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書庫の埃

ハリスを出てから五日が経った。


ミヤは〈シズク〉の舵を握り、北西に向かって航行を続けていた。ハリスから西部の海上都市〈オルタ〉まで〈シズク〉の最大速度で約五日の距離だった。


途中で観測を行わない。今回の航海は観測のためではない。観測員としての通常の業務を一旦離れて、別の目的でオルタに向かっていた。


ハリスを出る時、霧は濃い。霧が完全に切れたのはハリスから西へ二日航行した後だった。霧が切れると海の色が次第に変わっていく。北太平洋の海は北西に進むほど青が深くなっていく。海面の色も深い藍色からほぼ黒に近い色へ移っていく。


ミヤは舵を握りながら海の色の変化を見ていた。


オルタは旧アジア大陸沿岸の海上都市だ。北部の旧大陸の縁に近い場所にある。学問の街と呼ばれている。読み師連の本拠地だ。


旧文明の記録を解読する集団が長く拠点を構えてきた街だった。


ミヤは過去にオルタを一度だけ訪れたことがある。観測員として独り立ちして数年目、漂泊団の老人に勧められて訪ねた。その時、ミヤは特に目的を持っていない。読み師連の人々と短く会話し、街を一日歩いて帰った。


今回は目的があった。


五月二十五日にハリスの管理庁で正式報告が拒絶された。波音号への報告は「処理しておく」で済まされている。観測員ネットワークではフキとの非公式情報共有しかできない。


ミヤが知りたかったのは過去の記録だ。沈黙海域の境界が今のような加速度的拡張を過去にも見せたことがあるのか。それは父のノートにはない。父は二十年間の観測で似たパターンを記録していない。


しかし、父の二十年より前の記録があるはずだ。旧文明の時代から海洋の観測は続けられてきた。その膨大な記録は読み師連が保管していると漂泊団の老人から聞いていた。


六月三日の朝オルタの輪郭が水平線に見えてきた。


古い建築の塔の連なりだ。塔は四つあり、それぞれが異なる高さで立っている。最も高い塔は二十階建ての旧文明の図書館を改造したものだ。読み師連の本部があるのはその塔になる。


ミヤは港に近づいた。


港は静かだ。〈ハリス〉のような商業地ではない。学者と研究者の街だ。船の往来は少なく、街の音も少ない。


ミヤは桟橋に〈シズク〉を着岸させた。


塩で固まった髪を両手で解く。五日間の航海でミヤの髪は塩で硬くなっていた。指で梳くと白い粉が落ちる。海上で長く暮らした観測員にはよくある髪の状態だ。


ミヤは観測ノートのオリジナルを抱え、〈シズク〉を降りた。


オルタの街に足を踏み入れた。


---


オルタの街路はハリスとは違う作りだった。


浮島ではなく、旧大陸の地盤の上に立っている。旧アジア大陸の縁の、わずかに残った陸地が足下を支える。地上が沈下した時代以前から残っていた土地らしい。街路は石畳で両側に古い建物が並ぶ。建物の多くは三階建てか四階建てで煉瓦と石で造られている。


人々の歩き方がハリスとは違っていた。


ハリスの人々は急いでいた。商業地特有の速い足取り。オルタの人々はゆっくり歩いていた。誰もが何かを考えているような、思考の最中の足取りだった。


ミヤは街路を進んだ。観測員の自分はこの街では場違いだった。観測ノートを抱えて歩く姿は街の景色に溶け込まなかった。


しかし、誰もミヤを見なかった。


オルタの人々は互いに干渉しない習慣を持っているらしかった。それぞれが自分の思考の中にいて、他人の存在に関心を持たない。学問の街の習慣だった。


読み師連の本部は街の中央の最も高い塔だった。


塔は二十階建てだ。下から見上げると頂上が雲に届きそうに見える。塔の表面は古い石で覆われていて、長い年月の風雨で角が丸くなっている。


塔の入口には白い門がある。


門の上に古い文字の刻印がある。旧文明語の文字だ。ミヤには読めない。読み師連の名前を書いているのか、別の言葉を書いているのか、判別できなかった。


ミヤは門をくぐった。


入口の中は静かだ。広いロビーがあり、天井が高い。天井までの壁面はすべて書棚で埋まっている。書棚には革表紙の書物が並ぶ。書物の数はミヤがこれまで見た中で最も多かった。


