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流れる者

レイは午後十一時に深層航路の密航ルートの入口に到達した。


入口は〈ハリス・ディープ〉の最下層の廃棄区画にある。元は機関制御室だった部屋を密航者たちが何代もかけて改造したものだ。公式の深層航路は管理庁が独占しているが旧文明時代の遺物を改造した密航ルートが太平洋の深部に何本も走っている。それを使う者はステーションの規則の外で生きる者たちになる。


レイは規則の外で生きていた。


入口の前でレイは立ち止まった。


壁の継ぎ目に薄く塗装された数字が見える。「7」と読めた。密航ルートの番号だ。レイは過去に何度かこのルートを使っていた。〈ハリス・ディープ〉から〈シエラ・ディープ〉まで二日半の徒歩距離になる。


レイの背の高さほどの小さな袋に保存食と水、それに古い陶器の茶碗が入っていた。エンの形見だった。


茶碗は割れる可能性があるがそれでもレイは持ち歩いていた。残せば、誰かに見つかる。誰かに見つかれば、エンの存在を知られる。エンの存在が知られれば、エンが今どこにいるのかを誰かが調べ始める。それを避けるためにレイはエンの形見を自分の身近にだけ置いていた。


レイは入口の鉄板の扉を押し開けた。


中は廃棄された装置で満ちていた。


部屋の中央に与圧服が一着掛けられている。密航者用の備えだ。深層航路の中は与圧されていない区画もあり、与圧服がなければ通れない場所が複数ある。


レイは与圧服を着た。


服は重い。金属と合成繊維で出来ていて、レイの体重とほぼ同じ重さがある。腕を通し、足を入れ、ヘルメットを被った。装着の手順は決まっている。レイは過去に何度も装着してきた。


ヘルメットの視界は狭かった。前方百二十度しか見えなかった。横と後ろは首ごと動かさないと見えない。


レイはヘルメットの内側で深呼吸をした。


与圧服の中の空気は再生空気だった。〈ハリス・ディープ〉の空気よりさらに乾いていて、化学的な匂いが微かにした。


レイは入口の更に奥にある、密航ルートのロックを解除した。


ロックは旧文明の電子錠だ。動作の手順はエンに教わっていた。エンは密航ルートの存在をレイがまだ少年の頃に教えてくれた。理由はレイが知らない。エンが消えた今、レイはそれを使っている。


ロックが開いた。


トンネルの暗闇がレイの前に広がっていた。


---


レイはトンネルに入った。


トンネルの内部は薄暗い。一定の間隔で壁に小さな照明が埋め込まれている。旧文明製の照明だ。光量は最低限で足元と次の照明までの数メートルが見える程度になる。


レイは入口の鉄板の扉を内側から閉めた。


ロックがかかった。後ろの空間とレイのいる空間が完全に分離された。


レイは前を向き、歩き始めた。


ヘルメット越しの自分の呼吸音がすぐに耳に響いた。レイは深呼吸をして、呼吸のリズムを整えた。長時間の徒歩で呼吸が荒くなれば、与圧服の酸素再生が追いつかなくなる。呼吸は最初から最後まで一定のリズムで保つ必要があった。


歩調も一定にした。


レイは過去の経験から自分の最適な歩調を知っている。一秒あたり一歩を刻む。一時間に約四キロメートル進む計算になる。〈シエラ・ディープ〉までは休憩を含めて約二日半の行程だ。


トンネルの周囲は湿気で満ちていた。


ヘルメット越しでも湿気の感触は感じられる。視界の端、ヘルメットの内側のガラスにわずかに水滴が浮き始めている。レイは手で軽く拭った。


機械の唸りが遠くから聞こえていた。


トンネルの構造を維持する機械、与圧を保つポンプ、それらが旧文明時代から動き続けていた。何百年も止まらずに動いている。誰がメンテナンスをしているのか、レイは知らなかった。管理庁の管轄外のはずだった。


トンネルの形状はまっすぐではなかった。光の薄いトンネルを一定の歩調で緩やかな曲線を描いて深部に向かって下っていた。


時々、トンネルが分岐していた。


分岐点には旧文明の文字で行き先が刻まれている。レイは読めない。しかし、過去の経験からどの分岐がどこに通じているかを覚えている。今回は〈シエラ・ディープ〉方面の分岐を選んだ。


