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星輪のギメルス  作者: アドム・ザナヴ
第二章 エフェス編 星なき夜の火種  エセル編 北辰の望郷
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エセル編 第16話 白波の攻防(五色列島への航路 中編)

星霊暦五〇四年一月二十日、日曜日。朝。


「魔物だッ!! 魔物が出たぞぉーーッ!!」


 見張りの絶叫が、朝の静寂を引き裂いた。  その声は船内を駆け巡り、食堂で談笑していた船員たちの表情を一瞬で凍りつかせた。


「野郎ども! 飯は後だ! 武器を取れ!」

 船長の怒号と共に、船員たちが一斉に立ち上がり、我先にと甲板へ駆け上がっていく。その背中には、先ほどまでの和やかな空気は微塵もない。命を懸けた戦場へ向かう男たちの殺気だけが渦巻いていた。


「エセル様、お部屋に戻って武器を! 急ぎましょう!」

 メルの鋭い指示に、エセルも弾かれたように立ち上がる。部屋に戻り、愛用の短剣を掴む手が震える。これが、海の上での初めての戦闘。  再び廊下に出ると、メルが振り返って言った。


「エセル様。まずは私やハムサ隊長、八兵衛が先行し、状況確認と安全確保を行います。エセル様はその後からついてきてください。部屋に一人でいるよりは、私たちの近くの方が安全です」

「ありがとう、メル。……かしこまりましたわ」

「八兵衛! 何をもたもたしている! さっさと来い! 戦って船酔いでも覚ませ!」

「……へいへい。すいやせんね、足を引っ張らねえように気を付けやすよ……うっぷ」


 顔色の悪い八兵衛を急かし、一行は暗い階段を駆け上がった。  扉を開け放ち、太陽の下に出た瞬間。  強烈な潮風と共に、鼻を突くような腐臭がエセルの嗅覚を刺激した。


「グギャッ! ギシャアアアッ!」


 耳障りな鳴き声。そして、エセルの目に飛び込んできたのは、甲板を埋め尽くさんばかりの異形の群れだった。


(……あれが、海の魔物?)


 それは、ゲンサイのような「人」の知性を感じさせる魚民族とは似ても似つかない、醜悪な獣だった。  ヌルヌルとした灰緑色の皮膚は所々剥がれ落ち、痩せこけた肋骨が浮き出ている。ヒレというよりは鋭い爪が生えた水かきのある手足。そして何より恐ろしいのは、その顔だ。飛び出した魚のような目は白く濁り、半開きの口からは乱杭歯が覗き、涎と共に絶えず飢えたような声を漏らしている。  いかにも食いかかってくるような形相。それは「魚」というよりは、海で溺れ死んだ亡者が、生者への怨嗟を抱いて這い上がってきたかのようなおぞましさだった。


磯餓鬼サハギン・コースタルだ! やはりこいつらか!」

 ゲンサイが、船員たちに聞こえるよう腹の底からの大声を張り上げた。


「ゲンサイさん! こいつら、あんたと同じ魚民族ですか!? やっちゃっても、問題ないんですか!?」

 近くの船員が、銛を構えながら叫ぶ。


「馬鹿者! 一目見て全然雰囲気が違うだろうが! こいつらは体の構造こそ我々と同じ魚民族に見えるかもしれんが、中身は腐った泥のようなものだ!」

 ゲンサイは吐き捨てるように叫び返した。


「たしかに、こいつらの方が魚っぽいですね! そして、魚が腐った匂いもします!」

「だろうが! とにかく腹が減っているとあたり構わず、生きているものなら何でも食らう悪鬼グールだ! 罪悪感を感じる必要はない、容赦なくやってしまえ!」


 その言葉に、エセルはわずかに安堵した。もし夜だったら、暗闇の中で船員と魔物の区別がつかなかったかもしれない。明るいうちに敵の正体を確認できたのは僥倖だった。

 磯餓鬼の数は、ざっと見ただけで十二体ほど。ちょうど甲板にいる船員の数と同じくらいだ。エセルたちを加えれば数では有利に見えるが、相手は痛みを知らぬ魔物。船員が一対一で渡り合うには分が悪すぎる。  エセルが加勢しようと一歩踏み出した、その時。


「エセル様、ここは私に任せてください。このために私がいるのです」

 メルの静かな声がしたかと思うと、次の瞬間、彼女の姿はもうエセルの隣にはなかった。  シャララッ……!  涼やかな金属音と共に、揺れる甲板の上を、メルが「踊って」いた。  右手に黒光りする鋼のショートソード、左手に青みがかった銀のナイフ。その二振りの刃には、陽炎のような薄い炎がまとわりついている。


「シッ! ハッ!」


 船員にのしかかろうとしていた磯餓鬼の背後に滑り込み、逆袈裟に斬り上げる。間髪入れずに回転し、別の個体の首を刎ね飛ばす。  それは円舞曲ワルツのような優雅な舞踏ではない。もっと原初的で、ほとばしる情熱をそのまま剣に乗せたような、荒々しくも美しい「剣の舞」だった。力が抜けているようでいて、インパクトの瞬間に爆発的な威力が生み出される。


