二十四 人間か、人間ではない何かか
誰かがくれる優しさなんて、嘘ばかりだった。それでも信じて、また傷つけられる。
――ディールを食べたことがある? 私と同じ?
怖がらず目を合わせて話してくれて、近づきはしても、拒絶を感じる距離まで踏み込まなかった少年を、優しいと思った。
死んだような目をしている少年を見て、悲しいと思った。
――この人の言葉、偽りを感じない……この温かさを、信じてもいいのかな。
その想いは、一時の気の迷いだ。そうやって信じた結果、何度も裏切られてきた。
どうせまた、裏切られる。優しくするのは、単に少女のことを知らない人か、持つ力を利用したい人だ。知らないとするなら、知れば離れて行く。利用したいのなら、散々利用して捨てられる。
もう十分、分かった。誰かが優しさを向けてくることはないと。
だから、少女は少年の優しさを無理矢理振り切る。
――嘘に決まってる。共感して、甘い言葉で、騙そうとしているに決まってる。
――これまでもそうだった。何度も信じて、何度も騙されて、何度も傷ついて、何度も一人になった。
ふと、少年が目を逸らした時には、後ろめたいことがあるのだと思った。
――あぁ、やっぱり。惑わされなくてよかった。
そう思った次の瞬間、少女の視界が回転する。
突然のことで、少年が押し倒してきたのだと分かった時には、背中を地面に打っていた。押し倒して覆いかぶさっている少年を睨みつけるが、少年は少女の方を見ていない。先ほどまで立っていた場所――後方を見て、何かを気にしているようだ。
「くっ……まだいたのか」
少年の苛立ちと苦しさが混ざった声が聞こえて、少女はようやく気づく。少年の見る先いる、山鶴の存在に。
少年は、襲ってきた山鶴から守ってくれたのだ。押し倒してくれなかったら、今頃胴体を串刺しにされていただろう。
それが分かって、少女は意識を切り替える。
敵だ。明確な殺意を向けてくる敵。
まずはあいつからだ。
少女が山鶴に気づいた時、山鶴は嘴を大きく振り上げたところだった。
あれを止めなければ、と動こうとした時には嘴は振り下ろされ、地面に突き刺さる。
その瞬間、周囲に激しい揺れが発生した。
「っ!」
揺れのせいで、立ち上がることも難しくなる。立ったところでバランスを崩して膝をつく。そうしている間に、山鶴は嘴で刺し殺そうと一直線に向かってくる。
少年は戦う意思を示し短刀を構えるが、少女は刀身に軽く触れて、下ろすように促し、前に出る。
「待っ」
少年は慌てて止めようとしたが、それを言葉の圧で黙らせる。
「私は、守られるような人間じゃない」
少女は激しい揺れの中、這いつくばるように歩いて、少年が手を伸ばしても届かない位置まで移動する。
そもそも少年は怪我をしていたようで、押し倒した時に傷が開いたのか、左腕は服の上まで血が滲んでいる。
本人は気にも留めていないようだが深手のはずだ。そんな状態で、よく刀を構えたものだと感心するが、なぜか少し、苛立ちが芽生えた。
少女はその苛立ちを発散するように、向かってくる山鶴を避けて胴体にしがみつき、そして――。
喰らう。
背中のあたりから喰らいつき、肉を引き千切り、ほとんど噛まずに飲み込む。
「シャーッ!!」
山鶴は猫が威嚇する時のような声を上げ、逃れようと暴れながら嘴で少女を何度も刺すが、致命傷にはならない。少女は構わず、山鶴を喰い続ける。
喰われるうちに、威勢のいい威嚇の声は無くなり、暴れる力も弱くなっていく。弱っていくにつれ、揺れも収まっていく。
少女は、それらのことに気づかないほど無我夢中で喰い、やがて山鶴から力が抜けると、ようやくしがみついていた手を離した。
バタンッと倒れた山鶴は、もう動くことはない。
