第18話
王太子宮の執務室には、昼の暖かな日差しが差し込んでいた。
けれど、室内の空気は冷たい。
ここしばらく、何もかもがうまくいかない。
新興貴族は、祝宴の支度にも若い感性を取り入れるべきだと嘆願書を出し、旧家ばかりに役目が偏るのは不公平だと訴えてくる。
宮廷に長く仕える旧家は、礼法と前例を軽んじられては困ると顔をしかめる。
その間に立つのが王太子の務めだと、分かってはいる。
分かってはいるが、何かを言えば片方が反発し、何も言わなければもう片方が不満を募らせる。
クラリスと婚約を解消して以来、そうした小さな綻びが、妙に目につくようになっていた。
来春の王宮祝宴の装飾も、その一つだ。
「……なぜ、これほど話がこじれる」
低く呟くと、そばに控えていたイレイナが、やわらかく声をかけた。
「殿下……殿下は、ただ皆様に機会を与えようとなさっただけですわ」
「……そうだ。私は誰かの権利を奪おうとしたわけではない」
「ええ。殿下はお優しいのです」
その言葉に、王太子の胸は少しだけ軽くなった。
そうだ。
自分は、ただ善意で言っただけだ。
王妃が保留した件だと知っていれば、あの場で軽々しく口にはしなかった。
ローデン伯爵家とヴァルツ子爵家による共同提案があると知っていれば、もう少し慎重に判断していた。
知らなかったのだ。
知らなかったことまで、なぜ責められなければならない。
「少し、お歩きになりませんか。このまま書類を見ていても、お疲れになるばかりですわ」
「……そうだな」
差し出されたイレイナの手を、王太子は自然に取った。
執務室を出ると、回廊には春の光が差し込んでいた。
中庭の緑は明るく、風も穏やかだった。
少し歩いただけで、胸に溜まっていた重さが薄れるような気がする。
「殿下は、少しお休みになった方がよろしいですわ」
隣を歩くイレイナが、そっと言った。
「最近、ずっとお顔色が優れませんもの」
「大したことではない」
「いいえ。皆様、殿下に頼りすぎなのです」
その言葉に、王太子は口元を緩めた。
「王太子だからな。仕方がない」
そう答えると、イレイナは微笑んだ。
だが、その足がふいに止まった。
向こうから、ルシアンとクラリスが歩いてきたのだ。
二人は並んで歩いており、クラリスの手は当然のようにルシアンの手の中にあった。
「兄上」
ルシアンが一礼し、クラリスもその隣で膝を折った。
「ごきげんよう、王太子殿下」
王太子の視線は、二人の繋いだ手へ向いた。
「ずいぶん余裕だな、ルシアン」
ルシアンは表情を変えなかった。
「おかげさまで。クラリスが手を貸してくれている」
「まあ。わたくしは、ほんの少しお手伝いしただけですわ」
クラリスは微笑んだ。
王太子は、二人の繋いだ手から目を離した。
「……いい身分だな。こちらがあれこれと追われている間に、ずいぶん仲睦まじいことだ」
クラリスは頬に手を当て、目を伏せた。
「まあ……そのように見られますのね。少し恥ずかしいですわ」
王太子の顔が、わずかに強ばった。
「……君は相変わらず口が回るな」
「殿下も、イレイナ様と変わらずお親しいようで何よりですわ」
イレイナが、そっと王太子のそばへ寄った。
「はい。殿下には、いつもよくしていただいておりますの」
「それはようございました」
クラリスは微笑んだ。
その笑みを見た瞬間、王太子の胸に、言いようのない苛立ちが広がった。
「何が言いたい」
「殿下は、お変わりないのだと思いましたの」
「……嫌味か」
「あら、そんなことはございませんわ。少しはご自分のお立場をお考えになるようになったのかしらと、期待しておりましたのに」
「クラリス様」
イレイナが一歩前へ出た。
「殿下は、今とてもお忙しいのです。あまり困らせるようなことをおっしゃらないでくださいませ」
クラリスは、ゆっくりとイレイナへ視線を向けた。
「ところで、イレイナ様。王太子妃教育は進んでいらっしゃるの?」
イレイナの表情が止まった。
「……まだ、途中です」
かすかに震える声で、イレイナは答えた。
「けれど、殿下が……焦らなくてよいとおっしゃってくださっていますし、ほかの方々も……」
「彼女は努力している。少しずつだが、覚えて――」
「責めているのではございませんわ」
クラリスは扇で口元を隠した。
「ただ、わたくしは優しいので、お教えして差し上げようと思いましたの」
「……何をですか」
イレイナが、不安げに問い返した。
クラリスは、王太子の腕に添えられたイレイナの手をちらりと見た。
「装飾品は、どれほど華やかでも、どの場にも相応しいとは限りませんわ」
「装飾品……?」
「ですから、どうぞお気をつけくださいませ」
クラリスは、やさしく言った。
「殿下のおそばに飾られていることと、殿下のお役に立つことは、同じではありませんのよ」
「っ……」
王太子は、何も言えなかった。
イレイナを庇う言葉が、喉元で止まる。
何の役に立っているのかと問われれば、返す言葉がなかった。
王太子はただ、苦い顔でクラリスを見下ろした。
ルシアンは何も言わず、クラリスの隣に立っている。
その時だった。
回廊の奥から、侍従が足早に近づいてきて頭を下げた。
続いて現れたのは、国王だった。
その場にいた者たちが、いっせいに姿勢を正す。
王太子も、イレイナも。
ルシアンとクラリスも、すぐに礼を取った。
「父上」
王太子が声をかけた。
国王は短く頷いたが、その視線は王太子ではなく、ルシアンとクラリスへ向いていた。
「ルシアン。エルヴァン嬢。少しよいか」
「……父上。私は」
「そなたには、任せている政務があるだろう。執務に戻りなさい」
「彼らに何の御用が……」
「そなたが気にすることではない」
「……はい」
イレイナが、不安げに王太子を見上げた。
だが国王は、そちらへは視線を向けなかった。
「来なさい」
それだけ言うと、国王は踵を返した。
「では、失礼いたします。王太子殿下、イレイナ様」
クラリスは優雅に一礼し、ルシアンもまた頭を下げた。
「失礼します、兄上」
二人は国王の後に続いて歩き出した。
残された王太子は、しばらくその背を見つめていた。
「……殿下」
イレイナが、そっと声をかけた。
王太子は返事をしなかった。
自分は王太子だ。
この国の次代を担う者のはずだ。
それなのに今、父王が呼んだのは、自分ではなかった。
弟と、かつて自分の婚約者だった令嬢だった。




