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降下

ミヤは午後二時にハリスの深層航路駅に到着した。


オルタからハリスへの航海は五日間だった。タチバナと別れてからミヤは観測の通常業務に戻らずに直接ハリスへ向かった。深層航路の公式ルートを使う必要があったからだ。


タチバナが見せた書物の三角形四つの印がミヤの頭から離れない。父のノートの記号と同じ印だった。それを追うには海上の観測艇では足りない。深海ステーションに降りる必要があった。


行き先は〈シエラ・ディープ〉だった。


シエラ・ディープは中央太平洋の深海ステーションだ。ハリスの真下ではなく、ハリスから南東に四百海里離れた位置にある。〈シズク〉を海上で運行するなら、二日かかる距離だ。しかし、深層航路の潜航艇を使えば、四時間半で到達できる。


ミヤは深層航路駅の入口に立っていた。


駅は管理庁の建物の地下にある。五月二十五日にミヤが報告に行った、ハリス中央の白い建物だ。その地下に深海への入口があった。


入口の前に管理庁の警備員が二人立っていた。


ミヤは観測員の身分証を差し出し、続いて深層航路の利用申請書類を提示した。書類には行き先の〈シエラ・ディープ〉と、利用目的の「観測業務」、それに利用者の名前と所属が書き込まれている。


警備員はゆっくりと書類を読んだ。


ミヤを見上げ、もう一度書類を見る。観測員の身分証を確認し、ミヤの観測ノートの存在も確かめた。鞄の中身を見ようとはしなかったが外から触れて、固い物が入っているのを確認した。


警備員の視線が長く感じられた。


書類の読み取りにこんなに時間がかかった経験はミヤには初めてだ。過去にも何度か深層航路を使ったことはあったが書類は短時間で処理された。


ミヤは何も言わなかった。質問されない限り、観測員は黙って待つのが規則だ。


警備員はようやく書類を返した。


「通過できます」


警備員が短く言った。


ミヤは書類を受け取り、駅の中に入った。


入口を通った瞬間、後ろで警備員の足音が動くのを聞いた。誰かに合図を送っているような動きだ。ミヤは振り返らなかった。


---


駅の奥に潜航艇の搭乗口があった。


潜航艇は〈深層便〉と呼ばれていた。旧文明時代の潜航艇を改造したもので客席は二十人乗りだった。海上と深海を結ぶ唯一の公式ルートだ。


ミヤは搭乗した。


客席は中央に通路があり、両側に十席ずつ並んでいる。座席は古いがよく整備されている。ミヤは中ほどの席を選び、シートベルトを締めた。


客席の中を見渡した。


同乗者は十二人いた。ハリスから〈シエラ・ディープ〉への定期便は毎日二便しか出ない。今便はちょうど中程度の混み具合だ。


同乗者の顔をミヤは観察した。


商人らしい中年の男が三人いる。ステーションへの物資輸送の業者だ。研究者らしい若い女が一人、記録ノートを抱えている。作業服を着た若い男が四人、ステーションの修繕業者らしい。