背中から喰って、硬い羽根は避けて腹まで喰った。背中は欠損し、腹からは内臓が飛び出ている。腹にある山鶴の角を噛み砕いたことで、命は尽きたようだ。
それを見下ろし、少女は立ち尽くす。
「食べ過ぎた…………」
口に付いた血を拭って溢す声は、誰にも届くことはなかった。
******
少女が山鶴を喰っている時、愛桜も、遠くから見ていた灰鳴も梗香も炎も灯も、息を呑んで、少女を止めることも声をかけることもなかった。
山鶴は死んで、少女は人間の容姿をしている。人間だとしたら、安易に攻撃できない。それに、何かすれば、何者かも分からない少女が敵意を向けてくるかもしれない。まずは静観して、次の行動を見よう。愛桜以外の四人は、そう思っていた。
愛桜は、少女が喰う姿を見て、衝撃を受けていた。
ディールの血肉なんて、ほんの少し口に含むだけで吐き気がするような、正常な人間が食べられるようなものではない。それを知っていたから、喰い続けることの異常を強く感じていた。
ディールを喰う姿はあまりにも悲痛で、どう声をかけていいのか分からなかった。
山鶴が死んで、少女はその場から動かない。
愛桜は無意識に一歩、また一歩と、ゆっくりと歩み寄っていく。
少女の姿に心を痛めて寄り添おう、慰めよう、などということは頭になかった。その姿に戸惑っただけで、何か声をかけなければ少女は壊れてしまう。そんな気がした。
少女は、近づく愛桜の足音に気づいたのかハッと愛桜の方を向く。近づいてくる愛桜を見たその顔は、先ほどまでとは比較できないほど怯えが表れていて、死人のように青ざめていた。
愛桜は思わず、
「大丈夫、なのか? そんなに食べて」
と疑問に思ったことがそのまま声に出た。
少女の顔に怯んで声が出たような、不思議な感覚がした。
ヒビが入り、今にも割れて崩れ落ちそうな鏡を、治し方も知らないくせに崩れてはいけないという衝動に任せて手で押さえるような、そんな感覚だ。
「え?」
少女から零れる声は、信じられないものでも聞いたかのように疑念をはらんでいた。
「平気か?」
愛桜は、鏡を手で押さえるような単純なことしかできないように、言葉も単純なものしか出てこない。接着剤の存在を知っていれば、鏡が崩れ落ちることはない。愛桜も、接着剤のような、少女が壊れるのを防げるような言葉を持っていればよかったのだが、そんなものは思いつかない。
「私……私は、大丈夫……」
たどたどしく答える少女の瞳は潤んでいる。
「そうは見えないけど」
他にもかける言葉はいくらでもある気がするが、愛桜には思ったことしか言えない。
「だい、じょうぶ」
自分に言い聞かせるように言った少女。
必死に、涙が溢れないように唇を噛んでいる。
それは、自分は大丈夫だと思いたいだけのようで、
「…………っ」
少女の頬を、涙が伝った。
「大丈夫なわけ……」
少女は、一度溢れてしまった涙は止められなくて、両手で拭いながら膝をつく。
「あなた、おかしいよ。今まで、こんな姿見て、大丈夫かなんて心配する人、いなかった。みんな怖がって離れて行って、私の想いなんて、誰も聞いてくれなくて、知らない振りして、見ない振りして!」
張り詰めて糸が切れたように泣き叫び、崩れる少女。
愛桜はついにかける言葉を失い、手を伸ばす。
(こういう時、俺じゃなければ、この子の涙を止められたのかな……)
そう思いながら手を伸ばしかけ――、
固まる。
少女の肌に、白いものが出てきたのだ。
その変化は、始まってしまえばあっという間に少女を別の存在へと変えていく。
はじめは分からなかったが、白いものの正体は、羽根だ。少女の皮膚から白い羽根が生えて、体のほとんどを覆いつくしていく。その羽根はまるで、山鶴が纏う羽根に似ていて、少女の全身に付着している山鶴の返り血に染まり、まだらに赤が浮かび上がっていく。
