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公爵令嬢クラリスの矜持  作者: 福嶋莉佳
三章

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第9話

《ラ・ロゼルージュ》二階の私的サロンには、朝の光が淡く差し込んでいた。


長卓の上には、いくつもの反物見本と書付が整えられている。


その一つを前に、エルヴァン公爵夫人は腰を下ろしていた。


向かいに座るのは、シェリアの婚約者である。

若いながらも実家の取引を任されているらしく、挨拶のあとに差し出された書付は、要点がよく整理されていた。


「おかげさまで、問い合わせが殺到しております」


婚約者は、少し困ったように笑った。


「王都の仕立て屋からも、ぜひ扱いたいと。商会筋からも、まとめて買い取りたいという話がいくつか参っております」


「結構なことですわ」


エルヴァン公爵夫人は穏やかに頷いた。


「けれど、お受けになる前に、ひとつだけ」


「はい」


婚約者はすぐに姿勢を正した。


「無理な増産はいたしません。職人にも伝えております」


「話が早くて助かりますわ」


「商いの品は、評判が立った時ほど危ういと父から言われておりますので。安易に受けて、織りを粗くするわけにはいきませんから」


婚約者はそこで、少しだけ声を落とした。


「それから、販路の件も心得ております」


「販路……というのは?」


「はい。いま他へ広げれば、数は出るでしょう。けれど、そのぶん値も扱いも乱れます」


婚約者は、机の上に広げられた反物へ視線を落とした。


「まずは《ラ・ロゼルージュ》で相応の値をつけていただきたい。シェリアとも、そう話しておりました」


夫人は、わずかに口角を上げた。


「それなら、安心ですわ」


「新規の取引は、当面控えます。すでにいくつかはお断りしております。今季分は納品先が決まっている、と」


「まあ……本当に話が早いこと」


「クラリス様に見出していただいたものを、目先の売上で薄めるわけにはいきませんから」


そこで婚約者は、改めて深く頭を下げた。


「先日の夜会の件も含め、クラリス様には返しきれないほどのご厚情をいただきました。シェリアが疑われたままであれば、私どもの家も、この反物も、こうして日の目を見ることはなかったでしょう」


夫人は黙って聞いていた。


「婚約者としても、商会の者としても、軽々しく扱うつもりはございません」


「……シェリア様は、よい方とご縁を結ばれましたのね」


「恐れ入ります」


「けれど、一つだけ覚えておいてくださいませ」


婚約者が顔を上げる。


「クラリスは、シェリア様に恩を売ったつもりなどございません。ですから、返そうとなさらなくてよいのです」


婚約者は、わずかに目を見開いた。


「あの子は、美しいものを美しいと言っただけ。その結果、正しく評価されるようになったのであれば、それで十分なのですわ」


「……承知いたしました」


婚約者は、ゆっくりと頭を下げた。


「シェリアにも、そう伝えます」


「ええ。お二人で大切になさってくださいませ」


「ありがとうございます」


婚約者はもう一度、深く頭を下げた。



馬車がエルヴァン公爵邸へ戻る頃には、街には長い影が落ち始めていた。


夫人が玄関広間へ入ると、執事長のセドリックが頭を下げる。


「お戻りなさいませ、奥様」


「ええ。留守中、変わりはなくて?」


「王都からの書状が三通。いずれも、クラリスお嬢様のご体調を案じる体裁でございます」


夫人は手袋を外しながら、目を細めた。


「まあ、ご親切なこと。差出人は?」


「王妃様の茶会に出入りのある家が二通。もう一通は、最近クラーラ様の孤児院支援に名を連ねた家でございます」


「バルネス伯爵夫人かしら」


「はい。……実によい頃合いでございます」


夫人は薄く笑い、応接室へ入った。


侍女が用意した紅茶には手をつけず、窓辺へ向かう。


「『ご療養中と伺い、案じております』――便利な言葉ですこと」


「お気遣いにも、探りにも使えます」


「ええ。だからこそ、こちらから慌てて否定する必要はありません」


セドリックは一歩控えた位置で、目を伏せている。


「王妃様は、クラリスの療養を、そのまま社交界からの退場に見せたいのでしょう」


「そのように見受けられます」


「でしたら、退いてなどいないと示せばよいだけですわ」


セドリックはすぐに頷いた。


「《ラ・ロゼルージュ》でございますね」


「ええ。クラリスが選んだ反物には注文が集まり、今季分はすでに行き先が決まりつつあります」


「皆、そうしたことには目ざといものです」


夫人は小さく微笑んだ。


「噂は聞き流しても、流行には置いていかれまいとしますものね」


「仰せのとおりでございます」


夫人は窓の外へ視線を向けた。


「クラリスは表舞台から消えたのではありません。姿がなくとも王都を動かせるのだと、思い出させて差し上げましょう」


セドリックは深く頭を下げた。



それから数日。


カレンは、暇を見つけては手帳を開いた。


談話室の窓際、廊下の曲がり角、中庭の木陰、食堂の隅。


耳に入った言葉を、分かる範囲で書き留めていく。


最初は、学園中がクラリスの話をしているように聞こえた。


療養だとか、感情的になったとか。

ルシアン殿下とクラーラ様は孤児院支援を通じて親しくなったとか、王妃様がクラーラ様を高く評価しているとか。


同じような話が、あちこちで耳に入る。


けれど、何度か書き留めているうちに、カレンは首を傾げた。


「……うーん」


手帳の頁をめくる。


記した名前を拾ってみれば、同じような顔ぶればかりが何度も出てくる。


「……これ、みんなが言ってるわけじゃないんだよなぁ」


声が大きい、というより。


目立つ場所で、同じような者たちが、同じ話を繰り返しているのだ。


カレンは手帳に書き込む。


クラリスの話をしているのは、思ったより少ない。


――王妃様の茶会に近い旧家の令嬢。


――クラーラ様の孤児院支援に名を連ねた家。


――王妃様から役目を与えられた新興貴族の娘。


――その周りで面白がっている令嬢たち。


「……というか、大半は無反応だったな」


そこまで書いて、カレンはペンを止めた。


「……そういえば」


クラーラ。


以前、その輪の近くで聞き耳を立てた時、彼女自身は何も言っていなかった気がする。


『ルシアン殿下とは、昔から親しくしていらしたのですね』


『お二人は考え方もよく似ていると伺いましたわ』


『王妃様からも信頼されていらっしゃるのでしょう』


そんな話は周囲の令嬢たちがしていた。


けれど、クラーラ本人がそう言っているのは聞いていない。


「ルシアン殿下と仲がいいって、本当なのかな……」


口にしてから、カレンは少し顔をしかめた。


「……直接聞いたほうが早いのでは?」


いや、でも。


そんなことをしたら、クラリスに何か言われそうな気がする。


手帳を閉じかけた、その時だった。


廊下の向こうから、数冊の資料を胸に抱えた令嬢が歩いてくる。


カレンは思わず手帳を抱え直した。


「……あ」


向こうも、こちらに気づいて足を止める。


「カレン様」


柔らかな声で呼ばれ、カレンはぎこちなく瞬いた。


「クラーラ……様」

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― 新着の感想 ―
お母様こっわwwwwww
再開待ってました!これからが楽しみ楽しみ!
少し合間が空いたのでシェリアさんて誰だっけ?婚約者?って出てた?とか、カレンさんまで忘れてしまい又最初から読みかえしました。そっか王太子主催の夜会で窃盗容疑でトラブりそうになった女性がシェリアさん、婚…
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