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星輪のギメルス  作者: アドム・ザナヴ
第二章 エフェス編 星なき夜の火種  エセル編 北辰の望郷
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エセル編 第15話 五色列島への航路 前編

星霊暦504年 1月20日(日) 朝


 カヴァラの港を出て数日が過ぎた。  琉宮から五色列島へと向かう船は、島影一つない大海原の只中にあった。


 エセルは中央甲板の左舷から、手すりに身を預けて海を眺めていた。  東の水平線から顔を出したばかりの太陽が、波頭をキラキラと照らしている。時折、どこからともなく白い渡り鳥――オキノオオナギドリが一羽、二羽と滑空してくるが、それ以外に動くものは何もない。


 かつて旅した渇きの砂漠とは違う。だが、この圧倒的な水量の中に放り出された孤独感は、あの砂漠で感じた恐怖とよく似ていた。足の下に広がる、底知れぬ深淵への根源的な恐怖。エセルは吸い込まれるように水面に見入っていた。


「おいおい、従者メイドの嬢ちゃん。またサボって海を見てるのかい?」

 甲板掃除のためにバケツを持ってきた船員が、呆れたように笑いかけた。


「そんなに海が珍しいか?」

「ええ、全く変わらない景色ですが、飽きませんね。たまにトビウオが飛んでいくのを見つけるのが楽しみなんです。それに……」

 エセルは少しだけ背筋を伸ばして微笑んだ。


「風に当たっていれば、酔いにくいことも知りましたから」

「違いねぇ! 嬢ちゃんはサボりの言い訳に関しては筋がいいよ。……それに比べて、あっちの『ご主人様』は凄まじいな」

 船員が顎をしゃくった先には、エセルの「雇用主」設定であるメルがいた。  彼女はスカートの裾をわずかに捲り上げ、デッキブラシを構えていた。


「……失礼。ここ、まだ汚れが残っておりますわ」

 ザッ、ザッ、ザッ!


 機械のような正確さと、訓練の代わりというように、目にも留まらぬ速さで甲板を磨き上げていく。揺れる船の上だというのに、彼女の体幹は微動だにせず、顔色一つ変えていない。


「……本当に、普通は逆だろ。主人が汗水たらして働いて、従者が優雅に海を眺めてるなんてよ」

「ふふ、私の『お姉さま(メル)』は働き者で頼もしいでしょう?」

「だな! うちの船員に欲しいくらいだ! お前も見習えよ! ガハハハハ!」


 船員は快活に笑いながら去っていった。  ここ数日、エセルたちは船員の手伝いをしながら過ごしていた。海の上では、乗客も運命共同体だ。しかし、この「メルが主人、エセルが従者」という設定は、メルの生真面目な性格のせいで、周囲には奇妙な「あべこべ主従」として受け入れられていた。


 ぞろぞろと、非番の船員たちが甲板に集まってくる。全員での朝掃除の時間だ。  その中に、少し顔色の悪い八兵衛の姿もあった。


「お、エセルのお嬢にメルの姐さん、お早いですな……うっぷ」

「八兵衛、顔色が優れないようですが、大丈夫ですか?」

「へへっ……情けねぇ話ですが、どうも波の周期が合わねぇみたいで。メルの姐さんが羨ましいですよ」

 八兵衛は口元を押さえながら苦笑した。


「さぁて、チャッチャと終わらせて朝飯にしようぜ! まさに人海戦術ってやつだな」

「ジンカイ?」

「…お嬢さんには、まだ早かったですね…まぁ、数で押し切るってことさ。……それよかエセルのお嬢、掃除だからってまた『アレ』やっちゃダメですぜ?」

「う……それは、もう言わないでください!」


 エセルは顔を赤らめた。  三日前、初めての掃除手伝いの際、重い海水を汲み上げる船員を見かねて、エセルは水の魔法で真水を甲板に撒いてしまったのだ。  しかし、それは酷く怒られる結果となった。真水は木を腐らせる。たっぷりの塩水を吸わせて木を引き締め、塩で清めるのが船の掟なのだと、その時初めて教わったのだ。


