二十八 捕獲完了
「さて、やることは分かっているだろうが、このままだとお前とウェンディゴは死ぬことになる。ウェンディゴが出てくれば、両方助かる」
膝をつく愛桜を見下ろし、海沼は静謐な目を向けた。
この部屋はあらかじめ毒で満たされていたのだろう。愛桜は、働かない頭でそんなことを考えていた。
海沼に効かないのは、あらかじめ解毒剤を飲んでいたからだろうか。
「死にたくなければ出てこい」
憑依中に憑依対象が死ぬと、ウェンディゴも死ぬ。愛桜が報告している憶測だが、それを利用した策だ。愛桜の経験上、憑依対象の怪我は影響を及ぼさないが、生命機能の停止はウェンディゴも死ぬか、そうでなくともウェンディゴにとって何らかの不利益を被ることは間違いない。
「出てきそうにないか」
変化しない状況に、海沼は痺れを切らす。
「捕獲されると分かっていて出てこようとは思わないみたいです」
「そうか。ならばお前が何とかしろ」
愛桜は、毒という手助けがなくともやるしかないと思っていた。だから、毒の前にウェンディゴを外に出せるか試させて欲しかった。しかし、文句を言っても仕方がないため黙って従う。
「分かりました」
しかし、この状況で出てこないとなると、愛桜が死ぬとは思っていないのか、死んでもウェンディゴに影響はないのか……。
憶測は外れかと思いながら内に意識を集中させて、ウェンディゴを弾き出すイメージを強く持つ。
内に閉じ込めていたのとは反対のイメージ。
曖昧でもいい。とにかく強い意志で弾き出す。
「…………………いない?」
しばらく集中していた愛桜だが、声を揺るがせて呟いた。
その様子に、海沼は眉を顰める。
「どうした」
「ウェンディゴが、いません」
「……」
愛桜をますます怪訝な目で見る海沼。
愛桜は焦った様子で目を泳がせる。
「ここに来るまであまりにも静かだった。俺を惑わす声も出さなかったし、記憶を掻き乱すこともなかった。考えれば分かったはずです。そもそもいなくなってたんですっ。いつからっ……山を下りる時までは確かにいたのに、いつ……」
「それは本当か?」
海沼は微塵も動揺せず、膝をついて愛桜に目線を合わせる。
ぐっと近くなった距離に、愛桜は咄嗟に離れようという意思が働いた。僅かに足を動かしてしまうが、その行動を慌てて抑え、大きく返事をする。
「っ、はい」
不安からか、挙動不審な愛桜。対し、海沼の表情は変わらない。
淡々と、愛桜の瞳を覗いて問う。
「偽りはないか?」
「はい」
「お前は、愛桜か?」
「はい?」
愛桜が、聞き返すように返事をしたその時、海沼の纏う空気が変わった。
「お前、ウェンディゴだな」
空気が冷たくなった感覚。しかし、海沼が冷たいのは元からで、もっと決定的な何かが違う。
時間が止まったかのように思える閉塞感のようなものを覚える。
愛桜は冷汗を浮かべて、海沼の機嫌を取るように答える。不信を買うとまずい。そんな曖昧な恐怖が愛桜を呑み込む。
「……愛桜です」
答えた瞬間、腹部に違和感があった。
熱いような違和感がしたが、感覚がぼやけていて分からない。
見ると、海沼の手には短刀が握られていて、それが腹に刺さっていた。
「それ、俺の刀ですよね」
いつ盗られたのか、何本か帯刀している内の一本、腰にかけた鞘が空になっていた。
白い床を、血が赤く塗り潰していく。
「ほう。まだ愛桜のふりを続けるのか。大したものだ」
海沼は、感心したように目を細める。
「ここにウェンディゴはいません」
愛桜は訴えるが、海沼はウェンディゴが愛桜を操っていると思っていて耳を貸す気はないようだ。
「お前が愛桜だという確信が持てない。悪いが、生かしておけない」
「あなたも、結局他の人と同じですか」
愛桜は、声を落として独り言のように言った。
「失望するのは勝手だが、人なんて皆同じだ。愛桜、お前も」
海沼はいつもの調子で淡々と言う。愛桜の言葉で揺らぐほど、覚悟は甘くない。
「っ俺は、他の人とは違います。同じになりたくないから、そうしてきた」
「だといいがな。人の本質はそうそう変わるものではない」
愛桜は言い返せる言葉がなく、悔しそうに口を引き結ぶ。
愛桜もそれは分かっていた。人とは違う経験をしてきた自分は、ほかの人とは違うと思いたいだけだったことも。
人間らしく悔しそうな表情をする愛桜だが、海沼にとって、愛桜かウェンディゴかも分からない者の心境はどうでもいい。
黙り込む愛桜を気に留めず、腹に刺した刀を抜く。
「くっ……」
刀を抜かれたことで、出血がますますひどくなる。
刺された所を手で押さえた愛桜は、海沼を睨んだ。
「お前が愛桜というのなら。それを証明したければ、そこを動くな」
海沼は、ポケットから小瓶を取り出し、中の液体を刀にかけた。ここに来る前に幹部から渡された毒だ。
「それは」
「さぁ、なんだろうな」
