第7話
エルヴァン公爵の執務室。
公爵は報告書を閉じ、息を吐いた。
「……クラリスが、また何かしたな」
向かいの夫人が紅茶を置く。
「夜会でしょう?」
「ローデンとヴァルツが動いた」
「止めますの?」
「止めぬ。あれは止めるものではない。
……だが、後始末は必要だ」
机の上には、数通の書簡。
王妃側近宛。
宮廷書記官宛。
そして、第二王子側近宛。
「まったく……美学で国を揺らすな」
呆れたように言いながら、印章を押す。
「似ましたわね」
夫人の声に、公爵は苦笑した。
◆
朝の陽が、学園の石畳を淡く照らしていた。
馬車を降りたクラリスは、軽くスカートの裾を整え、ゆっくりと門をくぐる。
登校してくる生徒たちの流れに加わり、そのまま校舎へ向かう通りを歩き出した。
「クラリス様!」
明るい声が飛ぶ。
振り向くと、顔見知りの令嬢たちが駆け寄ってきた。
「おはようございます、クラリス様」
「今日もお美しいですわ」
「昨日の刺繍会、いかがでした?」
矢継ぎ早に声が重なる。
クラリスは表情を変えぬまま、軽く頷きながら歩みを進めた。
「ええ、おはよう」
隣を歩く令嬢が、心配そうに顔を覗き込む。
「クラリス様、ご気分でも悪いのですか?」
「別に……なんでもなくてよ」
低い声で答える。
令嬢たちはそれ以上踏み込まず、自然に話題を変えながらクラリスの周囲を歩いた。
廊下を進むにつれ、周囲の視線が少しずつ増えていく。
そのときだった。
廊下の奥から、やけに賑やかな声が聞こえてくる。
「――それでね、昨日もアランが!」
一際高い声、
笑い声が交じる。
クラリスは足を止めた。
「……なんだか騒がしいわね」
視線を向けると、廊下の一角に人だかりができている。
男子生徒が半円を作り、その中心に一人の少女が立っていた。
栗色の髪。
くりっとした目。
身振りも大きく、よく動く。
クラリスの背後で、令嬢たちが小声で囁き合う。
「……あの方また」
「例の……」
クラリスは特に興味もなさそうに視線を外した。
「誰なの?」
別の令嬢が尋ねると、一人が扇で口元を隠しながら答える。
「カレン・ヴァルディス嬢……最近編入してきた新興貴族の方だそうですわ」
さらに別の令嬢が小さく続けた。
「なんでも、随分と……その……」
言葉を選ぶように視線を泳がせる。
「殿方と距離がお近いとか」
「いつもああして囲まれているそうです」
クラリスは一瞬だけ人だかりを見た。
中心の少女は、男子生徒たちに向かって身振り大きく話していた。
何か言うたびに周囲が笑い、本人もけらけらと笑っている。
その様子を見ても、クラリスの表情はほとんど変わらなかった。
「……そう」
それだけ言うと、踵を返す。
「行きましょう」
クラリスは何事もなかったかのように歩き出した。
令嬢たちも慌てて後を追う。
廊下の向こうでは、まだ笑い声が続いていた。
◆
貴族サロンは、午後の柔らかな光に包まれていた。
クラリスは窓際の席で紅茶を口にしていた。
周囲には数人の令嬢たち。
静かな会話と控えめな笑い声が、穏やかに流れている。
「……クラリス様」
隣の令嬢がそっと声をかけた。
「先ほどから、あまりお話しなさっていませんわ」
「そう?」
クラリスは紅茶を一口飲む。
「別に、いつも通りよ」
「ですが……」
別の令嬢が言いかけた、そのときだった。
サロンの扉が開いた。
「ねえねえ、ここって入っていいんだよね?」
数人の男子生徒とともに、カレンが入ってくる。
栗色の髪を揺らし、部屋をきょろきょろと見回した。
男子生徒の一人が、ふと視線を上げる。
そしてクラリスに気づき、姿勢を正した。
「ご機嫌よう、クラリス嬢」
もう一人の男子も続いた。
「ご機嫌よう」
カレンは、その様子を不思議そうに見ていた。
そして小さく首を傾げる。
「……だれ?」
男子生徒がぎょっとして振り向く。
「おい」
声を潜めて言う。
「エルヴァン公爵令嬢だ」
「公爵?」
それから、あっさり頷く。
「へえ」
特に気にした様子もなく、部屋の中を見回す。
「ねえ、この席空いてる?」
そう言って、近くの椅子を指した。
「ここ座ろうよ」
「……ああ」
三人はそのまま席へ向かう。
「それでさっきの続きなんだけど、アランがね――」
話しながら、カレンは身を乗り出した。
「え、ほんとに? そんなこと言ったの?」
男子は苦笑する。
「だからそれは誤解だって」
「でも昨日も一緒だったじゃん」
「偶然だって」
「もう、アランってほんと面白いよね」
男子生徒たちもつられて笑う。
令嬢たちは、そちらをちらりと見る。