ロビーの中央に受付がある。受付の机に若い男が一人座っている。読み師連の若手解読者らしい。男は書類を読んでいた。ミヤが近づくと顔を上げた。


「観測員のミヤです」


ミヤは言った。


「タチバナ様にご面会をお願いしたい」


若い解読者は短く頷き、机の上の名簿を確認した。


「事前のお約束は」


「ありません」


ミヤは答えた。


若い解読者はもう一度名簿を見た。それからミヤを見た。


「お待ちください。タチバナ様にお伝えします」


解読者は立ち上がり、ロビーの奥の階段を上っていった。足音が階段を上りきり、廊下を歩いていく音が聞こえた。


ミヤはロビーで待った。


書棚の書物を眺めた。革表紙の色はそれぞれ違っている。古い書物ほど色褪せていて、新しい書物の革は黒に近い色をしている。背表紙には旧文明語の文字が金で刻印されている。ミヤには読めない。


しばらくして、足音が戻ってきた。若い解読者だった。


「タチバナ様がお会いになります」


解読者が言った。


「二階の研究室にご案内します」


ミヤは観測ノートを抱え、解読者の後に従った。


階段は古い木で造られていた。一段ずつ踏むたびにわずかに軋んだ。古い建物の音だった。ミヤの〈シズク〉とは違う種類の軋みだった。


二階の廊下には紙とインクの匂いが充ちている。長く保管された紙の匂いだ。湿気を吸って、わずかに発酵したような香りがする。ミヤの観測ノートとは別の匂いになる。


廊下の左右にいくつもの扉がある。すべて木の扉でそれぞれに番号札と名前が書かれている。一つの扉に「橘」と書かれた札があった。


若い解読者がその扉をノックした。


「タチバナ様ミヤ様をお連れしました」


中から返事はなかった。


---


しばらくして、扉が中から開いた。


タチバナが立っていた。


痩せた長身の男だ。年齢は六十代前半に見える。白いひげが顎の下に少し生えている。髪は白く、短く整えられていた。


服装は読み師連の伝統的なものらしい。長い暗い色の上衣で袖が肘までめくり上げられている。腕がよく見える。腕には筋肉が少なく、血管が皮膚の下に浮いている。


指先がインクで染まっていた。


両手の人差し指と中指、それに親指の先まで青黒い色が染み込んでいる。長年、ペンを握り続けた指だ。一度や二度の汚れではなく、何十年もかけて染み込んだ色になる。


タチバナはミヤを見た。


長く見た。


ミヤは黙ったまま、視線を受け止めた。


タチバナの目は薄い茶色だ。瞳孔の周りにわずかに白い濁りが見える。年齢による白濁の始まりらしい。しかし、視線の鋭さは衰えていない。


タチバナはミヤの顔を見た。次にミヤの抱えている観測ノートを見る。それからミヤの目に視線を戻した。


時間が経った。十秒、二十秒、三十秒。ミヤは数えなかったが長い時間だった。


タチバナは何も言わなかった。


ミヤも何も言わなかった。


最初の挨拶を二人とも省略していた。


「ふむ」


タチバナがようやく言った。


それだけだった。


タチバナは扉を大きく開けた。研究室の中が見えた。


研究室は広くない。古い木の机が一つ、椅子が二つ、壁三面が書棚で埋められている。机の上には書類が積まれていて、ペンとインク壺がいくつか置かれている。窓は一つ、縦長で外の光がわずかに差し込んでいた。


「中へ」


タチバナは短く言った。


ミヤは研究室に入る。若い解読者は廊下に残った。タチバナが扉を閉めた。


タチバナは机の向こうの椅子に座った。


「お前も座れ」


タチバナが言った。


ミヤは机の反対側の椅子に座った。椅子の木は古かった。座るとほんのわずかに軋んだ。


タチバナはミヤをまた長く見た。


ミヤもタチバナを見た。


今度はミヤから話しかけることもしない。タチバナが何を求めているのか、ミヤにはまだわからない。観測員として、相手の様子を読み取る訓練は身についていた。今は相手を観察する時間だ。


タチバナの研究室は紙とインクの匂いに満ちている。それに加えて、わずかに茶の香りもある。


机の隅に小さな茶碗がある。タチバナの飲みかけの茶らしい。湯気は立っていない。冷めた茶になる。


タチバナが手を伸ばし、茶碗を取り上げた。一口含んだ。それから茶碗を机に戻した。


「お前の名前は」


タチバナが訊いた。


「ミヤです」


ミヤは答えた。


「観測員のミヤ。〈シズク〉の」


タチバナは付け加えるように言った。


「はい」


ミヤは頷いた。


---


「観測ノートを見せてくれ」


タチバナが言った。


ミヤは観測ノートを机の上に置いた。


タチバナは机を挟んでノートを開く。ハリスで担当官が見たのと同じノートのコピーだ。コピーはハリスで処理されたがもう一冊のコピーをミヤは念のため持ってきていた。


タチバナはノートのページをめくった。


最初のページから順に見ていった。タチバナの目の動きはハリスの担当官とは違った。担当官は数字を一瞥して次のページに進んだ。タチバナはそれぞれの数字を読み取っていた。