愛桜が目を見張っていると、
「こんなの、気持ち悪いでしょ」
少女は、全てを諦めたような目で、無気力にそう言った。
******
少女は、これを見た人がどう思うのかよく知っている。
他人が気持ち悪いと思わないはずがない。家族でさえも、おぞましいものを見るような目を向けてきた。何より、自分を消したくなるほど自分のことが気持ち悪い。
優しくしてくれる人はいない。温かく接してくれる人はいない。話を聞いてくれる人もいない。
だから、誰かから放たれる言葉に、期待なんてしていない。どうせ、離れて行く。目の前の少年も、きっとそうだ。
――そう、思っていた。
しかし、少年は、
「気持ち悪いと言うのは、君を見ようとしない人たちだけだ。君が、誰かのために頑張っていることに気づけなかった人が多いだけだよ。君の優しさに気づけない人たちだった。それだけだ」
態度を変えずにそう言った。
過剰に心配するわけでもなく、慰めるわけでもない。近づこうともしない。
しかし、逃げなかった。声も荒げなかった。嫌悪を向けるわけでもなかった。
ディールを喰っても、そのせいで体が変化しても、何も変わらずにここにいる。それが、少女にとっては、出会ったどの人間より温かく思えた。
「俺は今、君を見てる。君の近くに行ってもいいか? 近づけば、君の心に気づける」
「あなたは、近づいてくれるの? こんな、人じゃない私に」
少年の目を見ると、少年はこちらに触れられる距離まで近づいて、そっと、羽根の生えた頬を撫でようとした。
しかし、少女はその手から逃れるように顔を背ける。
「君が、言ったんだ。人間だと。君が自分で言ったんだ。だから俺は、君の姿が変わろうと関係ない。姿が変わっても、君は、ここにいるだろ?」
真っ直ぐに少女を見て言った少年。
確かに人間だと訴えたが、それを信じてくれる人なんて少女は会ったことがない。
家族にも人ではない何かを見るような目を向けられて、いつしか少女も自分を信じられなくなっていた。
人間でありたい願望はあるが、本当に人間なのか、自分でもよく分からない。
「私は、私のまま。心は変わらない。けどね、いつ変わるかなんて分からない」
ディールを喰う限り、その力を得る限り、いつか心までディールに支配されるかもしれない。だから、人間だと言ってくれるこの少年の手を触れさせることはできない。
「いつかの事なんて誰にも分からない。今ここにいるのは、過去でも未来でもなく、今の君だろ?」
「っ……!」
少年のその言葉で、少女の何かが、ふっ、と緩んだ気がした。
そして、強がりも意地も、今は消えた気がした。
いつか人を喰う事を恐れて、いつか喰われることを恐れて、いつか暴れ出すのではないかと恐れて、誰もが少女に恐怖を抱いた。
少女は、いつかの自分のことを想像して、いつか人でなくなることを想像して、自分自身が怖くなった。
しかし――、
この人は私を見てくれる。
それだけで、今の自分は人なのだと思えた気がする。
「あれ、もしかしてタイムトラベラーだったりする?」
冗談なのだろう。
少年はお互いの沈黙に耐えられなかったのか、突然、場違いにもそんなことを言った。とてもぎこちない言い方で、慣れないことを言ったのだとすぐに分かり、それがなんだか可愛らしく思えて、思わず笑ってしまう。
「……ふ。ふふふっ」
少女は、自然と出た笑いに、相当気が緩んでいるのだと気づく。こんな感覚は久々だ。
笑っていると、少年は再び手を伸ばしてきた。
「君が、逃げないなら。君が、近づいていいと言うなら」
今度は、逃げない。
少女は、意志を固める。
人だと思わせてくれたこの人から逃げない、と。
「俺は、君に触れたい」
そして少女は、恐る恐る、頬に伸ばされた手に触れた。
******
変化して、山鶴に近くなった容貌。