分岐点を過ぎるとトンネルは細くなった。両側の壁がレイの両肩のすぐ横にある。与圧服を着たレイにはわずかに窮屈な道幅になる。


レイは姿勢を変えずに歩き続けた。


呼吸のリズムと足音のリズムがトンネルの中で重なる。それ以外の音はほとんどない。機械の唸りもトンネルの奥に進むにつれて、小さくなっていた。


しばらくして、足音だけになった。


自分の足音だけがヘルメットの内側に響いていた。


時間の経過がわかりにくい。トンネルの中に時計はない。レイは腕時計をヘルメットの外側に着けていたが内側からは見えない。歩いた歩数を数えれば、おおよその時間と距離が推定できた。


レイは歩数を数え始めた。一歩、二歩、三歩と進んだ。


---


千歩を数えた頃、レイは後方に何かを感じた。


足を止めずに感覚を後ろに向けた。


何かがトンネルの奥から近づいていた。


レイは耳を澄ました。物理的な音はまだ聞こえない。ヘルメット越しの自分の呼吸音と自分の足音だけになる。しかし、共鳴感知の能力で後方の空間に「何か」がいることがわかった。


人だった。


一人ではなかった。複数の人だった。


レイは歩調を変えなかった。気づいたことを相手に知らせない方が安全だった。


しばらくして、後方の音が物理的にも聞こえ始めた。


最初は微かな擦れる音だ。布が壁に擦れる音、と、レイは推測した。布の質感をレイは知っている。管理庁の制服は特定の合成繊維で出来ていて、壁に擦れると特有の音がする。


管理庁の警備員だ、とレイは内側で確認した。


しばらく歩いてから別の方向からも「何か」を感じた。


レイの進行方向の少し横、トンネルの分岐から枝分かれした別のルートが走る。そこから別の集団が近づいていた。


足音の質が管理庁の警備員とは違っていた。靴底の音が硬く、足の置き方が儀式的だった。


封印派の修道戦士だ、とレイは判断した。


封印派の戦士は修道院で訓練を受けた者たちだ。歩き方に独特のリズムがあり、靴底に金属の補強が入っていた。


二方向から追跡されていた。


レイは歩調を変えなかった。まだ相手はレイの存在を確定できていない。気づかれていないふりを続ければ、別の道に逸れることができた。


さらにしばらくして、もう一つの「何か」を感じた。


レイの上方、トンネルの上の階層からだった。


足音は速い。管理庁とも封印派とも違う、より身軽な動きだ。靴底は柔らかく、足音をできるだけ消そうとしている。しかし、レイの共鳴感知には十分に伝わっていた。


解放派の追跡者だった。


解放派は最近、組織を急拡大していた。若い活動家を集めて、独自の追跡網を構築している。レイは過去に一度解放派の追跡を受けたことがあった。


三方向から追跡されていた。


レイは初めて歩調を少し変えた。


加速はしなかった。加速すれば、追跡者に気づかれていることが伝わる。代わりにわずかに歩幅を変えた。トンネルの石畳の継ぎ目を踏むタイミングをずらした。継ぎ目を踏む音はわずかに違う響きを生む。追跡者がレイの位置を音で特定する場合、ずらした歩幅でわずかに位置情報を混乱させることができた。


レイは次の分岐を見据えた。


---


分岐の前でレイは正規ルートを離れた。


トンネルの天井近くに廃棄された通気孔がある。元は与圧の調整用に使われていたものらしい。今は機能していない。レイは過去にこの通気孔を一度使ったことがあった。


レイは通気孔の蓋を両手で持ち上げた。


通気孔は与圧されていなかった。


外気との圧力差で蓋を開けた瞬間、与圧服の周りで空気が動いた。レイのヘルメットの中にわずかに痛みが走る。耳の奥が内側から押される感覚が広がる。与圧の急変による身体反応だ。