そして、すぐに視線を戻した。
「……なんなの、あれ」
小さな声が漏れる。
「サロンですのに」
「声が大きすぎますわ」
「しかも、あの話し方」
ひそひそとした声が重なる。
クラリスは紅茶を飲んでいた。
その表情は、ほとんど変わらない。
ただ――
カップを置いたとき、わずかに視線が遠くへ流れた。
(……殿下)
胸の奥が、ほんの一瞬だけ沈む。
しかし、何事もなかったかのように言う。
「放っておきなさい」
令嬢たちは頷いた。
「……ところで」
先ほど言いかけていた令嬢が、ようやく言葉を継ぐ。
「最近、ルシアン殿下はお仕事が立て込んでいると聞きましたわ 」
クラリスはカップを持つ手を、一瞬だけ止めた。
「……殿下は有能ですから、仕方がありませんわ」
「まあ、そうでしたの」
「クラリス様とご婚約なさってから、
お立場も変わられましたもの」
「宮廷でも重要なお役目を任されているとか」
「それでお忙しいのでしょうね」
別の令嬢が、さりげなく言葉を継ぐ。
そのときだった。
背後から、軽い声が落ちる。
「え、かわいそー」
サロンの空気が止まった。
クラリスの周囲の令嬢たちが、ゆっくりと振り向く。
少し離れた席で、カレンがこちらを見ていた。
「婚約してるのに会えないんでしょ?」
男子生徒の一人が慌てた。
「おい」
カレンは気にした様子もなく続ける。
「それって婚約してる意味あるの?」
令嬢たちの顔色が変わり、
扇が静かに上がる。
「カレン様……」
カレンはクラリスを見た。
「好きなら普通、会うよね?」
「やめろ」
だが、もう遅かった。
クラリスはカップを置き、
立ち上がった。
一直線にカレンの席へ、ゆっくりと歩く。
カレンはきょとんとした顔で見上げた。
「なに?」
次の瞬間。
クラリスはテーブルに置いてある紅茶を、
そのままカレンへとかけた。
「わっ!」
カレンが声を上げる。
茶色の液体が、ドレスを濡らして広がった。
クラリスは空になったカップをテーブルに置き、静かに言った。
「――黙りなさい」
カレンは濡れたドレスを見下ろし、
目を丸くした。
「な、なんで?
私、変なこと言った?」
クラリスは冷たい視線を向ける。
「あなた、ここをどこだと思っているの?」
「どこって……サロンでしょ?
だから何?」
クラリスは一歩近づいた。
「学園のサロンですわ。
あなたは何をしに、この学園へ来たの?」
カレンは眉をひそめる。
「何って……勉強?」
「貴族の流儀を学ぶのも、その一つですわ」
カレンは少し黙った。
「……そんなの。
誰もそんなこと言ってなかった」
そのまま、ふと周囲を見回す。
男子生徒たちは視線を逸らしている。
令嬢たちは扇の奥から冷たい目でこちらを見ていた。
「……え」
カレンの声が止まる。
男子生徒の一人が、小さく舌打ちした。
「行くぞ」
「え?」
男子生徒はカレンの腕を軽く引く。
「ちょ、待って」
カレンは濡れたドレスを押さえたまま、よろめく。
男子生徒たちは視線を逸らしたまま、扉の方へ歩き出す。
カレンは一度だけ振り返った。
サロンにいる令嬢たちの視線は、冷たいままだった。
やがて扉が閉まり、静寂が戻った。
◆
翌日。
回廊には、朝の澄んだ光が落ちていた。
クラリスは一人、静かに歩いている。
「ねぇ」
背後から声がした。
だがクラリスは振り返らず、そのまま歩き続ける。
「……昨日のこと」
カレンは言った。
「ごめん」
頭を下げる。
クラリスは足を止め、口を開く。
「それが謝罪の仕方?」
カレンは顔を上げた。
「……え?」
「何について謝っているのかしら」
カレンは一瞬言葉に詰まる。
「……昨日、サロンで言ったこと」
少し視線を逸らす。
「失礼だったんだと思う」
「思う?」
クラリスはそこで振り向いた。
「あなた、自分の行動が何を意味するか
考えたことはあるの?」
「意味……?」
「あなた一人の問題ではないのよ」
クラリスはゆっくり言った。
「あなたが無礼を働けば、周囲はどう思うかしら。
誰の顔が潰れると思う?」
クラリスは続けた。
「あなたのご両親よ」
カレンの表情が少しずつ固くなる。
「あなたの振る舞い一つで、家の名は軽くなる」
「……」
カレンは視線を落とした。
クラリスはそれ以上言わず、
そのまま踵を返した。
本来なら、ここまで言う義理はない。
貴族社会では、無礼を働く者をわざわざ正すことはしない。
距離を置き、関わらないだけだ。
だが――
(……わたくし、どうしたのかしら)
クラリスは歩きながら、ふと空を見上げた。
青空が、静かに広がっていた。




