二十七 愛桜と海沼
愛桜が研究所に着くと、入り口に海沼が立っていた。
それを見た愛桜の監視役は離れて行って、愛桜だけが海沼と合流する。
ここに来るまで監視役が三人ついていて、その内の一人が車を運転してくれた。車内では誰も喋らず、張り詰めた空気で息が詰まったが、ようやく解放されたのだ。大きく伸びでもしたいところだが、世話になる海沼を前にそれはできない。
一つ、息を吐いて気を引き締める。
「ご無沙汰しております」
「随分と堅苦しいな。そんな仲ではないだろう」
そう言いながら無愛想な表情を全く変えない海沼の方こそ、砕けた雰囲気は一切感じられない。
彼の場合、誰であろうと見せる顔は同じで、和やかな雰囲気は想像もつかない。
無愛想、笑わない、冷徹。それが海沼だ。
海沼とは数回共に仕事をしたことがあるが、もう五年以上前のことで忘れられていると思っていた。
共に仕事をしたと言っても、海沼は仕事のやり方を教える教育係のようなもので、愛桜を教える教育係は他にもいて、特に会話もしていなかったと思う。だから、それほど親密な関係でもないはずだが。
「なんだ、その顔は」
「いえ、もう忘れられていると思っていたので」
「たかが数年で忘れるはずがない。特にお前は、狂犬のようでよく印象に残っている。随分と顔つきは変わったようだがな」
思い出に浸るでもなく、平坦に言って研究所の中に入って行く海沼。
愛桜はその後を追う。
******
研究所には、ディールを閉じ込めておく部屋がいくつもある。耐熱、耐圧、強度に優れた部屋などがあり、どのようなディールにも対応できるようになっている。
研究所に着いて早々、海沼はウェンディゴを捕獲する部屋に向かいながら、捕獲作戦の説明を始めた。愛桜は、それを黙って聞く。
ウェンディゴを捕獲する部屋は、感覚を狂わせる部屋らしい。
詳しくは聞いていないが、行けば分かるとのことだ。
その部屋で愛桜の体からウェンディゴを解放し、愛桜だけ部屋から出れば捕獲完了となる。
この作戦の不安要素は、そもそもウェンディゴが愛桜から離れない場合もあるという事だ。捕まると分かっていて出てくるほど馬鹿ではないだろう。
そして問題は、ウェンディゴが離れた後、愛桜だけが部屋から出られるかどうかだ。部屋から出ようとしたところでまた同化されれば、同じことを繰り返す羽目になる。
同化や憑依がどういう原理でできるのかは分からないが、ウェンディゴが何もできないように動きを止めてから部屋を出るのが理想だ。
「もし、お前が部屋から出られなければそのまま放置する。その先で生きるか死ぬかは、研究員の判断次第だ」
海沼に淡々と説明され、愛桜は内容を呑み込んで頷く。
「分かりました」
「あの狂犬が、随分と忠実な犬になったものだ」
皮肉のような笑いを含んで言われ、愛桜は愛想笑いを浮かべる。
海沼が愛桜のことを邪険に思っているわけではないことは確かだし、皮肉のような口ぶりでも兄のような存在で、一緒にいると驚くほど心が平静に保たれるのだ。
冷淡な海沼の空気に呑まれているだけかもしれないが、今は距離が遠くて親密でない兄、そう感じる。
短い時間しか会っていないのに、そう思わせるから不思議だ。
海沼の方も愛桜を気にかけてくれているのか、愛桜の怪我に言及する。
「重傷は腕と首か。そこまでする価値はあるのか?」
最初にウェンディゴと対峙した時の千切れかけた腕は、あまり休むことができず全く治っていない。それに、百蝙にやられた首の傷は、応急処置でなんとなるようなものではない。『感覚止血』で出血を抑えている状態で、本来なら縫わなければならないような傷だ。安静にしていれば愛桜の常人離れした回復力でどうにかなるが、ウェンディゴの精神干渉と山鶴のいざこざで碌に休息がなかった。
「……」
黙る愛桜に、海沼は呆れる。
「気づかれないとでも思ったのか? 出血を無理矢理止めているだけで、傷は全く塞がっていない。それでよく動けたものだ」
「動こうと思えばいくらでも動けますから」
「そうだったな。そう言えば昔から体のつくりが違かった」
海沼は、愛桜に教えていた時のことを思い出したのか、心配する気配が消えた。
愛桜は昔から、心配されたところで言う事を聞かず単独行動していたし、その方が仕事がしやすくてそうしていた。周りからはいろいろと言われた記憶はあるが、海沼だけは何も言って来なかった気がする。だから特に印象に残っていた。
今思うと、かなり勝手をしていたが、ディールが関わると誰の言う事も聞かなくなるのは今も変わらない。
今は、信じてついてきてくれる仲間がいるからだいぶ動きやすいが。
と、そんなことを考えていたら、年が近くて同じアパートに住んでいて、よく仕事も一緒になるあの四人の姿が浮かんだ。