海沼は、何の毒か分かっていないためはっきり答えない。
薬ではなく毒であることは確かだ。皮膚に触れるだけで激痛を引き起こす毒。それをたっぷりかけた刀で、再び愛桜を刺す。
瞬間、
「ぐっ………ぐわぁぁぁぁぁ!」
愛桜は叫び、床を転がった。
「動くなと言ったのに動いたな。やはりお前はウェンディゴだ」
「ぎぃやぁぁぁぁ! あぁぁぁぁっ!」
絶叫するばかりの愛桜は、海沼の言葉を聞いていない。
「あぁぁぁぁ! 熱いっ! 熱いっ! ぐぁぁぁ! 痛い! あぁぁぁぁぁぁ! 一体、何をしたぁぁぁ!」
目を充血させながら泣き叫ぶその姿は、普通の感性を持つ人であれば憐憫を通り越して悍ましさを感じるだろう。
「同化している間は、愛桜が受けた痛みは伝わるようだな」
しかし、その様子を見下ろす海沼は、やはり冷淡で、愛桜の姿をしたウェンディゴがどうなろうと何の感情も宿さない。
ただ、少しうるさいと思うだけだった。
そして、ふっと愛桜の叫びは止まる。
「俺の体で、醜態を晒すなよ……」
力なく起き上がる愛桜。その隣に、縮こまったウェンディゴが落ちている。
「どうしてっ。どうして分かった!」
ウェンディゴは、この部屋に入ったタイミングで愛桜を乗っ取っていた。
部屋に入ったら抑え込む必要がなくなるため、愛桜の緊張の糸が緩まったのだ。その瞬間、耐えに耐えて巡ってきた好機を逃さず乗っ取りに成功して、勝ったと思った。
勝っていたはずだ。
それが、どうして。愛桜になりきっていたはずなのにどうして。
「それは、今のお前たちを比較すれば一目瞭然だろう」
海沼が冷めた目をウェンディゴに向ける。
痛みに耐えきれずまんまと姿を現したウェンディゴと、痛みに耐えて立ち上がる愛桜。
二人の様子はあまりにも違いすぎる。
いくら愛桜の記憶を読み、愛桜を真似ようと、痛みを、苦痛を知らなかったウェンディゴが愛桜になれるわけがない。
「すみません。やられました」
立ち上がった愛桜が海沼を見ると、そこには血まみれの愛桜を気にもせずウェンディゴから目を離さない、一切油断のない姿があった。
海沼はどこまでもどこまでも、冷静で、冷徹で、冷酷だ。しかし、全く温かさが無いわけでもなくて。
「いや、おかげでこいつを出すことができた」
そうやって愛桜にかける声は、少しだけ柔らかかった。
「っ! こんなところでっ、終われるかっ!」
突然、悔しそうに叫んだウェンディゴが、愛桜に向かってくる。
また愛桜と同化する気だ。激痛を伴っても、捕まるよりマシだと思っているのだろう。
目で追えないほどの速さで迫ってくる。しかし、愛桜は勘で対応。向かってくるウェンディゴを正面から殴り、吹き飛ばす。
「これで終わりだ」
「うっ……何で、こんなことに……」
床を転がって悔し涙を流したウェンディゴは、まだ動く。
諦められず、開きもしない出口に一直線に向かう。
しかし、無駄なことだ。
「逃げられるわけないだろう」
海沼に先回りされて、殴り飛ばされる。
「ぐはっ」
進行方向とは逆に吹き飛ばされ、また床を転がる。
「クソ……まだ……まだ終われない!」
泣きながら呟いたウェンディゴは、悔しさのあまり拳を強く握って床を叩いた。
「まだ!」
癇癪を起すだけの意味もない行動だったが、ふと、動きを止める。
思いついたのだ。危機を脱する方法を。
愛桜との同化があまりにも上手くいきすぎて忘れかけていたが、他にできる事があるではないか。
それを思いついて、つい笑みが浮かんだ。
(おっと、こんな顔では悟られる)
しかし、沸き出てきた希望を隠し、わざと苦しい表情を海沼に見せる。
「愛桜……愛桜は仲間ではないのか!? よく躊躇いもなく刺せたものだ! あれがどれほどの激痛かっ」
「なんだ、そんなことを思っているのか? こいつは所詮、赤の他人。痛みに苦しもうが、命を落とそうが何とも思わん。この業界にいる以上、本人もその覚悟はできているはずだ」
ウェンディゴは内心、歯噛みした。
これまで幾度も人の記憶を読み、心を壊し、殺し合いをさせてきたが、海沼のような人間には出会ったことがなかった。これほど心が揺らがない人間はそうそういない。
しかし、ウェンディゴは精神を乱される側ではなく、乱す側だ。心を乱し、隙を作ることなど造作もない。記憶を読めば、弱点が分かるはずだ。海沼の心を乱し、隙ができたところで憑依しよう。本来であればすぐに憑依できるものではないが、追い詰められた今なら、なんだってやるしかない。
「こんなことをしてお前はどう思われる? 残虐行為をした犯罪者ではないか! そう見られて味方など存在しなくなる!」
「だからどうした? 真実、本質、現実から目を背ける馬鹿な味方は必要ない。俺はすべきだと思ったことをするまでだ」
海沼は表情一つ変えない。
それどころか、ウェンディゴが記憶を読もうとすると、弾かれた。
(読めない……?)