それから特に肩書きの推測できない男が四人いる。普通の服を着ているが何かが普通ではない。


ミヤは四人をもう一度見た。


四人は全員同じように背筋が伸び、足の置き方、肩の角度が揃っていた。職業的に身体を訓練された者の姿勢だ。


軍人か、警備員か。


ミヤは四人と目を合わせなかった。気づかれていないふりをした。


午後二時三十分、潜航艇のドアが閉まった。


オペレーターの声が客席のスピーカーから流れた。


「ご搭乗ありがとうございます」


「これより〈シエラ・ディープ〉へ向かいます」


「到着予定時刻は十八時三十分です」


「シートベルトの着用をお願いします」


機械的な放送だった。


潜航艇が動き始めた。船体がわずかに上下に揺れる。水中に降りていく動きだ。


最初の数分間はほとんど揺れがない。海面近くの水は潜航艇を大きく揺らさない。


しかし、十分ほど経つと水圧の変化が始まった。


ミヤの耳の奥に最初の詰まりを感じた。深層航路の経験者なら誰もが知る感覚だ。水圧の上昇が中耳に押し寄せる。ミヤは唾を飲み込み、耳の中の圧力を調整した。


外の景色は窓越しに見えた。


窓は座席の横の壁に小さく一つずつ付いている。ミヤの席の窓からは海面下の青い水が見えた。表層の青、薄く緑が混じった色だ。光がまだ十分に届いている。


水深の数値が客席の前方の小さな表示板に表示されている。百メートル、二百メートルと水深が増えるたびに窓の外の色が深くなっていった。


---


午後三時三十分、水深一千メートルになった。


窓の外の色が深い藍色に変わっていた。光は薄く、海面の太陽光がほとんど届かない深さだ。窓の外で動くものはない。一千メートルの水深には特定の深海生物が住んでいるはずだが潜航艇の窓からは見えなかった。


ミヤは窓を見続けた。


潜航艇は一定の速度で降下していた。揺れはほとんどない。機関の唸りだけが客席の床から伝わってくる。低く、安定した振動だ。


午後四時、水深が二千メートルに達した。


窓の外はほとんど暗闇だった。


ミヤは目を凝らした。何も見えない。窓のガラスは透明だが外の海水が光を吸収している。光がない世界だ。


ミヤは目を逸らし、客席の内部を見た。


内部の照明はついたままだ。蛍光灯のような白い光が天井から降っている。同乗者の顔がはっきりと見えた。


特に普通ではない四人の姿勢は変わっていなかった。


ミヤはその四人のうち一人と視線が一瞬合った。


男はすぐに目を逸らした。


ミヤも目を逸らした。


しばらくして、もう一度その四人を見た。一人は腕時計を見ている。別の一人は客席の前方を見ている。残りの二人は目を閉じていた。


四人の動きはいつもの乗客の動きとは違った。普通の乗客はもっとリラックスしている。本を読んだり、持参の食べ物を食べたり、会話を始めたりする。あの四人は誰一人として、そういう動きをしていなかった。


待機している、とミヤは判断した。


何を待っているのかはわからなかった。誰かを監視しているのか、何かの命令を待っているのか。


ミヤは窓に視線を戻した。


窓のガラスにミヤの顔が映っていた。


暗闇を背景にした、自分の顔だった。海上で十年暮らしてきた皮膚と塩で擦れた頬と海風で乾いた唇がガラスに浮かぶ。観測員の顔だ。


ミヤは自分の顔をしばらく見た。


最近、自分の顔をゆっくり見たことはなかった。〈シズク〉に鏡はない。ハリスでもオルタでも宿に泊まる時には鏡を見たがそれも短時間だ。


窓のガラスに映った顔はミヤが知っている顔だった。しかし、何かが少し違う。目の奥に何かが浮かんでいる。


それが何なのか、ミヤは特定できなかった。


午後五時、水深が三千メートルに達した。


機関の唸りがわずかに変わった。


---


機関の唸りが低くなっていた。


正確には唸りの周波数がわずかに低い方向へ移っていた。深海の水圧が潜航艇の機関の振動を変化させているらしい。深層航路を頻繁に使う者には水深による機関音の変化が感覚的にわかるという。ミヤは初めてはっきりとその変化を感じていた。


