第14話
離宮を出る朝、空は薄く晴れていた。
玄関前には、王都へ戻る馬車が用意されていた。
荷はすでに積まれ、護衛たちも出発を待っている。
クラリスは玄関広間で足を止め、並んだ離宮の者たちを見渡した。
「帳面部屋の鍵は、エルナに預けます。薬棚、厨房、倉庫への出入りは、すべて記録を残しなさい」
名を呼ばれた年嵩の侍女が、一歩前へ出て深く頭を下げた。
「かしこまりました」
「外への使いは、必ずテオドールを通すこと。商会からの納品も、受領印を押す前に品と数を確かめるように」
壁際に控えていた副家令が一礼する。
「承知いたしました」
古株の侍女たちは、青ざめた顔で黙っていた。
「マリア。あなたは、わたくしと王都へ帰りますわよ」
「はい、クラリス様♡ 必要な控えと手帳は、すべて馬車へ積ませております」
マリアは、にこりと笑った。
「よろしい」
クラリスは最後に、古株の侍女たちへ視線を向けた。
「少し窮屈かしら。けれど、あなた方はこれまで十分に羽を伸ばしたでしょう。しばらくは、これくらいでちょうどよいのではなくて?」
誰も答えなかった。
クラリスは身を翻し、玄関を出る。
先に馬車の前へ立っていたルシアンが、手を差し出した。
クラリスはその手を取り、ゆっくりと馬車へ乗り込む。
扉が閉まり、馬車が動き出した。
ルシアンは窓の外を眺めたまま、口を開かなかった。
クラリスは膝の上の扇へ目を落とした。
「……殿下のお母様は、どのような方でしたの?」
ルシアンの視線が、窓からゆっくりと戻る。
「急だな」
「離宮でお尋ねしそびれましたから」
ルシアンはすぐには答えず、もう一度窓の外へ目を向けた。
「……謝ってばかりいる人だった」
クラリスは黙って続きを待った。
「俺の顔を見るたびに、すまないと言った。自分のせいで俺に苦労をさせていると。側妃の子に生まれたせいで、余計な目を向けられると」
ルシアンは息を吐いた。
「俺はそのたびに、違うと言った。俺がきちんとしていればいい。第二王子としてうまく振る舞えば、母上も困らない。そう思っていた」
「……殿下は、お母様想いでしたのね」
ルシアンは苦く笑った。
「どうだろうな」
「違いますの?」
「母を思っていたのは確かだ。だが、母のためと言いながら、自分にも何かができると思いたかっただけかもしれない」
「あら。それで十分ではありませんか」
クラリスは淡々と言った。
「殿下は、実際になさったのでしょう?」
「……何を」
「礼儀作法、勉学、剣術、王族としての立ち居振る舞い。少なくとも周囲は、殿下をよくできた第二王子と評価していたのでしょう?」
「……なぜ知っている」
「わたくしが知らないとでも?」
クラリスは当然のように返した。
「婚約者ですもの。殿下がどのように育たれたのか、調べない方がおかしいでしょう」
「……君は本当に遠慮がないな」
「それに、わたくしは婚約には苦い思い出がありますの。慎重になるのは当然ですわ」
「返す言葉もないな」
ルシアンは窓の外へ視線を戻した。
「……俺は昔から、何かの役に立てば、それで立場を保てると思っていた」
クラリスはルシアンへ視線を向けた。
「母上のためだと思っていた頃も、王宮へ戻ってからも、あまり変わっていない。誰かにとって都合のいい存在でいれば、そこに置いてもらえる。そう考える癖がついていた」
「……殿下」
「だから、君との婚約も、最初はそういう目で見ていた」
ルシアンは一度、言葉を切った。
「公爵家の後ろ盾。王太子が一度手放した婚約者。王家にとっても、俺にとっても都合がいい。そう考えた」
クラリスの扇を握る手に、力がこもった。
「……どうして、今その話を?」
「君に対して、不誠実だったからだ」
クラリスは答えなかった。
ルシアンは、クラリスの指先から目を逸らさない。
「君自身を見ていなかった。公爵家の娘で、王太子の元婚約者で、俺の立場を安定させる相手だと考えた。君が何を嫌い、何に傷つくのか、きちんと知ろうとしなかった」
「ずいぶん率直ですのね」
「今さら飾っても仕方がない」
ルシアンは、まっすぐにクラリスを見る。
「それに君は、飾った言葉を喜ぶ人ではないだろう」
「……少しは、わたくしのことを理解してくださったのですね」
ルシアンは小さく頷いた。
「遅すぎたがな」
「ええ。そうですわね」
クラリスは即答した。
ルシアンが目を見開く。
「そこは否定してくれないのか」
「わたくしがそれほど甘くないことも、ご存じでしょう?」
「……まあ、そうだな」
クラリスは扇を少し上げ、口元を隠した。
「……わたくしも、殿下との婚約に打算がなかったとは申しませんわ」
「君にも打算があったのか」
「王太子殿下に見せつけて差し上げたいという気持ちも、少しはございましたし……」
語尾は、扇の陰で小さく消えた。
「……あの時の君は、ずいぶん悔しそうだったな」
「忘れてくださいまし! あれは本当に屈辱でしたのよ!?」
「王宮の中庭の隅で泣いていた」
「思い出さないでくださいませ!」
クラリスは扇で口元を隠したが、赤くなった頬までは隠しきれていない。
ルシアンは、わずかに目を細めた。
「……だが、あの時、君を見つけなければ、俺は君を知ることもなかった」
クラリスの動きが止まった。
馬車の中が、一瞬だけ静まり返る。
しかし次の瞬間、クラリスは何事もなかったように扇を開いた。
「……もう少しで、エルベルト領ですわ」
「エルベルト領?」
「春の市が開かれるのですって」
クラリスは御者台へ向けて声をかけた。
「エルベルト領の市へ寄ってくださる?」
外から、御者の戸惑った声が返る。
「お嬢様、王都へお急ぎでは……」
「急いでいるのは殿下ですわ」
「……君も戻ると言っただろう」
「戻りますわ。けれど、急ぐとは申し上げておりません」
「……」
「それに、わたくしは急かされるのが嫌いですの」
ルシアンは言葉を失った。
「王都へ戻った途端、慌てて戻ってきたと思われるのも癪ですわ。道中で春の市へ寄った話のひとつも持ち帰った方が、こちらの調子を崩されずに済みますもの」
「それは建前か?」
「いいえ。わたくしが市へ寄りたいから寄るのですわ」
クラリスは当然のように言った。
「理由なら、あとからいくらでも並べられますもの」
ルシアンはしばらく黙っていた。
それから、諦めたように息を吐く。
「……御者」
「はい、殿下」
「エルベルト領へ寄れ」
御者台の向こうで、短い沈黙があった。
「……かしこまりました」
馬車は、エルベルト領へ向かって進路を変えた。
クラリスは満足そうに扇を閉じた。