このようなこと、初めてだ。息を吸うようにできていた記憶の除き見、それができない。難しい事ではなかったため、どうしてできないのか分からない。
「お前、俺に憑依しようとしているのか? 愛桜だと思い通りにいかないから、俺に鞍替えする気だな」
「っ……」
「図星か。お前は思っていたより薄っぺらい在り方をしているようだ」
(一体どういうことだ?! なぜ記憶が読めない?! 狙いにも気づかれた! これでは余計に隙がなくなってしまうっ!)
全て、上手くいかない。
愛桜を乗っ取っても海沼に見破られるし、海沼に憑依しようとしても心に全く隙が無い。
「くっ」
もう、逃げ回るしか打つ手がない。
いつか、機会が巡ってくるはずだ。この部屋に入ったとき愛桜を乗っ取れたように。
心を利用できないのなら、持ち前の素早さを駆使してどうにかするしかない。
戦えば勝てないだろうが、逃げるだけなら負けない自信がある。
ウェンディゴは全速力で部屋中を駆け巡った。
見えないほどの速さで不規則に飛び回り、海沼と愛桜に一矢報いるために攻撃も交えてみる。
しかし、攻撃は一つも効かない。
「逃げ回る気か」
そう呟いた海沼の背後に迫ると、回し蹴りをくらって吹き飛ばされた。
何とか勢いを止め、壁への衝突は避ける。勢いを止めたその一瞬、近づいてきた海沼が振り下ろした拳を避けられたのはただ運がよかっただけだ。
次に、愛桜の横から迫ってみると、思い切り突き出された拳が顔面に命中して、吹き飛ばされた。
ここでも壁への衝突は避けて、今度はすぐにスピードを上げて飛び回った。一瞬でも動きが遅くなれば、愛桜か海沼が仕留めにやってくる。
予想通り、一瞬前までいた場所に愛桜が拳を空振りした。
下手に攻撃を挟めばすぐに不利になってしまう。
だから、本当にもう、逃げ回るしか道がない。そうやって、時間を稼げばいつかはどうにかなる。
害虫のように逃げ回るウェンディゴを見て、愛桜は口を開く。
「俺はこのままだと死にます。だから、俺を助けるために誰かが扉を開けて入ってくるか、海沼さんが俺をここから出すと思っているのでしょうね」
「お前の記憶を読んだくせに、まだそのような甘い考えがあるとは。この部屋に入った時点で、奴が動き続ける限り扉が開くことはない」
海沼は呆れて、ため息を吐きながら言った。
もし愛桜が死んでも、ウェンディゴが逃げないことを確信できなければ、研究所の人は扉を開けないだろう。海沼はどうか分からないが、愛桜は死んでも構わないと伝えられているはずだ。
「このままだと俺も部屋から出ることができない。困ったものだ」
「そうは見えませんが」
全く困っていなそうな海沼の横顔。
愛桜の言う通り、海沼は冗談のつもりで思ってもいない言葉を発した。
この状況で困ることは何一つない。打開策を考えて実行するだけで、そこに余計な思い込みや感情は不要だ。
「愛桜。まだ動けるな」
「はい」
「では、最後はお前に花を持たせてやる」
そう言った海沼は、羽もないのに空中を飛び回るウェンディゴめがけて跳躍する。
しかし、ウェンディゴの方がスピードが速い。気づかれれば確実に避けられる。
「捕まえられるとでも?」
ウェンディゴは余裕ぶって避けて、自在に方向転換する。海沼はそれを追ってまた跳躍。ウェンディゴには追い付かない。
「はははははっ」
ウェンディゴは笑いながら逃げ回る。海沼は黙って跳躍し、いつまでも追い続ける。
愛桜はそれを、ただ眺めていた。
逃げることのみに徹したウェンディゴを捉えることは至難の業だ。
しかし、海沼の十二回目の跳躍で、ウェンディゴに触れそうになるほど接近した。
「なっ」
突然の接近に、ウェンディゴは上に逃げる。
が、十三回目の跳躍で海沼がそれを追い越した。
そして、空中で体を捻り、ウェンディゴを地面に蹴り落とす。