「……綺麗」


 エセルは思わず呟いた。これまでメルが見せていた力など、ほんの一部に過ぎなかったのだと理解する。まだ彼女は、実力の半分も出していないようにさえ見えた。


「う……ぅぷ。メルの姐さんの、炎をまとった剣さばき……まさに魔物にとっての天災のような方ですね……今回はメルの姐さんに活躍の場をお譲りしておきます……」

 八兵衛は青い顔で口元を押さえながら、被害が出そうにないのを確認し、そそくさと安全圏へ下がろうとしている。


「八兵衛も行きますよ! 援護よろしくね!」

「あっしは、今回は使い物にならねぇんで逆に足手まといになりやすよ!」

「おい八兵衛!」

 戦いの渦中から、メルの怒号が飛んできた。

「ちゃんと雇用主を守る行動をとらないと、違約金をとるぞ!」

「……へいへい! そいつぁ勘弁してくだせぇ……できる限り善処しますぜ!」

 八兵衛は観念したように短刀を抜き、エセルの横に立った。


「そこよ! 風のウィンド・ブレード!」


 エセルは、こちらに気づいて飛び掛かってきた磯餓鬼に向けて、魔法を放った。不可視の刃が空を切り裂き、魔物の背中に深い傷を刻む。


「ギャッ!?」

 だが、浅い。致命傷には至らず、痛みで狂暴化した魔物が、血走った目でエセルに襲い掛かってくる。


「くっ……!ごめん八兵衛、手伝って!」

「仰せのままに!」

 八兵衛が低い姿勢で滑り込み、二本の短刀で磯餓鬼の腕の腱を正確に断ち切った。魔物が体勢を崩した隙に、その胸に一枚の護符を貼り付ける。


「違法乗船は、お断りですってよ!」


 ドンッ!  護符が炸裂し、魔物は甲板の外へと弾き飛ばされた。


「助かったわ、八兵衛」

「いえ、お安い御用で……うっぷ」


 エセルは荒い息をつきながら、自分の手を見つめた。


(……弱い。今のままでは、全然足りない)

 メルがあっという間に二体、三体と屠っていく中で、自分は一体を退けるのに精一杯だ。このままでは足手まといにしかならない。


「落ち着いたら……船の上は時間もありますし、メルや八兵衛に戦闘の手ほどきを受けたいです」

「あっしは、船の上じゃ魔物たち同様、陸に上がった河童どうぜんでさぁ……手ほどきならメル殿にお願いしてくだせぇ……」


 エセルたちが奮闘する間に、甲板上の磯餓鬼は残り七体を切った。勝てる、そう思った矢先だった。


「おい! 海を見ろ! まだ来るぞ!」

 船員が指さした海面が、ボコボコと不気味に泡立っている。

「グギャアアアッ!」

 水しぶきと共に、次々と新たな磯餓鬼たちが跳ね上がり、船縁に爪をかけてよじ登ってきた。その数、十、二十……。キリがない。


「お前ら、魔物を甲板に上がらせるな! 突き落とす部隊と、甲板で戦う部隊に分かれるんだ!」

 船長が大声で指揮を執る。

「突き落とす部隊に船に慣れた船員がついてくれ! 甲板部隊は冒険者たちに任せるんだ!」

 ゲンサイも声を張り上げる。イマやハムサも加勢し、どうにか戦線を維持していたが、混戦の中、一人の船員が足を滑らせた。


「うわあっ!」

 魔物の死に際の一撃が、彼の持っていた銛を引っ掛けたのだ。船員はそのまま海へと投げ出された。


「しまった!」

 海の中には、まだ上がってきていない魔物がうようよしている。落ちれば一巻の終わりだ。エセルが絶望に息を呑んだ、その時。


「私が行く!」

 ゲンサイが、躊躇なく着流しを脱ぎ捨てた。  その瞬間、彼の身体が眩い光に包まれる。


(え……?)

 エセルは、その変身から目を離せなかった。  光の中で、ゲンサイの肌が硬質化していく。肌着だと思っていた服が動き、背中から、腕から、そして足から、鉄黒色ガンメタルに輝く美しい鱗が広がり、全身を覆っていく。その鱗の縁は白く発光し、まるで芸術品のような「網目模様」を描き出していた。そして、背中と手足からは鮮やかな黄色の鋭利なヒレが扇状に展開する。  

それは、磯餓鬼のような醜悪な変化ではない。機能美と神々しさを兼ね備えた、魚民族の真の姿

――【神鬼化ヴァラカ友禅ユウゼン】。


 ゲンサイは流線型の弾丸となって海へ飛び込んだ。  


ザパァンッ!  

