第11話
カレンは談話室の隅に腰を下ろし、膝の上で手帳を開いていた。
細かな文字で埋まった頁を見下ろしながら呟く。
「……すごい。手帳が埋まってる」
我ながら、よく観察したものだと思う。
最初は、誰が誰なのかもよく分からなかった。
名前と家名を書き留め、それぞれの表情を見ているうちに、少しずつ見分けられるようになった。
笑う者、黙る者、噂を広げる者――それぞれの反応を見ているだけで、誰がどの立場にいるのかも少しずつ分かるようになった。
「……もしかして、クラリスより詳しくなったのかも」
思わず口元がにやけた。
もちろん本人に言えば、軽く流されるか、さらに細かい指摘を返される気がする。
手帳の埋まり具合を見ると、少しだけ誇らしかった。
カレンは頁の端を指で押さえながら、ふと顔を上げる。
「そういえば、あの紹介状……どうなったんだろう」
地元へ戻る元王都勤めの侍女、という名目で使うと言っていた。
何に使うのかまでは教えてくれなかった。
「早く帰ってこないかなあ」
ぼんやりと窓の外へ目を向けた時、離れた席から明るい声が聞こえてきた。
「ソフィア様も、王妃様のお茶会にお顔を出されているのですわよね?」
カレンは顔を上げた。
声の主はリズベットだった。
その周りには、何人かの令嬢が集まっている。
ソフィアは扇を口元に寄せ、ゆるやかに微笑んだ。
「ええ。ありがたいことに」
「まあ、素敵ですわ。わたくし、まだお茶会ではあまりお目にかかれなくて……。きっと、別のお日にちに呼ばれていらっしゃるのですね」
近くにいた令嬢たちの空気が、固くなった。
カレンは手帳を閉じかけた指を止め、ペンを取る。
ソフィアの笑みは崩れない。
「リズベット様は、近頃ずいぶん王妃様のお茶会に熱心でいらっしゃるのね」
「ええ。お招きいただけて光栄ですもの」
「そうね。新しく社交界へ入られた方には、よいお勉強になりますわね」
リズベットの頬が、わずかに引きつった。
「ええ。学ばせていただいております。新しい家の者には、覚えることが多うございますから」
「その熱心さは素敵ですわ。ただ、王妃様のおそばに近づくには、熱意だけでは足りませんでしょう?」
リズベットの目が細くなる。
「家の古さが必要だとでも、おっしゃりたいのですか?」
ソフィアは扇の陰で、驚いたように目を瞬かせた。
「まあ。わたくし、そんなことを申し上げたかしら」
誰もはっきりとは口を挟まない。
聞いていないふりをする者たちの意識だけが、二人へ向いていた。
少し離れた席では、イザベルが扇の陰から二人を見つめている。
カレンは黙って手帳に書き込んだ。
――同じ王妃派。
けれど、旧貴族と新興貴族は同じではない。
そこでペンが止まる。
今までは、こんなふうに表へ出なかったはずだ。
「……どうしたんだろう」
◆
王都、ラグラン伯爵家の夜会。
バルネスは杯を持つ手を下げ、にこやかに頭を垂れた。
「先ほど、御令嬢のお召し物を拝見いたしました。あの織りは、御家の商会で扱っておいでの品ですかな」
相手は、王妃派に属する旧貴族、シェリアの母だった。
王妃の側近というほど近くはないが、王妃が社交界に築いてきた古い輪の中に、長く席を持つ家の夫人である。
「まあ。よくお気づきになりましたのね」
「よいものには、自然と目が向くものでして」
「嬉しいことをおっしゃるのね」
夫人は扇の陰で品よく微笑んだ。
「職人も喜びますわ」
「それは何よりです」
「ええ。……お心遣い、感謝いたします」
そこで会話は閉じた。
バルネスは内心で小さく息を吐く。
以前にも、何度となく見た反応だった。
商会を率いていた頃から、こういう扱いには慣れている。
話は聞くし、笑みも向ける。
その先へ続く扉だけは、決して開けない。
今の自分は、以前とは違う。
もはや、ただの商会主ではない。
爵位を得て、養女は王太子の婚約者となった。
それで返ってくる笑みが、この程度か。
その時、広間の一角から、妙によく通る声が聞こえてきた。
「いやあ、南区の孤児院の件も、ようやく形が見えてまいりましてな」
声の主は、新興貴族の若い当主だった。
最近になって、王妃派の集まりに顔を見せるようになった家の者だ。
声を張り上げているわけではないのに、不思議と周囲の耳を引く。
本人もまた、聞かせることを意識しているのだろう。
隣に立つ男も、杯を掲げて応じた。
「グランディス男爵は、王妃様より監査を任されたのでしたな」
「ええ。ありがたいことです。古い慣例に任せきりでは、見えるものも見えませんからな」
「フェルナー子爵の商会調整も、順調だとか」
「新しい家には、新しい家なりの働き方がございます。王妃様は、そこをよく見てくださる」
周囲の数人が、調子を合わせるように笑った。
バルネスは顔に笑みを貼りつけたまま、目だけを細める。
酒の席で飾り立てる者は、たいてい役目の重さを分かっていない。
王妃の名は、掲げるだけで格が上がる飾りではない。
軽々しく扱えば、掲げた者の方が軽く見られる。
バルネスはそう思いながら、夫人の様子を横目で窺った。
夫人は扇の陰で目だけを細めている。
先ほどまでの品のよい笑みは変わらない。
その奥の温度だけが、すっと下がっていた。
それも、バルネスには覚えのある顔だった。
商談の場で、相手が値の意味も分からず大金を口にした時。
その場にいる者は笑いながら、心の中ではもう相手を席から外している。
バルネスは、ふと先日耳にした話を思い出した。
ローデン伯爵家とヴァルツ子爵家が、来春の王宮祝宴の装飾契約で手を組むらしい。
古い宮廷筋を持つ旧家と、流通に強い新興の家。
組む理由は分かる。
以前なら、その二つの家が同じ提案書に名を並べるなど、まず考えられなかった。
――誰が繋いだ。
バルネスは杯の縁に指を添えたまま、広間を見渡した。
(なんだ……この流れは)