ミヤは黙って見ていた。


タチバナがページをめくる音が研究室の静寂の中に響いた。


五分が経った。十分が経つ。タチバナはまだノートを読んでいる。半分のページまで来た時、タチバナはノートを閉じた。残りは読まなかった。


ノートを机の脇に置いた。


「ふむ」


タチバナはまた一言だけ言った。


それからミヤの目を見た。


「お前は何を観ているのか」


タチバナが訊いた。


ミヤは答えに迷った。


観測員として、何を観ているか、と訊かれることは初めてだった。ハリスの担当官も波音号の通信士もフキも誰もそんなことを訊かなかった。観測員の仕事は数字を記録することだ。観ているものを言葉にする必要はなかった。


「沈黙海域の」


ミヤは始めた。


「境界の動きを観ています」


タチバナは何も言わずにミヤを見ていた。


「境界が、過去に例のない速度で動いています。私の十年の観測でも、父の二十年の記録でもこんな動きはありませんでした」


「父は観測員だったか」


タチバナが訊いた。


「はい」


「父の名は」


「ナミです」


タチバナは目を細めた。


「ナミ」


タチバナは小さく繰り返した。何かを思い出すような目つきだった。


「私は彼を知っている」


タチバナが言った。


「直接ではない。彼の観測ノートを、ある時期読んだことがある」


ミヤは黙った。父のノートが読み師連に渡っていたことをミヤは知らなかった。


「彼は若くして亡くなったらしい」


タチバナは続けた。


「ノートの最後の数ページが、白紙のまま終わっていた」


「事故でした」


ミヤは答えた。


「海星座号の事故です」


タチバナは何も言わなかった。


立ち上がり、書棚に向かった。


---


タチバナは書棚の中段から一冊の書物を取り出した。


革表紙だ。色は黒に近く、革の表面は擦れている。書物の縁は摩耗している。長く誰かに読まれた本になる。


タチバナは書物を机に運び、ミヤの前に置いた。


ミヤは書物を見た。


表紙には何の文字もない。装飾もない。革のみの表紙だ。ただし一つの印章が刻印されている。三角形を四つ組み合わせたような印が中央に置かれていた。


ミヤはその印を別の場所で見たことがあった。


父のノートの中だった。父が最後の半年にページの余白に書き込んでいた記号と同じ形だった。


ミヤは思わず書物に手を伸ばしかけて、止めた。


タチバナは書物を開いた。


中の紙はミヤのノートの紙よりずっと古い。色が褪せて、黄色に近い色になっている。ページの縁は湿気で波打っていた。


書かれていたのは旧文明語の文字だった。


ミヤには読めない。文字の形は知っているものもある。漢字に似た形とアルファベットに似た形が混じる。しかし、文字の組み合わせ方が現代の言語とは違っていた。


タチバナは特定のページを開いた。


そのページには文字に加えて図があった。海面と海中の何か。深海に向かって、文字が螺旋のように並んでいた。図の中央には再びあの三角形四つの印があった。


タチバナはそのページをミヤに見せ続けた。


説明はしなかった。


ミヤはページを見つめた。


何が書かれているのか、わからない。図が何を示しているのかもわからない。しかし、印だけはわかる。父のノートの記号と同じ印だ。


時間が経った。


ミヤは顔を上げ、タチバナを見た。


「これは」


ミヤは訊いた。


タチバナは答えなかった。


代わりに書物を閉じた。両手で書物を取り、書棚に戻した。


「お前の父もこれを見た」


タチバナは書棚を向いたまま言った。


「ある時期、ここに来た。長くは滞在しなかった。一日だけだ。私がこれを見せた。彼は、何も言わずに帰っていった」


ミヤは黙った。


タチバナは振り向いて、ミヤの方を見た。


「彼は何かを観ていた。お前と同じ何かを、観ていたのかもしれない」


「父は観測ノートに記号を残しています」


ミヤは言った。


「あの三角形の」


タチバナは頷いた。


「彼は書く言葉を持っていなかった。だから、記号で残した」


「私も書く言葉を持っていません」


ミヤは言った。


タチバナはミヤを見た。


長く見た。


「ふむ。…自分で考えなさい」


タチバナは言った。


それだけだった。


タチバナは机に戻り、椅子に座った。手元の書類に目を落とした。


ミヤを見ていなかった。


ミヤは観測ノートを抱え、椅子から立ち上がった。研究室を出る前にもう一度タチバナを見た。


タチバナはもうミヤを見ていなかった。

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