「八兵衛、お母さまとハムサが見当たりませんが」

「お二人なら朝食の準備ですよ。……いやぁ、設定上は『ハムサの姐御が主人で、イマ様が従者』ってことになってやすが、厨房じゃ完全にイマ様が指示出しちまってるんで、ヒヤヒヤもんですがね」

「少し不安ですが……ハムサがいるなら上手く誤魔化してくれるわ」

「お母様の料理の腕前がバレるよりはマシ、ってことですかい?」

「……八兵衛、それをメルに聞かれたら海に突き落とされるわよ」

「へいへい、口にチャックで」


 雑談を交わしながら掃除をする中、ふとエセルは船長室の近くに立つ人影に気づいた。  カヴァラから乗船した時はフードを深く被っていたが、今はその特異な姿を晒している。少し灰色がかった肌。白と黒のメッシュが入った髪を、男性的なお団子に結い上げている。琉宮風の着流しの襟元からは、濡れたような鉄黒色ガンメタルの鱗の服が覗き、それが白い縁取りによって美しい「網目模様」を描いていた。


「あれは、誰かしら? 八兵衛はわかります?」

「あぁ……ありゃあ、この海域の水先案内人ですぜ」  

八兵衛が小声で教えてくれた。


「『タキタロス』と呼ばれる魚民族の海中商人ギルドから派遣された、ゲンサイという旦那だ。五色列島周辺の海は複雑でね、彼らの案内がないと座礁しちまうんです」

「魚民族……初めて見ます。どこか、不思議な雰囲気ですね」

「ええ。イマ様やエセル嬢のような竜民族の角と一緒で、特徴が出やすい種族なんですよ」


 エセルがじっと見つめていると、ゲンサイがその視線に気づき、ギョロリとした大きな目でこちらを一瞥した。エセルは慌てて会釈をするが、ゲンサイは無表情のまま視線を海へと戻してしまった。


「……愛想はないようね」

「まあ、職人気質なんでしょうよ。それに、おかの人間が勝手に海をウロウロしてるのを、面白く思ってねえのかもしれませんな」

「どういうこと?」

「魚民族にとっちゃ、海は自分たちの『国』ですからね。昔は陸と海で争いもあったそうですが、今はこうやって契約で海の安全を保障する商売が定着してるってわけでさ」


 八兵衛の話を聞きながら、エセルは少し気が遠くなるのを感じた。  ただでさえ広く深い海への恐怖があるのに、そこには自分たちの知らない「海の種族の国家」が存在している。陸だけではない、世界の複雑さに目が回りそうだ。



 掃除を終えた頃、ハムサが朝食の準備ができたと呼びに来た。  ハムサが手伝う料理は船員にも大人気で、誰が見張りに残るかジャンケン大会が行われるほどだ。  今日のメニューは、『ハムサ特製・ハーブの麦雑炊』。そして、真っ黒な『黒豆茶』である。


「うめぇ……! 海の上でこんな美味いモンが食えるなんて、バチが当たりそうだぜ」

「滅多なことを言うな、ハムサさんに失礼だぞ。従者のイマさんにも……それと、料理長にもだ」

「取ってつけたように俺を入れるな!」

 食堂には笑い声が溢れていた。  エセルも椀を受け取り、その深い味わいに驚いた。


「ハムサ、この黒豆茶、とても美味しいですね。やはり何か工夫を?」

「エセル様は、いい舌してますね。実は船の備品に『鉄卵てつたまご』と『麦飯石ばくはんせき』ってのがありまして。砂漠の時の水と同じように、魔法の水をためた樽に麦飯石を入れて寝かせているんですよ」

「鉄の鍋に魔法水ですね」

「そうです。特に今回は魚民族の方もいますから、銅の鍋は毒になります。かといって鉄鍋は海の上では手入れが面倒で錆びてしまう。だから、船の鍋は陶器の鍋が主流なんですが、その鍋に卵の形をした鉄の塊を放り込んで、無理やり鉄分を補ってるんですよ」

