第16話
クラリスは、扇をゆるやかに動かしながら微笑んだ。
「ルシアン殿下が幼い頃に過ごされた場所とうかがいましたの。婚約者としては、殿下の思い出の地を一度見ておきたくなりまして」
ルシアンが隣で目を伏せた。
王妃は微笑みを崩さず、一歩前へ出る。
「思い出の地を見るだけにしては、ずいぶん踏み込んだことをなさったようね」
「どういう意味でございますか?」
クラリスが、不思議そうに首を傾げる。
「使用人の出入りを制限したと聞いております。王家の離宮で、公爵令嬢がなさるには、少々行き過ぎではなくて?」
「あら」
クラリスは微笑んだままだった。
「王妃陛下は、もうそのような細かなことまでご存じなのですね」
王妃の扇が、わずかに止まる。
「南離宮の管理について、ずいぶんお耳が早いのですこと」
国王の視線が王妃へ向いた。
「王家の離宮ですもの。報告が上がるのは当然でしょう」
「ええ、そうですわね。ですから、わたくしも驚きましたの」
「……何にかしら」
「南離宮で、以前わたくしに仕えていた者が働いておりましたの」
王妃の指先が、かすかに動いた。
「けれど、その者がひどく困っている様子でしたわ。仕事を押しつけられ、陰で責められ、助けを求めることもできずにいたようで」
「使用人同士の些細な行き違いを、公爵令嬢が大事になさるの?」
「ええ。わたくし、心が痛みまして」
クラリスはルシアンへ視線を向けた。
「殿下にご相談いたしましたの。王族の方が滞在なさっている離宮で、使用人がそのような状態に置かれているのを、見過ごしてよいものかと」
ルシアンは頷いた。
「私が許可した」
クラリスは王妃へ向き直った。
「それに、少し気になることもございましたの」
クラリスは困ったように眉を下げた。
「南離宮の古株の侍女たちは、ずいぶん良い香油を使っていらっしゃいましたわ。袖口の刺繍も、髪飾りも、離宮勤めの侍女にしては少々立派で」
「……使用人の身なりまで見ていたの?」
「ええ。孤児院を視察する際にも、そういうところは大切ですもの」
クラリスは、閉じた扇をわずかに傾けた。
「本当に困っている者は、まず靴や袖口に表れますわ。反対に、豊かな暮らしをしている者も、そこに表れます」
国王が身を乗り出した。
「ほう。さすがエルヴァン公爵家の娘だ。よく見ているな」
「お褒めのお言葉、ありがたく存じます。ですから、ルシアン殿下にお伝えしましたの」
クラリスの視線を受け、ルシアンが頷いた。
「その通りだ。私が滞在していた離宮に不正の疑いがあると判断し、調査を命じた」
ルシアンは王妃へ向き直った。
「調べた範囲だけでも、支払い先や受領者の中に、王妃陛下に近しい者の名が複数ありました」
王妃は息を止めた。
「何を……」
声が、わずかに硬くなる。
「そのようなこと、わたくしは存じません」
「まあ……王妃陛下ともあろうお方が、ご存じなかったのですか?」
「……クラリス嬢。何が言いたいのです?」
「だって、王家の離宮ですのに」
クラリスは扇で口元を隠し、笑みを深めた。
「報告が上がるのは当然なのでしょう?」
王妃は、扇の陰で奥歯を噛んだ。
この娘……!
胸の奥で、冷えた怒りがゆっくりと広がっていく。
国王の視線が、王妃からルシアンへ移った。
「ルシアン。その支払いの控えはあるのか」
「ございます」
王妃は、そこでゆっくりと口を開いた。
「陛下。そもそも南離宮は、わたくしの管轄ではございません」
認めるわけにはいかない。
ここで頷けば、すべてが王妃の指示だったことにされる。
風向きを変えなければならなかった。
「王妃に近しい者の名があったとしても、それだけでわたくしが関わったかのように言われては困ります」
王妃はクラリスへ視線を向けた。
「むしろ問題は、公爵令嬢が使用人の出入りまで制限したことではなくて?」
「南離宮は、そなたの管轄ではないのだな」
国王の低い声が響いた。
「……はい。南離宮の管理は、王宮管理の者たちが担っております」
「ならば、離宮の細かな報告が、なぜこれほど早くそなたのもとへ上がったのか」
王妃の扇が、ぴたりと止まった。
「陛下。まさか、クラリス嬢の言葉だけでお決めになるのですか」
王妃はゆるく首を傾げた。
「クラリス嬢は、少し前まで療養なさっていた身でございましょう。王都へ戻られたばかりで、何かお役に立とうと気負われたのかもしれません」
クラリスの扇が、口元でゆるやかに止まった。
「どうか、感情に流されませぬよう」
「クラリス嬢の言葉だけではありません」
ルシアンの低い声が響いた。
「支払い先と受領記録は、私も見た。療養明けの令嬢の思い込みとして片づけられる話ではありません」
国王は短く頷いた。
「だからこそ、調べる必要がある」
国王は侍従へ視線を向けた。
「南離宮の帳面と支払いの控えをすべて封じ、宰相府の預かりとせよ。王妃付き、離宮付きにかかわらず、関係した者を一人ずつ調べよ」
「かしこまりました」
「……っ」
王妃は、扇の陰で息を詰めた。
ふと、視線を感じた。
ゆっくりと顔を向けると、クラリスと目が合った。
クラリスは、扇の奥で目を細めていた。
勝ち誇ったようなその目に、王妃の怒りがさらに冷たく沈んだ。