(かなり、助けられてたんだな……)
あんな、お互いが納得していないまま別れてしまって、少し後悔する。
知識や経験や強さが誰よりも上の愛桜だが、それを分かって従ってくれる人は、これまでほとんどいなかった。あの四人は、各々ディールを狩猟するために最適な方法を考えた上で従い、愛桜に対して一切不満を抱かなかった。愛桜を、信じてくれていた。
愛桜は、ディールを喰う少女を助けるために、あの四人の心を傷つけたのだ。
あの四人は、愛桜を助けるために少女を傷つけようとして、愛桜はそれが許せなかった。
誰かを助けるために誰かを傷つけることが許せなかった。
そのはずなのに――。
愛桜も、あの四人と、愛桜が嫌う他の人間と、結局は同じだった。
「なんだその顔は。喧嘩でもしたのか?」
隣を歩く海沼は正面を向いたまま言い、考え事をしていた愛桜は顔を覗かれたことに気づかなかった。
「喧嘩……そうですね、喧嘩……ふっ」
喧嘩のようなものなのかもしれない。
そんなに簡単な話ではないのだが、これが普通とは違う愛桜たちがする喧嘩なのかもしれない。そう思うと笑えてきて、少し吹き出してしまった。
「お前、笑えたんだな」
それを見た海沼が驚いたようにほんの少し目を大きくさせた。
愛桜はジト目で自分より背の高いを見上げる。
「それ、俺に失礼では?」
「すまない。数年前のお前からは想像ができなかったからつい」
「海沼さんこそ、素直に謝る人でした?」
愛桜は申し訳なさそうにする海沼に意趣返しで言ってみると、
「おい、それは本当に失礼だ」
海沼は軽い口調で応じた。
ある程度の冗談は許してくれそうだ。冷たそうな見た目で、実際表情もほとんど変わらないし、声も平坦だが、想像よりもずっと懐が深い人のようだ。
******
「ここは初めてか?」
愛桜は、ウェンディゴを捕獲する部屋の前まで来ると、少し不安になった。
いつもとは全く異なる環境で、少し緊張している。
その様子を見て聞いてきた海沼に、愛桜は小さく答える。
「……はい」
目の前にあるのは大きな分厚い扉で、重々しい雰囲気を出している。ここに来るまでも、長い廊下を歩き、顔認証、指紋認証、虹彩認証、パスワード認証、いくつもの認証を行ってきた。
愛桜は慣れない機械でどっと疲れたが、海沼は慣れているようで行動に迷いがなかった。
海沼が言うには、認証は不審人物をあぶり出すためにもあるが、通った人物のデータを記録する意味合いが強いそうだ。
ディールが逃げようとすることはあっても、わざわざディールのいる場所に行こうとする人はいない。たまに、少数派のおかしな人物も侵入するが、大体は研究所の入り口のセキュリティーで止められる。運よく中に入れても、全ての部屋が社員証をカードリーダーに翳さないと入れないようになっているため、無理矢理入ろうとすればすぐに通報される。だから、捕獲室までのセキュリティをこれほど厳重にする意味は、ほとんど研究のためらしい。
ディールの捕獲室に入るための認証を出ていく時も行うことで、ディールとの接触により人体構造に何か異変が起こっていないか認証データで調べられるようになっている。研究所の職員は血液まで取られるそうだが、ハンターは任意だ。
愛桜はディールを喰ったことがあるから、人間の血液にディールの血液が混じっている。そのことは愛桜の主治医しか知らないし、知られたら面倒なことになるのは分かり切っているから、誰にも言っていない。
任意と言うくせに断ったら怪しまれそうな雰囲気で焦ったが、海沼が先に時間の無駄だと言って断ってくれて助かった。
目の前にあるウェンディゴを捕獲する部屋だが、その重々しい扉を開くのにもパスワードが必要らしい。
海沼がパスワードを入れると、扉はゆっくり横にスライドして開いていく。
「怖いか?」
不意に海沼が聞いてきた。
愛桜は即答する。
「これくらいで恐怖を感じてたら仕事なんてできませんよ」
一拍、間があった。そして、海沼は目を伏せて言う。
「……そうではない」
「はい?」
海沼の顔を見上げると、表情は変化していない。しかし、言葉を詰まらせるのは海沼らしくない気がした。表情からは何を思ったのか読み取れないが、言葉を詰まらせるほどの何かを思ったはずだ。
そして、
「捕獲のためなら、多数のためなら、自分の命のためなら、大切な人のためなら、弱者を気取って強者を蔑ろにする人間が、怖くはないのか?」
言葉を慎重に選んだかのように、静かに問われた。
狩猟団体の上層部が愛桜を死なせようとしたことを言っているのだろう。
愛桜はフッと笑って、海沼から目を逸らして前を向く。
何を今更。
