11 エクソダス1
1969年7月24日にアポロ11号が月に着陸してから人類は、他の天体への旅行が夢物語でない事を知った。
NASAが火星への移住計画を考えたり、2019年には第二の月ロケット計画であるアルテミス計画が始動した。
近年では、日本の建設会社も月面都市の構想を発表したりと、月や火星での長期滞在が現実味を増している。
それと同時に最近は、通信衛星と称して、多くのロケットが打ち上げられているのは周知の事だろう。
それに紛れ、実際には既に月基地の準備が始まっているかも知れない。
もし当初の月面基地が軍事目的ならば、情報の偽装や隠蔽も充分に考えられる事だ。
発見は兎も角、未開の地を開拓する時に軍隊が先行するのはアメリカ大陸を含めて珍しい事ではない。
それに、月面の地球側にミサイル基地を作れば、地球上の何処でも狙え、大陸間弾道弾の様な減速も起きず、直前までレーダーにとらえられる事も無い。
更には地球から月ミサイル基地を攻撃しようにも、その重力差から迎撃は容易になる。
もっとも、ミサイルと言えども月から地球の某国を狙うのも、容易では無いだろうが。
さてさて、月面に軍事基地ができていて、地球の地表が氷に覆われそうになった時、世の権力者達は何を考えるだろうか?
例えば、大海原で自分の乗った客船が沈みかけた時に近くに漁船が来ていて、移動するだけの体力と浮き輪が有ったがあった時に、貴方ならどうするか考えてもらえれば、答えは言わずもがなだろう。
時間的余裕は無く、漁船に乗れる人数や移動手段は限られている。
現実的に考えて、貴方は見も知らない女子供に浮き輪を渡すだろうか?
それとも、ひたすら神や奇跡に祈るのだろうか?
いや!後から批難もされないなら、自分と家族だけで逃げるのは間違いない。
そう、正常に本能が機能していれば、誰もがソウするだろう。
例え、責任のある社会の権力者であっても、生きるか死ぬかの時に保身に走るのは仕方がない。
ソレを責める者には「全財産と全権を譲るから私の代わりに死んでくれ」と言ってやれば良いのだ。
では、物語に戻ろう。
地下鉄コロニーやヨトゥン達より時代は前後する。
全球凍結の初期。海さえも氷始めた頃、地球を飛び立つスペースシャトルがあった。
普段は国際宇宙ステーションへ向かう物だが、今回は違う様だ。
二次加速を終えたシャトルの客席で、シートベルト着用の赤ランプが消えた。
「これで、何時間後に月へ到着するのかね?」
ヘルメットのシールドを上げ、シートベルトを外しながら、少し恰幅の良い男性が別の男に声をかけている。
「いいえ、大統領。先ずは地上から3万6000キロメートルの静止軌道にある中継ステーションに行き、船を乗り換えます。そこから更に35万キロですから、約2日を要します」
「まだ2日も、こんな窮屈な思いをしなくちゃならないのかね?」
大統領と呼ばれた男性は、かなり苦い顔をした。
船ならば、たまに甲板に出たりラウンジに行ったりできるので、2日でも我慢できる。
飛行機は狭いが、12時間もすれば別の空港で足が伸ばせる。
しかし、地球を飛び立つ宇宙船では、ろくに背伸びもできないのだ。
「パパ、こんなんじゃ、エコノミー症候群ってのになっちゃうわよ」
大統領と呼ばれた男性の横に座った小さな宇宙服から少女の声がした。
エコノミークラス症候群とは、長時間同じ姿勢で足を動かさないことで、足など下半身の静脈に血の塊(血栓)ができてしまい、それが血流に乗って肺や脳などの血管を詰まらせる病気だ。
呼吸困難、心筋梗塞、脳梗塞などを引き起こし、後遺症の残る麻痺や死に至る事も少なくはない。
長時間飛行が可能な飛行機や列車などで、膝を曲げたまま自由に動き回れない、エコノミークラスでの発症が俗称の由来だ。
ただ、宇宙船などの無重力状態では地上と異なり、脚部に血液がたまるというより、血液などの体液が脚から上半身・頭部へ移動しやすいため、「脚の血流が悪くなる」という地上のエコノミークラス症候群は発生しにくい。
実際、アポロ宇宙飛行士達にエコノミークラス症候群の症状が出たという報告は、無いらしい。
ただ、国際宇宙ステーション等での長期間無重力状態においては、血管内の血流停滞や逆流が起きたりして血栓が発生し、同様の症状が多々発生している事が報告されており、総称して『静脈血栓塞栓症/VTE』と呼ばれている。
「大丈夫ですよ。宇宙ステーションからは、もっと大きなシャトルになりますし、加速時を除けば軽装で自由に動けますから(とは言え、宇宙ステーションまで、この狭い状況は数時間続くんだけどね)」
大統領も娘も納得した様だが、案内役の男は上手く話題をそらす事に成功した。
宇宙は、とてつもなく広い為に、地上とは比べ物にならないほど移動に時間が掛かる。
その上、目的地へ直線的に向かえず、地球を中心に螺旋を描く様に飛ぶロケットは、無闇に加速できないのだ。
地上と違って慣性の法則が働く宇宙では、ステーションで止まる際にも加速時と同様の膨大な燃料を消費するからだ。
目的地が地球や月であれば、その重力を使う方法も無くはないのだが。
「生憎とシャトルには時間を潰すビデオソフトもございません。大統領も御家族も、ヘルメットのシールドを下げて仮眠なさっては、いかがですか?」
「確かに大気圏脱出で、かなり疲れたな。そうさせてもらおうか?」
スマホなども手元に無く、時間を潰す手段が無いのを自覚した大統領達は、言われるままにヘルメットのシールドを下ろした。
シールドはミラー加工がされており、閉めると室内灯の光が和らぐ。
ヘルメットは安全の為に中途半端にシールドが閉まらない様になっており、下げると自動で完全密閉になる仕組みだ。
呼吸は宇宙服から空気が供給されるので息苦しくはならないし、座席に座っていれば、宇宙船からも空気が供給されるのだ。
ゲストである大統領一家がヘルメットのシールドを下げたのを確認して、案内役の男は、幾つかのボタンを操作した。
大統領一家の座るシートのランプだけが、緑から黄色に変わる。
宇宙船からヘルメットへ供給される空気に、睡眠ガスが混入された表示だ。
「(トイレに行きたいとか騒がれても困るし、話し相手も面倒だからな)」
まだ意識があるかも知れないし、関係者も居るので、案内役は声に出さない。
宇宙服には排尿排便を受け付ける装備が有るが、慣れない者はソレを使うのを躊躇う。
事前に飲食控えさせ下剤で排便もさせたが、その後の彼等の飲食を完全に管理できてはいないと、報告を受けているからだ。
それに、一軍人である案内役に、大統領一家の接待ができる訳もないのである。
「あとは、到達の直前に起こせば問題無いでしょう」
大統領当人は、初めてのロケット体験で疲れ、急な睡魔に襲われたと思うだろう。
全てはトラブル防止の為に現場の判断とされているが、システムに組み込まれている以上、実際には多くが関わっている。
「(補佐官と護衛は寝る気配が無いが、感付いてはいない様だ。バレなきゃ良いんだよ。バレなきゃ)」
案内役の男は、目を閉じて大きくタメ息をついた。




