第14話
扉が勢いよく開いた。
「お、お待ちください、クラリス様――」
侍従の慌てた声が後ろから追いかけてくる。
その制止を振り切るように、一人の令嬢が第二王子の政務室へ踏み込んできた。
クラリスだった。
深い藍のドレスに身を包み、背筋をまっすぐに伸ばして立っている。
顔には、ほとんど表情がない。
政務机の前で書類を広げていたルシアンが、顔を上げた。
「……クラリス?」
隣に立っていたクラーラも、思わず目を見開く。
クラリスの視線が、ゆっくりと二人をなぞった。
それから静かに口を開く。
「随分、楽しそうですのね」
部屋の空気が、一瞬で冷えた。
クラリスは数歩、机へ歩み寄る。
「第二王子殿下はお忙しいと伺っておりましたけれど」
視線がルシアンへ向く。
「こうして親しくお話しするお時間はおありなのですね」
ルシアンの眉が、わずかに動いた。
「……談笑ではない」
低く答える。
「孤児院の支援計画だ。書類の確認をしていただけだ」
クラリスの視線が、今度はクラーラへ移る。
「そうですの」
それだけ言って、またルシアンを見る。
「ですが、第二王子殿下が政務室で令嬢と二人きり――随分と軽率ではございませんか」
クラーラは思わず息を止めた。
ルシアンの目が、わずかに細くなる。
「軽率?」
「ええ」
クラリスは淡々と続ける。
「宮廷には目がございます。噂というものは、思っている以上に早く広まるものですわ」
さらに一歩、机に近づく。
「それに、ルシアン殿下は婚約者のいらっしゃるお立場ですもの」
沈黙が落ちた。
ルシアンが、ゆっくりと椅子から立ち上がる。
「……それを言うために、侍従を振り切ってここまで来たのか」
「ええ」
クラリスは視線を逸らさない。
「殿下。なぜわたくしを頼ってくださらなかったのですか?」
扇を持つ手は静かなままだったが、その声には抑えきれない硬さが混じっていた。
「わたくしも、孤児院に足を運んでおりますのに」
ルシアンは一瞬だけ黙った。
それから静かに言う。
「……頼らなかったわけではない。孤児院の話は、君からも聞いている」
机上の書類を指先で軽く叩く。
「だが今回は、現場の状況を知っている人間の意見が必要だった」
視線が、クラーラへ向く。
「クラーラ嬢は実際に孤児院の運営に関わっている。だから話を聞いた」
それからクラリスを見る。
「それだけだ」
「言い訳にしか聞こえませんわ」
クラリスの視線が、静かにクラーラへ移る。
「それなら、なぜわたくしをこの場に呼ばなかったのですか?」
「……呼ばなかった? クラリス、ここは政務室だ」
静かな声だった。
だが先ほどより、はっきりとした線引きがあった。
「誰を呼ぶかは、俺が決める」
クラリスの扇が、ぴたりと止まる。
「クラーラ嬢に意見を求めたのは、俺の判断だ。君に断る必要はない」
クラーラは思わず息を呑んだ。
クラリスが唇を噛む。
「殿下は……っ」
声が、わずかに震える。
「わたくしが婚約者だということを、お忘れですか?」
「……忘れてはいない。だが」
ルシアンは一歩だけ机の前から離れた。
「婚約者だからといって、政務に口を出す権利があるわけじゃない」
クラリスの瞳が揺れる。
「君と俺の関係とは、別の話だ」
「別の話ですって……!?」
ついに声が鋭くなる。
「わたくしは未来の王子妃ですわ! わたくしに政務を語る資格がないと、そう仰るの!?」
クラーラの肩が、わずかに強張る。
クラリスはもう止まらなかった。
「殿下はいつもそうですわ。必要なことは何も仰らないまま、こちらにだけ理解を求めて――」
「クラリス」
ルシアンが低く遮る。
それだけで、空気が張り詰めた。
「それ以上は、話を混ぜるな」
クラリスが息を呑む。
ルシアンの声は高くなかった。
だが、押し返す余地のない硬さがあった。
「君との感情の行き違いを、この場に持ち込むな」
クラリスの指先が、かすかに震える。
「……そうですか」
小さく息を吐く。
伏せていた顔を、ゆっくりと上げた。
さきほどまで揺れていた瞳は、もう静かだった。
「殿下にとって、わたくしは……」
言葉が途切れる。
ほんの一瞬だけ、視線が揺れた。
胸の奥に浮かんだものを呑み込み、クラリスはゆっくりと扇を閉じる。
「わたくしは、どうやら……お邪魔だったようですわね」
ルシアンは何か言いかけたように唇を動かす。
だが、結局そのまま黙った。
クラリスはそれを見て、ふっと小さく笑う。
「殿下のお仕事を、お邪魔するつもりはございませんわ。……失礼いたします」
踵を返す。
扉へ向かう足取りは、乱れない。
侍従が慌てて扉を開けた。
クラリスは一度も振り返らず、そのまま政務室を出ていく。
扉が閉まり、
部屋に、重い沈黙が落ちる。
クラーラは視線を落とした。
「……申し訳ありません。わたくしが長居してしまったせいで」
ルシアンはすぐに首を振る。
「違う。君のせいじゃない」
「ですが……わたくしがここにいることで、殿下が誤解されるのであれば……」
「それも違う」
ルシアンは即座に言った。
「孤児院の件で意見を求めたのは俺だ。君の意見は助かった」
クラーラはわずかに微笑む。
「それなら、よかったです」
小さく頭を下げた。
「本日はこれで失礼いたします」
「……ああ」
クラーラが政務室を出ていく。
静寂が戻った。
ルシアンはしばらく動かなかった。
机上に残る書類へ視線を落としたまま、息を吐く。
先ほどの声も、眼差しも、まだ部屋の中に残っているようだった