ミヤは耳を澄ました。


機関音以外の音はほとんどない。同乗者の呼吸音さえ、聞き取れないほどだ。


商人の三人は目を閉じて眠っている。研究者の若い女はノートに何かを書き続けている。作業服の四人は低い声で話しながら装備の点検をしている。


そして、特に普通ではない四人は依然として待機している。


ミヤは自分の呼吸を意識的に整えた。


水深三千メートルでの空気は地上の空気と組成は同じだが感触が違う。潜航艇の中は与圧された空気で満たされている。水深に応じて、客室の気圧も少しずつ上昇していった。


呼吸の感覚がわずかに重かった。


ミヤは目を閉じてみた。


しかし、眠れなかった。


四人の存在が意識から外れない。彼らがミヤを監視しているのか、別の誰かを監視しているのかはわからなかった。しかし、彼らの存在が客席の空気を変えている。


ミヤは目を開けた。


窓を見た。外は変わらず暗い。窓のガラスに映る自分の顔も変わらずそこにある。


ミヤは深く息を吐いた。


息は重い。胸の動きが地上で吐く息よりわずかに窮屈に感じる。


水深四千メートルに近づいていた。


機関の唸りがまた変わった。今度はわずかに高い方向だ。降下の最終段階に入っているのが振動でわかる。


午後六時、水深が四千メートルになり、〈シエラ・ディープ〉の深度に到達していた。


潜航艇の動きが降下から水平移動に変わる。〈シエラ・ディープ〉のドッキング口まで水平に進む段階だ。


機関の唸りが再び低くなり、外の景色に何かが見え始める。

ステーションの外壁の輪郭だ。


ミヤは窓に顔を近づけた。


ステーションの外壁は潜航艇のサーチライトに照らされている。古い金属の壁、深海の水圧に何百年も耐えてきた構造だ。表面にはわずかな傷と深海生物が付着した跡がある。


潜航艇はステーションのドッキング口に近づいていった。


---


午後六時三十分、潜航艇は〈シエラ・ディープ〉にドッキングした。


接続の振動が客席に伝わってくる。金属同士が触れ合う音が響き、続いて密閉の音が重なる。潜航艇とステーションの空気がゆっくりと均衡し始めた。


オペレーターの声が再び流れた。


「〈シエラ・ディープ〉に到着しました」


「降車口は前方です」


「ステーション内の規則に従ってください」


「ご搭乗ありがとうございました」


潜航艇のドアが開いた。


ステーションの空気が客席に流れ込んでくる。湿気を含んだ空気だ。潜航艇の与圧された空気とは感触がはっきりと違う。深海の閉鎖空間特有の、わずかに金属臭を含んだ湿気だ。


同乗者が順に立ち上がり、降車口に向かった。


商人の三人が先に降りた。次に研究者の若い女、それから作業服の四人が続いた。


ミヤは少し時間を置いてから立ち上がった。


特に普通ではない四人はミヤの後に立ち上がった。


ミヤは降車口を通り、潜航艇からステーションの降車場に降りた。降車場は広く、人々が散らばっている。〈シエラ・ディープ〉に到着した者とこれからハリスへ向かう者が入り混じっていた。


ミヤは目的の方角を確認した。


観測員の事前申請では〈シエラ・ディープ〉の中層に行くことになっていた。中層には観測員向けの宿泊施設と簡易な観測機器があるらしい。ミヤは中層への通路を探した。


通路の案内標識を見つけ、その方向へ歩き始めた。


降車場を離れると人々の数が急に減った。


通路は薄暗い。〈ハリス・ディープ〉のような大きな深海ステーションと比べると〈シエラ・ディープ〉は規模が小さい。照明も少ない。


ミヤは通路を歩いた。


足音だけが響く。同乗者たちはそれぞれが別の方向へ散らばっていた。後ろからの足音はしばらくしてから聞こえなくなった。


特に普通ではない四人がミヤを追ってきたかどうかはわからなかった。


通路の角を曲がった。


廊下が長く続いていた。


両側の壁は古い金属で塗装が剥がれた箇所が多い。床も古く、所々に小さな染みがある。〈シエラ・ディープ〉の中層は新しい区画と古い区画が混在しているらしい。ミヤが歩いているのは古い区画の方だ。


ミヤは廊下を進んだ。


廊下の奥に人影が見えた気がした。


ミヤは足を止めた。


廊下の奥は薄暗い。人影らしきものはすぐに消えた。気のせいだったのか、本当に誰かがいたのかは確認できなかった。


ミヤは廊下をゆっくりと奥に向かって進んだ。何もいない。しかし、何かがある気がした。


もう一人、誰かがいた。

廊下の奥に人影が見えた気がした。

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