26
ここ数日の穏やかな二人の雰囲気を肌で感じ、節子は安心していた。
慎一郎がやってきた時は、婚約者同志が久方ぶりにあったというのに、
ぎこちない、いや、敵同士かと思えるほどいがみ合っているかのようにさえ、感じられたのだ。
自分の世話に来る事で、二人に諍いが生じたのではないかと心配していた。
だが、今は、二人の間に穏やかな空気が流れているのを感じる。
二人とも口数が少なく、会話しているのを聞く事もあまりないが、
黙ったまま同じ空間に共にいれる相手というのは、
貴重な人だと節子は思っている。
そして、これ見よがしではないが、慎一郎がユキを気遣っているのも節子は感じていた。
祐希はスピーカーから流れるピアノ協奏曲に時折、ハミングしながら、朝食の後片付けをしている。
節子は、リビングでゆっくりコーヒーを飲んでいた。
慎一郎が2階の客間から降りてきて、節子の肩にそっと手を置いた。
「叔母さん、ちょっと戻ってきます」
「あら、急じゃない?」
「少し用事を思い出したので」
「そう、ユキちゃんも?」
「いや、彼女はまだここにいますよ」
「いいのよ。連れて帰っても。そろそろ高崎も戻ってきてくれるだろうし」
「いや、俺もすぐに戻ってきますから。
ユキは高崎が戻ってくるまで、ここにいる様にさせるよ」
「でも、最初の予定より、長くなるわよ」
「ユキが帰る時は、俺が連れて帰るよ。
それまでは、叔母さんと一緒にいるよ」
慎一郎の言葉に節子は笑った。
「さすがの慎君も、一人でバスにのって来させた事に罪悪感があるのね」
祐希は節子に何か訂正の言葉をと、言いだす前に、慎一郎の言葉がそれを遮る。
「あの時は、まさか、こうなるとは思ってもみなかったからね。
まさかユキがこうやっているなんてね」
節子にはわからないが、祐希はその言葉を言われなくても自分が『身代わり』で
ここにいると言う事を、忘れた事はなかった。
祐希は慎一郎と節子のやり取りに神経を集中して聞いている。
「という事だから、叔母の事よろしく頼む」
「はい」
その後は節子に聞こえる様にわざと大声を張り上げている。
「じゃあ、叔母さん。行ってきます」
「慎君、気をつけてね」
「ユキ、車まで送ってくれるか?」
祐希は、自分の事を『ユキ』と呼ぶ慎一郎にまだ慣れなくて、とっさに返事ができない。
「あらあら、私の前では、恥ずかしくて何も言えないものね。
二人っきりで、しばしの別れを惜しんでらっしゃい」
節子のはしゃいだ声で我に帰る。
「そんな、惜しむだなんて」
「送ってくれる?」
慎一郎は繰り返す。
仕方なしに、後をついて家の外にでて、車の傍で向かいあった。
祐希は慎一郎に何を言われるのであろうかと、少し緊張していた。
「俺がいない間、何もするなよ。俺が戻ってくるまで、待っていてくれ」
「・・・・」
「叔母をむやみに煩わせたくない」
「分かりました」
「じゃ、頼んだぞ」
「・・・・あの・・・」
「何だ?」
「いつ、帰ってくるんですか?」
「俺がいないと寂しいか?」
慎一郎は皮肉気に口元を歪めている。
祐希は、ただ彼のいない間の、束の間の休息の時間が知りたかった。
「いつ、お帰りですか?」
「何か企んでいるのか?」
「いつ?」
祐希の少しいらだった繰り返しの質問に、慎一郎は憎らしげに笑う
「君が俺の顔と俺の婚約者だという事を忘れる前に」
言うなり、祐希の顎を掴み、噛みつくような乱暴なキスをした。
唇を離すとぼーっとした表情の祐希の両頬にそっと両手をあて、
今度は優しく、唇を啄ばんだ。
どれくらいそうしていただろう。
祐希は何も考えられず、ただ、されるがままだった。
この時が夢の中の出来事のように、フワフワとしていた。
ゆっくりと慎一郎が唇と手を離すと、心もとなく感じ、彼の眼を見つめた。
慎一郎もじっと、祐希の眼を見つめた後、
左手の薬指の付け根をギュッと掴み、ぶっきらぼうにつぶやいた。
「指輪しとけよ」
祐希の返事も待たずして、慎一郎は車に乗り込んだ。