「もう慣れました.。それに、この力は、普通じゃない。それは分かっていますから」
普通ではない力は恐れられるものだし、どうしても距離を取られる。
恐れは、人をおかしくさせる。
人は恐れを抱いた瞬間、守りたいものを優先する。
愛桜は、それが間違いだとは思わない。
今なら、仲間達がディールを喰う少女に刃を向けたことも、愛桜が仲間達に冷たく当たったことも、間違いではないのだと思える。
愛桜が上層部にされたことは、さすがに残酷すぎる選択だと思うが、責め切れない自分がいるのも事実だ。
それに、自分達への扱いは、普通でないなら仕方がないと、随分前から諦めている。
「……そうか。それは、悲しいことだな」
意外な言葉が、海沼の口から発せられた。
更に似合わないのは、その柔らかな声音だ。
「え?」
愛桜が少し驚いて海沼の方を振り向くと、ちょうど海沼と目が合う。
切れ長の目は細まっていて、いつもより冷たく見えるはずなのに、そんなことはなくて――。
「悲しくて、寂しいことだ」
海沼はそう言って、愛桜の頭にポンと手を置いた。
想像もしなかった行動に、愛桜は驚いて目を見開く。
「行くぞ」
そんな驚きは一瞬で、海沼はすぐに手を離して捕獲室に入っていく。
愛桜は、その切替の速さに戸惑う。
一体、何だったのだろう。
数年たって、性格も少し変わったのだろうか。
冷徹で無愛想、それが海沼だったはずだ。
こんなに温かさを感じるようなことは一瞬たりともなかった。
「早く来い。俺だけ入っても意味がない」
部屋に入った海沼に呼ばれ、固まっていた愛桜は慌てて動く。
海沼と共に部屋の中央に来た愛桜は、感心したような呆れたような声を出す。
「広いですね」
「あぁ。狭いと俺が自由に動けなくなるからな」
部屋の広さは一辺が二十メートル、高さも同じくらいだと聞いている。
しかし、実際はもっとあるのではないかと思わせる部屋だ。なにしろ一面真っ白に覆われていて、どこまでも続いている広大な部屋のように錯覚させられる。
壁は汚れ一つない純白。照明の位置と明るさを調整していて影ができないため、壁の端がどこなのか分からない。監視カメラが天井にいくつか設置してあるらしいが、これも白く塗ってあるのか、相当目がよくなければ見えない。
目の錯覚を引き起こさせ、距離の掴めない部屋。
これなら、ウェンディゴが逃げ出そうとしたり暴れたりしても、壁までの距離が掴みにくいから速く動けないだろう。
距離を見誤ればそのまま壁に激突して終わりだ。だから慎重になる。慎重になった速さなら、愛桜も海沼もウェンディゴの動きを追えるだろう。
愛桜は、これほど打ってつけの部屋を用意できたことに感心し、用意できるのに海沼が関与するまで動かなかった本部に呆れる。
ウェンディゴに恐怖を感じて愛桜ごと殺そうとするのは分かるが、これほど設備を整えられるのなら少し冷静になって欲しかった。
研究所ではこれまで数百体のディールを扱ってきているし、その全てを把握してきた本部は、今回あまりにも臆病で残忍だ。
そんなことを考えて、ため息をつきたくなるのを堪えていると、扉が閉じられた。
扉が閉じても側にいる海沼は何も言わない。
ここでウェンディゴを出す手筈だが、指示がないという事は愛桜の判断で始めてもいいのだろうか。
「海沼さっ――」
海沼に聞こうとした、その時。
体がふらついた。
「っ……」
眩暈がして、愛桜は頭を押さえる。
目が霞んできて、気のせいかと思って目を擦ってみるが、何も変わらない。
明らかに異変が起こっている。
愛桜はついに立っていられなくなり、膝をつく。
「くっ……」
そして、何事もないように立っている海沼を、睨むように見上げた。
海沼に異変はない。
愛桜は、この急に来る眩暈と不快感に覚えがある。
そして、海沼がそんな愛桜を見ても何の反応もせず、何も言わないところをみると、海沼はこうなることを知っていたとしか思えない。
「毒ですか……」
「その通りだ」
海沼は冷淡に答えた。
やはり、知っていたのだ。
知っていたという事は、これはウェンディゴを捕獲するための作戦なのだろう。
愛桜が思うことや、外との会話はウェンディゴに常時筒抜けの状態だ。そのため、愛桜が作戦の全てを知ってしまえば、当然ウェンディゴは抜け道を捜すだろう。
そう判断して、最低限の作戦しか伝えられなかったのだ。
ウェンディゴがここに来るまで暴れ出さなかったのは少し気がかりだが、この厳重な部屋に入ってしまえば半分捕獲は完了したようなものだ。
海沼がいるなら、対応は任せよう。
愛桜がまずやるべきことは、ウェンディゴを自身から引き離すことだ。
――そう理解した気でいた愛桜は、この時、海沼の冷徹さを甘く見ていた。