山鶴が死に、愛桜は少女に手を伸ばし、少女も愛桜に触れようとした。
あの理性を無くしたような喰い荒らし方を見て、ぞっとしないはずがない。大切な仲間を傷つけるかもしれないのなら、その前に止めなければ。
大切な人に伸ばされた手が悪魔の優しい手だったとしても、害になり得るものは断ち切る。
これ以上近づくのは危険だと判断した梗香は、咄嗟に杭を投げた。炎は日本刀に手をかけて愛桜の元へ向かい、灯は弓を構える。
しかし、いち早く届いた攻撃、少女に刺さろうとしていた梗香の杭は、少女に届く直前で止まる。
愛桜が、飛んでくる杭を手で掴んで止めたのだ。
そして愛桜は、空気が凍るような怒気を纏いながら、動いた三人を目で制止した。
「お前ら、何してる?」
冷え切った目に、冷え切った声。
「だから、俺は人間が嫌いだ」
その目に一瞬宿った悲しみは、冷え切った心にかき消される。
「どうして人はこうも、傷つける選択を良しとするんだろう……」
誰かを守るために、人は人を傷つける。大切なものを守るためなら、与えた傷は正当化してしまう。悪意のない傷が、どれほど人を追い詰めるのかも考えようともせずに。
せめて少し待ってくれれば、思い留まってくれれば、それでよかったのに。
ディールが相手なら一瞬が命取りになることは、誰よりもよく分かっている。少しでも迷いがあればその隙をついて殺される。そんな生活をしているから、仲間の判断は正しのだろう。
しかし。
少しでも見て欲しかった。気づいて欲しかった。
この少女が、怯えて、苦しそうで、すでにたくさん傷ついていることに。
仲間が、愛桜を守ろうとしてくれたのは分かる。
しかし、信じてくれているなら、もう少しだけ待っていて欲しかった。
「ちゃんと、見て欲しかったな……」
こんなにも、悲痛な姿の少女を。
泣いている少女の顔を見ようとせず、傷つけようとした仲間達。
そんな仲間達でも、痛みを分かってくれることを少し期待してしまっていた。しかし、どこまでいっても、人間なんだと思い知らされた。勝手に抱いていた期待は馬鹿らしく思えて、愛桜の心は冷めていく。
「ありがと。さよなら」
少女は、ここにいない方がいいと判断して、それだけ言い残して急いで走り去る。
愛桜は、その震えた声を聞いて、心に棘が刺さったような罪悪感を得た。だから、最後の少女の顔は見られなかった。
少女も、振り返りはしない。
梗香と炎は、少女を追おうと動く。
しかし、一歩踏み出したところで、それを阻止するように、足元に短刀が飛んできた。
「愛桜……」
炎は、短刀を投げてきた人物の名を、静かに呼んだ。
炎に呼ばれた愛桜は、目を逸らす。
――あぁ、これは駄目だ。
味方に刃を向けることは、あってはならない。命がけで戦って、時には背中を預けてきた相手に、これは駄目だ。もう、一緒に戦えない。
分かっていて、やめられなかった。
どうしようもなく、腹が立っていた。
少女に向けられた刃は、自分に向けられるものだと思えて、悲しくて。
どうしてみんな、見てくれない?
どうしてみんな、分かってくれない?
どうしてみんな、話を聞いてくれない?
どうして、みんな、そんな目で見る――。
『これが、人の本性だろう。仲間だけは違うとでも思っていたのか? だとしたらとんだ愚か者だ』
「なぁ、ウェンディゴ。お前の声が随分久しく感じるよ。お前は、俺の事を分かっているはずだ。だからこれ以上何も言うな」
愛桜には、人の本性の行きつく場所は分かっていた。
でも、仲間たちは違うと思いたかった。そうでないと、一緒になんてやって来られなかった。
愛桜と、炎、梗香、灯、灰鳴は膠着する。
お互いに戸惑い、何もできなくなって、衝動的な行動ではあったが愛桜の狙い通り、少女を追う者は一人もいない。