レイは深く息を吐いて、耳の痛みを耐えた。


通気孔の中に頭から入った。


通気孔は狭い。レイの体がぎりぎり通る幅だ。与圧服を着たままでは両肘を曲げて、横向きに進むしかない。


レイは横向きで進んだ。


通気孔の中は完全に暗い。照明はない。レイのヘルメットの内側にも照明はついていない。視覚に頼れない。


手探りで進んだ。


通気孔は直線ではなく、何度か方向を変えている。レイは記憶を頼りに次の方向を選んだ。一度この通気孔を通った経験がまだレイの体に残っていた。


しばらく進むと通気孔は別の小さな空間に通じていた。


廃棄された与圧調整室だ。


レイは部屋に降りる。部屋の高さはレイの背の半分くらいしかなく、姿勢を低くして部屋に入る。


部屋の壁に別の通気孔が複数の方向に枝分かれしていた。


レイは耳を澄ました。


追跡者の気配はまだ感じる。しかし、距離は離れていた。管理庁の警備員は正規ルートを進み続けていた。レイが通気孔に入ったことにまだ気づいていない。


封印派の修道戦士は分岐点で立ち止まっている。レイの足音が消えたことに気づいた様子だ。しかし、分岐の先まで進む確信を持てずに迷っていた。


解放派の追跡者は上方の階層を進んでいた。レイがどこに行ったかをまだ把握していなかった。


レイは別の通気孔を選んだ。


その通気孔は〈シエラ・ディープ〉方向ではなく、迂回路に通じていた。〈シエラ・ディープ〉までの距離は伸びるが追跡者を撒くには適していた。


レイは通気孔に入った。


しばらく進むと与圧の急変がもう一度起きた。今度は与圧された空間に戻る方向だ。耳の中で内側から押される感覚がまた走る。


レイは耐えた。


通気孔の出口に辿り着き、別のトンネルに降りた。このトンネルは正規ルートではない。古い、ほとんど使われていない密航ルートだ。


レイは歩調を変えた。


今度は早足だ。追跡者の気配はほとんど消えている。三方向の追跡者はそれぞれが別の方向に向かって、レイを探し続けていた。レイの実際の位置から徐々に遠ざかっていく。


午前二時、レイは安全な距離に達した。


レイは一度立ち止まり、深呼吸をした。


ヘルメットのガラスに水滴がさらに浮いていた。レイは手で拭った。


---


午前三時、レイは安全圏に達した。


迂回路は最初の正規ルートよりも長い。〈シエラ・ディープ〉までの距離が約半日分伸びている。それでも追跡者を完全に撒くことができていた。


レイは少し離れた場所にある、廃棄された休憩所に入った。


休憩所は密航者用の小さな空間だった。古い椅子が一つと与圧された空気が確保された区画だった。レイはヘルメットを脱いだ。


トンネルの空気を初めて直接吸い込んだ。


湿気と機械油の匂いがした。〈ハリス・ディープ〉の下層と似た匂いだった。レイは座り、保存食を一口含んだ。袋から取り出した小さな干し肉だった。味は塩辛く、噛むのに時間がかかった。


レイは目を閉じた。


休憩所の中に追跡者の気配はない。三方向の追跡者は今、レイから離れた場所にいる。それぞれが別の方向でレイを探し続けていた。レイの位置に来るにはまだ時間がかかる。


レイは耳を澄ました。


普段の意味での音はほとんどなかった。トンネルの遠くで動く機械の唸り、湿気を運ぶ空気の微かな流れ。それ以外は静かだった。


しかし、共鳴感知では別の何かを感じた。


追跡者ではなかった。


遠く、しかし鮮明な「気配」だった。


レイは集中した。


その気配は北東の方向からだ。距離は遠い。〈シエラ・ディープ〉よりさらに遠い場所からのようだった。


しかし、気配の質が追跡者とは違っていた。


追跡者はレイを探す意思で動いていた。意思の方向性が追跡者の気配の中にあった。


今感じている気配は違う。意思はない。何かを観測しようとする、静かな集中の質感が伝わる。


その気配をレイは過去に感じたことがあった。


子供の頃、エンと一緒にいた頃、似た気配を遠くから感じたことが何度かある。エンに尋ねたら、エンは「同じ種類の人だ」と短く答えた。共鳴者同士は互いを遠隔的に感じることができる、とエンは説明していた。


レイは久しぶりにその種類の気配を強く感じていた。


過去に感じた気配はもっと弱かった。何キロも先、数十キロも先からの微かな波だった。今の気配はもっと近い。同じ太平洋の中、数日の航行距離以内にいる気がした。


そして、女性だった。


共鳴者同士は性別の区別もできた。気配の質にその人の人格が滲み出ていた。


観測する女であるとレイは思った。


なぜそう思ったかはわからない。気配の中に観測の意思の質感がある。何かを見て、何かを記録しようとする、静かで持続的な集中の気配が女性の人格と共に伝わってきた。


レイは目を開けた。


休憩所の壁を見た。何も書かれていない、古い金属の壁だった。


レイは少し休んでからまた与圧服のヘルメットを被った。


休憩を終え、〈シエラ・ディープ〉に向かって、トンネルを歩き始めた。


迂回路を進む間、レイは時々、北東の気配に意識を向けた。気配は変わらず、そこにあった。


もう一人、近い。


しかし、まだ遠い。

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