ウェンディゴに速さで劣るなら、動きを予測し、ウェンディゴより早く動き出せばいいだけのことだ。
海沼は、自分が一撃を入れやすいようにウェンディゴを誘導して動いていた。ウェンディゴはそれにまんまと嵌ったのだ。もし、速さに驕らず頭を使って逃げていれば、海沼に誘導されていることに気づいていれば、追いつかれることも一撃をくらうこともなかっただろう。
「はっ……?」
追いつかれるとは、ましてや手を届かせることは不可能だと確信していたウェンディゴは、何が起きたか分からないまま床に全身を叩きつける。
「っ!」
痛みよりも、衝撃に驚いて声が出ない。
「どうしてっ! ぐっ!」
更に驚きなのは、全く身動きが取れないことだ。
「なんだ? 動けないっ!? どうしてっ」
首を動かして、目を動かして、起こっていることを確かめる。
うつ伏せ状態で動けない。ちらりと、背中に光るものが見えて注視すると、刀が刺さっていた。動けないのは、それが床まで貫通して固定されているからだ。
すぐ側には愛桜の影が見える。
「貴様ッ」
うつ伏せの体勢で満足に見上げられないまま愛桜を睨むが、睨み返されて喉を引きつらせる。
「俺達が、逃がすわけがないだろう」
ウェンディゴは力が弱い。刀は床にしっかり刺さり、それを引き抜くほどの力はない。
「もう諦めろ」
「ふ……ふざけるなぁ‼ これを抜け! うぁあああああ‼」
ウェンディゴの叫びを浴びた愛桜は両手で耳を塞ぐ。
鼓膜が破れそうなほど凄まじい声量で、顔をしかめる。
海沼は着地したところで叫びを聞いて、不快な顔をしながら歩く。そしてウェンディゴの傍に行き、頭部を容赦なく踏んづけた。
「うるさい」
それが、決定打になった。
「ぎゃっ」
短い悲鳴を最後に、ウェンディゴはそれきり動かなくなる。
――終わった。休みたい。
そう思って、愛桜は座り込む。
「よくやった」
海沼は愛桜の傍で膝を折り、傷口を手持ちの布で押さえる。
「……刺すなら前もって言ってくださいよ」
愛桜の強がって言った声は震えていた。張り詰めていた糸が切れ、意識が遠のいてゆく。
「言ってしまえば奴にも作戦が筒抜けだろう」
「それは分かってますけど……」
「冷酷にならなければ何も殺せない。神殺しなどできん。もっとも、俺はこれを神などと信じないが」
「確かに、これを神の類とは思えませんね」
海沼と愛桜はウェンディゴを冷めた目で見た。
これのどこが神か。悪意の塊だ。
「ところで、その毒は何だったんですか?」
「さぁ、なんだろうな」
大して毒の正体を気にしていないのか、知っているのに隠したいのか分からない言い方だった。
毒によって何の影響があるのか分からないが、痛みに鈍感の愛桜が激痛だと感じるほどのものだ。痛みを与えるという意味では劇薬だ。
恐らくだが、この毒の効果は痛みだけで、人は死なない。
海沼は愛桜を殺す気がなかったのだろう。なんとなくだが、海沼に人を殺せるとは思えない。刺したことに関しても、急所を避けて刺してくれたおかげで、出血さえ抑えれば死にはしないだろう。
「やり返したいなら一度だけ、お前なら許そう」
ふと、そんなことを言われて、愛桜は意外に思う。
「あぁ、分かりますか」
「俺ならば、俺のように飄々とされていたらイラつくからな」
確かに、刺しておいてこうも悪びれもなく冷静にいられると、痛みに苦しむ身としては同じ痛みを味わってほしいと思うものだ。しかし、冷徹な海沼もそんなことを思うとは少し意外だ。
「では、お言葉に甘えて一度だけ。有用に使います。今のように」
「当然だ。俺はお前以上に貴重な戦力だからな」
どこまでも心が動かない人だ。そう思いながらも、笑みが零れる。
「分かっていますよ」
「お前ならうまくやれるだろう」
そう言った海沼が、若干笑ったような気がした。気のせいかもしれないが、海沼なりに最大の労いをしてくれていることだけは、愛桜にも分かった。




