第10話
南離宮のサロンには、茶が用意されていた。
けれど、ルシアンはカップに手を伸ばさない。
窓の外を見ているようで、その目はどこも見ていなかった。
クラリスはしばらく黙っていたが、やがて声をかけた。
「殿下……大丈夫ですか?」
ルシアンは、すぐには答えなかった。
それから、ようやくクラリスを見る。
「……君に、そう聞かれるとは思わなかった」
「婚約者ですもの。心配の声をかけるくらい、当然ですわ」
ルシアンは一瞬だけ目を伏せた。
「……そうだったな」
「ええ。どうぞ、お忘れなく」
クラリスはカップを取り、紅茶をひと口含んだ。
温度を確かめるようにわずかな間を置き、受け皿へ戻す。
「……少し、お尋ねしても?」
ルシアンは視線を落としたまま、短く答えた。
「何を」
「お母君のことですわ」
ルシアンの指先が、膝の上でわずかに止まった。
「……聞いて、楽しい話ではない」
「楽しい思い出話を聞きたいのではありませんわ」
クラリスはルシアンを見た。
「事実を確かめなければ。そう思いませんこと?」
ルシアンはしばらく黙っていた。
窓の外へ向けていた視線が、ゆっくりと卓へ落ちる。
「……正直、俺にもよく分かっていない」
「お母君のご様子は、何も聞かされていなかったのですか?」
「母上は身体が弱いと、その程度しか聞かされていなかった。だから俺もしばらく、母上と一緒に離宮で過ごすことになった」
「当時の殿下は幼かったのですから、無理もありませんけれど」
「だが……今日、あの記録を見て妙だと思った」
「何がですか?」
「記録では、医師は何度も診察に訪れていたことになっている。だが、俺にはそれほど頻繁に医師の姿を見た記憶がない」
ルシアンは一度、言葉を切った。
「母上の部屋に出入りしていたのは、医師よりも侍女たちだった」
「……医師が診ていたという形だけが、記録に残されているのですね」
「そういうことになる」
ルシアンの視線は、卓の上から動かなかった。
「お母君は、本当にご病弱だったのでしょうか」
クラリスの問いに、ルシアンはすぐには答えなかった。
「……分からない。俺は、そう聞かされていただけだ」
クラリスはカップを置いた。
「……今となっては、お母君に何があったのかを正確に確かめることは難しいでしょうね」
「……」
「けれど、計上された費用がどこへ流れたのかは別ですわ」
クラリスはまっすぐにルシアンを見た。
「殿下は、どうなさりたいのですか?」
ルシアンはしばらく答えなかった。
やがて卓の上でゆっくりと指を組み、口を開く。
「……分からない」
視線を伏せたまま続けた。
「母上のことを知りたいのか。それとも、今の離宮を見過ごしたくないだけなのか……自分でもまだ分からない」
そこで一度、息を吐く。
「ただ――」
ルシアンは、ようやくクラリスを見た。
「知った今、何もなかったことにはしたくない」
「……そうですか」
その時、扉が軽く叩かれた。
「お待たせいたしました♡」
マリアが、手帳を手に戻ってくる。
「いくつか確認できました。まず、名簿に記載された使用人のうち数名は、実際には離宮に常駐しておりません」
「そう。……ずいぶん雑な手口ね。孤児院のほうが、まだ巧妙でしたわ」
「はい♡ それから、古株の方々の中に、以前王妃様付きだった侍女の紹介で入った者が何人かおります」
「王妃様付きの侍女?」
「ええ。直接の紹介ではございません。ですが、紹介元を辿ると、そちらへ行き着きます♡」
ルシアンは黙っていた。
クラリスは静かにカップへ視線を落とす。
「……この離宮、ずいぶん長いこと王妃様の手の内にあったようですわね」
クラリスは薄い笑みを浮かべた。
「調べがいがありますわ」
◆
クラーラは、孤児院の中庭を見ていた。
子どもたちの笑い声が、午後の陽射しの中で弾んでいる。
その明るさを眺めながら、クラーラはふと、先日のことを思い出していた。
廊下でカレンと出会った時のことだ。
「ルシアン殿下と仲がよいって、本当?」
あまりにもまっすぐに尋ねられ、クラーラは一瞬、返事に詰まった。
最近は旧家の令嬢たちからも、似たようなことを遠回しに言われていた。
けれど、ここまで直接聞かれたことはなかった。
「……仲がよい、というほどではありません」
「え? そうなの? みんな仲がいいって言ってたけど」
カレンは首を傾げた。
「じゃあ、どうしてそんなふうに見えるんだろうね」
「それは……孤児院の件で、ご一緒する機会があったからです」
「ふうん。じゃあ、仕事で一緒にいただけ?」
「ええ。孤児院のための活動で――」
「でも、仕事だけなら、仲がいいなんて噂にはならなくない?」
クラーラは言葉を止めた。
「……わたくしの振る舞いが、そう見えたのかもしれません」
「振る舞い? どんな?」
「殿下と必要以上に親しく振る舞ったつもりはありません。けれど……周囲からどう見えるかまで、十分に考えていなかったのだと思います」
「そっか。……なら、考えたほうがいいよ」
「え……」
「少なくとも、クラリスは嫌がってたし。というか、誰だって嫌がるよ。それ」
クラーラは、子どもたちの笑い声を聞きながら、指先をそっと握った。
孤児院のため、王家の支援を受けるためだった。
ルシアン殿下と親しくしたかったわけではない。
そう思っていたし、そのつもりだった。
けれど、それを言い訳にはできなかった。
――少なくとも、クラリスは嫌がってたし。というか、誰だって嫌がるよ。それ。
知らなかった、とは言えない。
気づかなかった、で済ませることもできない。
自分の中のつもりだけでは、足りなかったのだ。




