では、今回の件は片づけるとして……その後も、王太子殿下のお仕事を肩代わりなさるの?」
「しない」
ルシアンは即答した。
「甘やかす理由がない」
「……王太子殿下が甘やかされてきたと、お思いですのね」
「思う。少なくとも、今まではそうだった」
ルシアンは、回廊の柱越しに連なる王宮の棟々へ目をやった。
「兄上が王太子として、もう少し自分の立場を分かっていたなら、ここまでにはならなかった」
「まあ。火元は、王太子殿下でいらっしゃいますものね」
「王妃陛下が裏で糸を引いていたとしても、付け入る隙を与えたのは兄上だ」
クラリスは、ゆっくりと瞬きをした。
「王太子の失敗を、毎回誰かが綺麗に片づけるなら、兄上は自分が何をしたのか一生理解しない」
「……ですが、王宮にいれば避けられませんわよ」
ルシアンは答えなかった。
クラリスは、回廊の先に見える中庭へ視線を向けた。
「……殿下。南の離宮は、なかなかよろしゅうございましたわね」
「離宮?」
「ええ。空気もよかったですし……ただ、侍女たちのしつけはなっておりませんでしたが」
ルシアンの表情が、わずかに変わった。
「まさか……あそこに?」
「王宮で王太子殿下のお仕事を拾い続けるくらいなら、いっそ南へお移りになればよろしいのでは?」
「……君は、俺に王宮を離れろと言っているのか」
「はい。人間、向き不向きがございます。殿下は、王都に留まるより地方を治める方がお向きですわ」
「……それは、王都に向いていないと言っているのか」
「むしろ、向いていると思われていましたの?」
ルシアンは黙った。
クラリスは涼しい顔で続ける。
「殿下は、王都の空気をお嫌いでしょう」
「……」
「そのくせ、放っておけばよいものを、見えている穴は放っておけない」
「……君は本当に、性格が悪い」
「殿下の性格も、なかなか面倒ですわよ」
クラリスはそう言って、何食わぬ顔で歩き出した。
ルシアンは少し遅れて、その隣に並んだ。
「……南へ行けば、面倒でなくなるとでも?」
「まさか。領地経営も大変ですわよ」
クラリスは歩調を緩めることなく、さらりと答えた。
「道は傷みますし、橋は落ちますし、商人は少しでも有利な条件を引き出そうとします。農地の水は足りたり余ったりしますし、冬に備える倉も見なければなりません。市場を開けば揉め事も起きますし、税を整えれば必ず不満も出ますし……」
「……詳しいな」
「ええ。わたくし、勉強しておりましたもの」
「なぜだ?」
ルシアンの問いに、クラリスは扇で口元を隠した。
「公爵令嬢ですもの。領地経営の知識くらい、嗜みですわ」
「本当に、それだけか」
「それ以外に何がございますの?」
「君は王太子妃になるはずだった。そこまで詳しく学ぶ必要はなかったはずだ」
クラリスは答えず、扇の陰で視線を逸らした。
「……もしかして、俺のためか?」
その言葉に、クラリスは扇で顔を隠した。
ルシアンは足を止める。
「クラリス」
「違いますわよ……」
「本当か?」
「……わたくしも、その方がよいと考えておりましたから……」
声は、少し小さかった。
「いつからだ」
「いつからでもよろしいでしょう」
「よくない。気になるだろう」
クラリスは眉を寄せた。
「殿下、そういうところは本当に意地が悪いですわ」
「君ほどではない」
「わたくしは優しいですわ」
「なら、答えてくれ」
クラリスは黙った。
やがて、小さく息を吐いた。
「殿下、耳をお貸しください」
「……何をする気だ」
「お教えしますわ」
ルシアンは眉を寄せたが、それでも少し身をかがめた。
警戒しているのが分かるのに、こちらの言葉を無視はしない。
そういうところが面倒で。
そういうところが――困るのだ。
クラリスは少しだけ背伸びをし、ルシアンの頬に唇を触れさせた。
ルシアンの動きが止まる。
その隙に、クラリスは身を離し、そのまま先へ歩き出した。
「……クラリス」
背後から、ルシアンの声が追ってくる。
「答えましたわ」
「今のが?」
「ええ。十分でしょう?」
ルシアンは、しばらく何も言わなかった。
「……答えになっていない」
その声に、クラリスは足を止め、ゆっくりと振り向いた。
扇を閉じ、いつものように優雅に微笑む。
ルシアンは何か言おうとしたが、言葉は続かなかった。
その顔を見て、クラリスは目を細めた。
――お分かりになりまして?
わたくしの、美しい人。




