第8話
クラリスの学園生活には、小さな変化が生まれていた。
カレン・ヴァルディスが、なぜかクラリスの周囲に現れるようになったのだ。
「クラリス」
背後から声がする。
クラリスは足を止めず、そのまま歩き続けた。
「クラリス」
クラリスは眉間に皺を寄せ、振り返った。
そこにいたのは、やはりカレンだった。
令嬢たちが一斉に顔を背けた。
「ちょっと聞いていい?」
カレンが言った。
クラリスの眉が、ぴくりと動く。
「……言わなかったかしら。
ここは学びの場よ」
クラリスが鋭い視線を向ける。
「その言葉遣い、おやめなさい」
静かに言った。
「貴族としての話し方を覚えるのも、学びの一つですわ」
「え、そんなにおかしい?」
カレンが首を傾げた。
クラリスは小さくため息をついた。
「あなた方」
取り巻きの令嬢たちが、びくりと肩を揺らす。
「この方に教えて差し上げなさい」
「え?」
「学園の同級生でしょう」
令嬢たちは顔を見合わせた。
「……わたくしは急いでいますの」
クラリスはそう言い残し、歩き出す。
取り残されたのは、困惑する令嬢たちとカレンだった。
「え、ちょっと待って」
カレンが呼ぶ。
だがクラリスは振り返らない。
やがて一人の令嬢が、小さく息を吐いた。
「……カレン様」
カレンが振り向く。
「まず、“ちょっと聞いていい?”は……」
扇をそっと閉じる。
「その……少々、砕けすぎておりますわ」
「え?」
「“少しお時間をいただいてもよろしいでしょうか”……そのように仰る方がよろしいかと」
カレンはしばらく黙った。
それから、ぽつりと呟く。
「……長い」
令嬢たちは、一斉に固まった。
◆
カレンはなぜかサロンにも顔を出すようになった。
もちろん、正式な招きがあったわけではない。
ただ、クラリスが席に着いていると、いつの間にか近くにいる。
令嬢たちは戸惑いながらも、露骨に追い払うことはできない。
そして結局、同じ空間に座ることになるのだった。
令嬢が扇の奥で微笑む。
「ルシアン殿下は、それはもう……大変お美しい方ですわ」
カレンは目を丸くした。
「え、すごーい。
見てみたいなぁ」
カレンはさらに続けた。
「美男美女の婚約かー、小説みたい」
クラリスを見て、感心したように言う。
クラリスはカップを持ったまま、少しだけ顎を上げた。
「……まあね」
わずかに唇の端が上がる。
令嬢たちがほっと息をつく。
だが、カレンは首を傾げた。
「でも、会えてないんだよね?」
サロンの空気が、ぴたりと止まった。
一人の令嬢が急いで言った。
「殿下はお忙しいのですわ。第二王子として――」
「そうなんだ」
カレンはあっさり頷いた。
「……でもさ。
好きなら、時間くらい作ってくれるもんじゃない?」
完全な沈黙が落ちた。
誰も言葉を続けられなかった。
クラリスはゆっくりとカップを持ち上げた。
「殿下は……
感情よりも、王族としての役目を重んじるお方ですわ」
紅茶を一口飲む。
「御自分の務めを、何よりも優先なさるの」
令嬢たちが小さく頷く。
「さすが殿下ですわ」
「お若いのに立派でいらっしゃる」
カレンはその様子を見ていた。
「ふーん」
少し考えてから、首を傾げる。
「でも、
それって、クラリスが我慢してるだけじゃない?」
誰も動かなかった。
カレンは首を傾げたまま、クラリスを見ている。
「クラリスってさ」
少し考えてから言う。
「甘えるの、苦手でしょ?」
「カレン様……!」
誰かが小さく止める。
だがカレンは気にしていない。
「だってさ。
会いたいなら、会いたいって言えばいいじゃん」
誰も声を出せなかった。
クラリスは動かない。
カップを持つ手も、視線も、そのままだった。
(……何を言っているの、この人)
だが、その瞬間。
――可愛げがない。
ふいに、あの声が蘇った。
王太子に言われた言葉。
クラリスの指先が、わずかに力が入る。
「……」
カレンは続ける。
「それに、完璧な恋人がさー。
甘えてくれたら、うれしいんじゃない?」
(え……)
「え?」
クラリスはカレンを見た。
「……そうなの?」
カレンは首を傾げた。
「え? そうなんじゃない?」
「……」
クラリスはカップを持ち上げ、
ゆっくりと紅茶を口にする。
「そういえばさ」
思い出したように、カレンは隣の令嬢に顔を向ける。
「クラリスの仕立て屋で予約取れたんだよね」
令嬢が目を瞬かせる。
「……え?」
「ヴァルディス家の紹介って言ったら、来週空けてくれた」
カレンは嬉しそうに言った。
「ドレス作るんだ」
「そ、そうですか……」
カレンは話し続けた。
だが――
クラリスはそれ以降、何も言わなかった。
ただ、静かに紅茶を飲んでいた。
令嬢たちは互いに視線を交わす。
誰も、どう返していいのか分からなかった。
――完璧な恋人が甘えたら、嬉しい。
(……そうなの?)
クラリスは、初めてその言葉を考えた。