水しぶきが高く上がる。数秒の沈黙の後。  


ドォォン!  

水柱と共に、ゲンサイが海中から飛び出してきた。その腕には、気絶しかけた船員がしっかりと抱えられている。彼は重力を無視したような跳躍で甲板に降り立つと、優しく船員を下ろした。


「ゲホッ、ゲホッ……! た、助かった……」

 船員は海水を吐き出しているが、命に別状はなさそうだ。

「す、すごい……!」

 エセルは興奮で頬を紅潮させた。


「八兵衛! ゲンサイさんは、どうやってあの姿になったんですか?」

「あぁ、ありゃ魚民族の【神鬼化ヴァラカ】ですよ。普通の人間じゃ魔法石があっても簡単に神鬼化はできやせんが、魚民族は割りと簡単に神鬼化できる人が多いんですよ」

「神鬼化って、普通に存在するんですね……」

「まぁ、エセルのお嬢さんは才能ありそうですし、たぶんイマ様や姐さんたちも神鬼化は使えると思いますぜ」

「……そうなんだ」


 魔法に、戦闘技術に、神鬼化。母たちから教わるべきことが、山のようだ。焦るエセルの横で、戦況は再び悪化し始めていた。磯餓鬼だけでなく、タコのような軟体型の魔物までもが這い上がってくる。船員たちは疲労し、陣形が崩れかけていた。

(くっ、私にもっと力があれば……!)


 エセルが唇を噛み締めた時、静かで、しかし戦場の騒音を貫くような凛とした声が響いた。


「エセル、今は目の前の戦いに集中しなさい」

 母イマだった。彼女は細身の剣で魔物を牽制しながら、娘を諭すように見つめた。


「今を乗り越えなければ、今後の未来も意味のないものになります。焦り悩みは今は禁物です」

「……お母さま。かしこまりました」


 イマは、甲板全体を見渡し、よく通る声で宣言した。


「この魔物たちは知性は低いです。しかし、これほど統率されて集団で襲い掛かってくるということは、必ず指揮を執る『親玉』が存在します! 親玉が出るまでは、このまま耐え忍ぶのです!」


 その言葉は、混乱しかけていた船員たちの心に楔を打ち込んだ。  終わりが見えないから怖いのだ。だが、「親玉を倒せば終わる」という明確なゴールが示されたことで、全員の意志が統一された。

「応ッ! 親玉が出るまで持ちこたえろ!」


 たった一声。女王の威厳に満ちたその声が、乱れた戦場に秩序を取り戻した。


(お母さまは、すごい……)

 その声は、エセルの胸にも深く、優しく突き刺さった。


 しばらくして、膠着状態が続く中、ゲンサイが船長に駆け寄った。

「いったん私が、海の中でボスがいないか様子を見てこよう」

「いや、それは危険だ!」

 船長が即座に止める。

「あなたが海の中で無類の強さを誇るとしても、その神鬼化は力を使いすぎる。今は神鬼化を解いて、とっておきのために残しておいてくれ」

「だが、手を打つのは早い方がいい」

「いや、万が一、あなたが海に潜って不測の事態があれば、それこそこの船は終わる。ここは、待つことが肝心だ」


 船長の判断は冷静だった。ゲンサイは渋々頷き、鱗を収めて人の姿へと戻った。  じりじりとした時間が過ぎる。この戦いは長くなる、誰もがそう思った時だった。

「全員、何かに掴まれ! 衝撃に備えろ! 大きいのが来るぞ!」


 マストの上で戦っていたメルが、絶叫した。  次の瞬間、船が大きく傾いた。


 ドパァァァァンッ!!


 右舷側の海面が爆発し、巨大な水塊と共に、ひと際大きな影が甲板めがけて飛び込んできた。そのまま落ちれば、甲板を突き破りかねない質量と勢い。


「させんッ!」

 メルが空中で身を捻り、その巨体に蹴りを叩き込んだ。衝撃を殺し、軌道を逸らす絶妙な一撃。


 ズゥゥゥン……!

 重い地響きと共に、その「塊」は甲板の中央に降り立った。


「……何、あれ……」

 エセルは息を呑んだ。  それは、磯餓鬼とは明らかに格の違う存在だった。  身長は三メートル近い。鋼のように鍛え上げられた暗緑色の鱗に覆われた巨体。背中には王のマントのように巨大なヒレが広がり、手には白く輝く奇妙な材質――珊瑚でできた巨大な三叉槍を携えている。


 その姿は、先ほどのゲンサイの神鬼化にも似た、ある種の完成された美しさを備えていた。だが、決定的に違うのはその瞳だ。ゲンサイの目にあった知性の光はなく、そこにあるのは底なしの悪意と、血に飢えた狂気だけ。  魚民族の英雄の姿を模した、悪夢の具現化。


 ゲンサイが、憎々しげに吐き捨てた。

海鬼サハギン……最悪なやつまで、この海域に現れたか……!」


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