第9話
《ラ・ロゼルージュ》二階の私的サロンには、朝の光が淡く差し込んでいた。
長卓の上には、いくつもの反物見本と書付が整えられている。
その一つを前に、エルヴァン公爵夫人は腰を下ろしていた。
向かいに座るのは、シェリアの婚約者である。
若いながらも実家の取引を任されているらしく、挨拶のあとに差し出された書付は、要点がよく整理されていた。
「おかげさまで、問い合わせが殺到しております」
婚約者は、少し困ったように笑った。
「王都の仕立て屋からも、ぜひ扱いたいと。商会筋からも、まとめて買い取りたいという話がいくつか参っております」
「結構なことですわ」
エルヴァン公爵夫人は穏やかに頷いた。
「けれど、お受けになる前に、ひとつだけ」
「はい」
婚約者はすぐに姿勢を正した。
「無理な増産はいたしません。職人にも伝えております」
「話が早くて助かりますわ」
「商いの品は、評判が立った時ほど危ういと父から言われておりますので。安易に受けて、織りを粗くするわけにはいきませんから」
婚約者はそこで、少しだけ声を落とした。
「それから、販路の件も心得ております」
「販路……というのは?」
「はい。いま他へ広げれば、数は出るでしょう。けれど、そのぶん値も扱いも乱れます」
婚約者は、机の上に広げられた反物へ視線を落とした。
「まずは《ラ・ロゼルージュ》で相応の値をつけていただきたい。シェリアとも、そう話しておりました」
夫人は、わずかに口角を上げた。
「それなら、安心ですわ」
「新規の取引は、当面控えます。すでにいくつかはお断りしております。今季分は納品先が決まっている、と」
「まあ……本当に話が早いこと」
「クラリス様に見出していただいたものを、目先の売上で薄めるわけにはいきませんから」
そこで婚約者は、改めて深く頭を下げた。
「先日の夜会の件も含め、クラリス様には返しきれないほどのご厚情をいただきました。シェリアが疑われたままであれば、私どもの家も、この反物も、こうして日の目を見ることはなかったでしょう」
夫人は黙って聞いていた。
「婚約者としても、商会の者としても、軽々しく扱うつもりはございません」
「……シェリア様は、よい方とご縁を結ばれましたのね」
「恐れ入ります」
「けれど、一つだけ覚えておいてくださいませ」
婚約者が顔を上げる。
「クラリスは、シェリア様に恩を売ったつもりなどございません。ですから、返そうとなさらなくてよいのです」
婚約者は、わずかに目を見開いた。
「あの子は、美しいものを美しいと言っただけ。その結果、正しく評価されるようになったのであれば、それで十分なのですわ」
「……承知いたしました」
婚約者は、ゆっくりと頭を下げた。
「シェリアにも、そう伝えます」
「ええ。お二人で大切になさってくださいませ」
「ありがとうございます」
婚約者はもう一度、深く頭を下げた。
◆
馬車がエルヴァン公爵邸へ戻る頃には、街には長い影が落ち始めていた。
夫人が玄関広間へ入ると、執事長のセドリックが頭を下げる。
「お戻りなさいませ、奥様」
「ええ。留守中、変わりはなくて?」
「王都からの書状が三通。いずれも、クラリスお嬢様のご体調を案じる体裁でございます」
夫人は手袋を外しながら、目を細めた。
「まあ、ご親切なこと。差出人は?」
「王妃様の茶会に出入りのある家が二通。もう一通は、最近クラーラ様の孤児院支援に名を連ねた家でございます」
「バルネス伯爵夫人かしら」
「はい。……実によい頃合いでございます」
夫人は薄く笑い、応接室へ入った。
侍女が用意した紅茶には手をつけず、窓辺へ向かう。
「『ご療養中と伺い、案じております』――便利な言葉ですこと」
「お気遣いにも、探りにも使えます」
「ええ。だからこそ、こちらから慌てて否定する必要はありません」
セドリックは一歩控えた位置で、目を伏せている。
「王妃様は、クラリスの療養を、そのまま社交界からの退場に見せたいのでしょう」
「そのように見受けられます」
「でしたら、退いてなどいないと示せばよいだけですわ」
セドリックはすぐに頷いた。
「《ラ・ロゼルージュ》でございますね」
「ええ。クラリスが選んだ反物には注文が集まり、今季分はすでに行き先が決まりつつあります」
「皆、そうしたことには目ざといものです」
夫人は小さく微笑んだ。
「噂は聞き流しても、流行には置いていかれまいとしますものね」
「仰せのとおりでございます」
夫人は窓の外へ視線を向けた。
「クラリスは表舞台から消えたのではありません。姿がなくとも王都を動かせるのだと、思い出させて差し上げましょう」
セドリックは深く頭を下げた。
◆
それから数日。
カレンは、暇を見つけては手帳を開いた。
談話室の窓際、廊下の曲がり角、中庭の木陰、食堂の隅。
耳に入った言葉を、分かる範囲で書き留めていく。
最初は、学園中がクラリスの話をしているように聞こえた。
療養だとか、感情的になったとか。
ルシアン殿下とクラーラ様は孤児院支援を通じて親しくなったとか、王妃様がクラーラ様を高く評価しているとか。
同じような話が、あちこちで耳に入る。
けれど、何度か書き留めているうちに、カレンは首を傾げた。
「……うーん」
手帳の頁をめくる。
記した名前を拾ってみれば、同じような顔ぶればかりが何度も出てくる。
「……これ、みんなが言ってるわけじゃないんだよなぁ」
声が大きい、というより。
目立つ場所で、同じような者たちが、同じ話を繰り返しているのだ。
カレンは手帳に書き込む。
クラリスの話をしているのは、思ったより少ない。
――王妃様の茶会に近い旧家の令嬢。
――クラーラ様の孤児院支援に名を連ねた家。
――王妃様から役目を与えられた新興貴族の娘。
――その周りで面白がっている令嬢たち。
「……というか、大半は無反応だったな」
そこまで書いて、カレンはペンを止めた。
「……そういえば」
クラーラ。
以前、その輪の近くで聞き耳を立てた時、彼女自身は何も言っていなかった気がする。
『ルシアン殿下とは、昔から親しくしていらしたのですね』
『お二人は考え方もよく似ていると伺いましたわ』
『王妃様からも信頼されていらっしゃるのでしょう』
そんな話は周囲の令嬢たちがしていた。
けれど、クラーラ本人がそう言っているのは聞いていない。
「ルシアン殿下と仲がいいって、本当なのかな……」
口にしてから、カレンは少し顔をしかめた。
「……直接聞いたほうが早いのでは?」
いや、でも。
そんなことをしたら、クラリスに何か言われそうな気がする。
手帳を閉じかけた、その時だった。
廊下の向こうから、数冊の資料を胸に抱えた令嬢が歩いてくる。
カレンは思わず手帳を抱え直した。
「……あ」
向こうも、こちらに気づいて足を止める。
「カレン様」
柔らかな声で呼ばれ、カレンはぎこちなく瞬いた。
「クラーラ……様」