「色んな創意工夫があるんですね……!」


 その配慮を知ってか知らずか、端の席で食事を摂っていたゲンサイが、静かに箸を置いた。

「……まずは、この食事に感謝する。海の者である私でも、安心して美味しくいただけた」


 ゲンサイの声は落ち着いていたが、その表情は晴れない。顔色も悪く、寝不足のようだった。  彼は椀の中の揺れる水面を見つめながら、独り言のように呟いた。


「……近頃の海は、淀んでいるな」

 その一言に、近くにいた船長が反応した。


「ゲンサイさん、やっぱりあんたもそう感じるか? ここ半年、阿倭列島の海域は荒れている。数年前までは滅多に見なかった魔物まで出るようになった」


 食堂の空気が張り詰めた。

「タキタロスは航海の安全を保障しているが、それはあくまで水路の案内だ。魔物の襲撃までは防げない。それだけは肝に銘じておいてくれ」

「わかってるさ。俺たちはいつでも戦える、大船に乗った気でいきましょうや!」

「そう思いたいのだが……」


 ゲンサイは悔しげに拳を握った。

「沈没事故が増え、あろうことか『魚民族が魔物を操って商船を襲い、罪を被せている』などという根も葉もない噂まで広まっている。我々としても、タキタロスの信頼失墜を食い止めねばならんのだ」


 重苦しい沈黙を破ったのは、船長だった。

「わかっているさ、ゲンサイ。俺たちはあんたを疑っちゃいない。だが、備えは必要だ。今夜から見張りを増員する。船首楼、中央甲板、後甲板にそれぞれ一人ずつ追加だ。カラスの巣は……夜は無人でいいな。魔物は海から来る」


「(カラスの巣?)」

「(マストの上の方にある見張り台のことですぜ)」  

エセルが呟くと、八兵衛がすかさず補足してくれた。  その時だ。


「失礼ながら、船長様」

 凛とした声が響いた。イマだった。  エセルはヒヤリとした。今の母は「従者」の身分だ。出過ぎた真似をすれば怪しまれる。  船長も怪訝な顔をした。


「あ? ……なんだ、従者の奥さん。飯ならうまかったぜ」

「ありがとうございます。ですが、その人員配置について、一つだけ進言をお許しください」  イマは、あくまで謙虚な姿勢を崩さず、しかしその瞳には為政者としての強い光を宿して続けた。


「私の以前仕えていた主人は、よくこう申しておりました。『闇雲な増員は、疲労を招き隙を生むだけだ』と。目的が『魔物の早期発見と忌避』ならば、別の手がございます」

 イマはテーブルの上の調味料を動かし、陣形を示した。


「船内にある『魔法カンテラ』をかき集め、船の外側に向けて配置するのです。魔物は火を嫌います」

「外に? そんなことをしたら、俺たちの目が眩んで海が見えなくなるぞ」

「いいえ。甲板に光が当たらないように船の側面に設置して、光を海面側に向けるのです。角度を整えれば光が波に反射して、海の方も甲板内も良く見えますよ」


 船長は鼻を鳴らした。

「へぇ……そいつはあんたの『前の主人』の受け売りかい? 随分と戦慣れした主人だったようだな」

「ええ。とても……厳しい方でしたので」


 イマはふふ、と笑って誤魔化したが、その策の有効性は船長にも理解できた。ノウァーリスの紹介状を持つ一行だ。ただの素人ではないことは薄々勘づいているのだろう。

「……なるほど、気に入った。野郎ども! 話の通りだ! 船中のカンテラをかき集めろ! 部屋の明かりなんぞ蝋燭で十分だ! 火事には気をつけるんだぞ、海の上の火事は笑えねぇからな!」

「カンテラの細かい設置はアタシらに聞いてくれ。光の調整をしてやるからよ!」

ハムサも加わり、船内は一気に慌ただしくなった。


 エセルも指示に従いながら、いつどこから魔物が襲ってくるかわからない緊張を覚えていた。  八兵衛がフィリピで言っていた、「休める時に休んでおく」という言葉の意味が、今なら痛いほどわかる。  私も、いつでも戦えるようにしなければならない。  そう覚悟を決めた、その時だった。


「魔物だッ!! 魔物が出たぞぉーーッ!!」


 見張りの絶叫が、朝の船内に響き渡った。

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