ハリスの霧
ミヤは午後三時にハリス港に入った。
ハリス港は北太平洋の海上都市〈ハリス〉の南端に位置していた。〈シズク〉がゆっくりと港の運河に近づくと街全体が霧に包まれているのが見えた。
ハリスの霧は海上都市特有の現象だった。湿度の高い海面と都市の発する熱との差が低い濃霧を作り出す。霧は港の運河から始まり、街路を通って、浮島の高い建物の窓まで届いていた。
ミヤは桟橋に〈シズク〉を着岸させた。ロープを結び、機関を止め、観測ノートのコピーを抱えて甲板に降りた。
桟橋には人々が歩いている。商人、漁夫、海上都市の住民、それぞれが霧の中を歩いていた。街灯の光が霧の中で滲んで広がり、人々の輪郭をぼやけさせている。
ミヤは管理庁本部へ向かった。
ハリスの中央に建つ白い建物だ。〈シズク〉のような小型艇からは見えない場所にあるがミヤは過去に何度も訪れていた。観測員として、定期的にデータを提出に行く場所になる。
街路は浮島同士を繋ぐ橋で構成されている。一つの浮島から次の浮島へ橋を渡って移動する。橋の下には運河があり、水路を行く船も街路の一部だ。海上都市の地理は地上の都市とは違うルールで組み立てられている。
ミヤはハリスを歩くたびに浮島の連結の音を聴く。低い金属音が街全体に響いている。浮島と浮島を繋ぐ金具が波の動きでわずかに軋む音だ。
歩きながらミヤは観測ノートのコピーを抱え直した。
中身は五月初旬から十五日までの観測データになる。沈黙海域の境界の加速度的拡張と境界内での時間の歪みの記録が並ぶ。フキへの非公式報告だけでは足りない。今回は管理庁にも正式報告するためにミヤはハリスまで来ていた。
霧は街路を渡るほどに濃くなっていった。
街灯の光は霧の中で滲んでそれぞれの灯りが大きな円のように広がっていた。光の輪は重なり合い、街全体が淡い銀色に包まれているように見えた。
人々の顔は近くにいる時だけ識別できる。霧の中では五メートル離れれば顔の輪郭が消える。十メートル離れれば、人影だけが見える。二十メートル離れれば、人影もぼやけて消えた。
ミヤは管理庁本部の白い建物に近づいた。
建物の入口には警備員が二人立っている。霧の中でも彼らの制服の輪郭ははっきりとしていた。管理庁の制服は青みの強い深色で霧との対比で目立つようになっている。
ミヤは観測ノートのコピーを警備員に見せ、身分の証明を済ませた。警備員は短く頷き、ミヤを建物の中に通した。
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建物の中は外の世界とは異質な空間だった。
霧の湿気が遮断されている。空気は乾いていて、わずかに冷える。消毒の匂いがする。床と壁と天井はすべて磨かれた金属で覆われていて、光が反射している。
ミヤは案内に従って、観測データ提出室の階に向かった。
廊下は長い。両側の壁は鏡のように磨かれていて、ミヤの輪郭が映っている。観測ノートを抱えた自分の姿が廊下の片側に映り、もう片側にも映り、二重に並ぶ。
廊下には足音だけが響いていた。ミヤの靴の音と時々すれ違う職員の靴の音だけが磨かれた金属の壁に反射する。職員たちは皆、同じような制服を着ていて、表情も似ている。互いに視線を合わせず、無言で通り過ぎていった。
ミヤは観測データ提出室の前に着いた。
部屋の入口には番号札がある。「301」とだけ書かれている。ミヤは部屋に入った。
中は待合室だった。長い椅子が壁沿いに並んでいて、機械的な呼び出し音が天井のスピーカーから時々流れた。
「提出番号四十二」
声が呼んだ。ミヤは番号札を受け取り、椅子の一つに座った。
番号札は六十三と書かれていた。ミヤの順番までは二十一人ほど待つ必要があった。
待合室の隅に注意書きの張り紙があった。「報告書は規定の形式で提出してください」と書かれていた。
別の壁には別の張り紙がある。「警備区分C-7」と書かれている。ミヤは何度かハリスを訪れたが警備区分の表示を見たのは初めてだった。
壁の張り紙はそれぞれが等間隔で貼られている。色も大きさも揃う。管理庁の建物はすべてが整然としている。
ミヤは観測ノートを膝の上に置いた。
呼び出し音が続いていた。
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「番号六十三ご入室ください」
スピーカーが呼んだ。ミヤは観測ノートを抱えて立ち上がった。
呼び出し室は小さな部屋だ。机が一つ、椅子が二つ、それだけになる。机の向こうに四十代の男が座っている。管理庁の制服を着ていて、表情はない。机の上には何冊かの書類が置かれている。
ミヤは椅子に座り、観測データを机の上に置いた。
「提出します」
ミヤは短く言った。
担当官はノートを開いた。最初のページに目を通す。次のページもめくった。五月初旬から十五日までのデータが整然と書き込まれている。沈黙海域の境界座標、隣接する日同士の差分、加速度的拡張のグラフ、時間の歪み現象の記録を順番に追っていく。
担当官は最後のページまで一回通読した。所要時間は約一分だ。ミヤが書き終えるまでに数時間かけたデータが一分で処理されていく。
「処理しておきます」
担当官が言った。
ミヤは机に向かって、わずかに身を乗り出した。
「これは通常の観測の範囲を超えています」
ミヤは言った。
「沈黙海域の境界が、過去に例のない速度で動いています。境界内では時間の歪み現象が観測されました。これは、波音号への通常の報告ではなく」
「報告書は規定の形式で」
担当官が遮った。
「規定の形式以外は受け取れません」
「規定の形式は」
「年に一度の定期報告書と、緊急時の警報報告書だけです。今お持ちのものは、いずれにも該当しません」
ミヤは黙った。
ミヤの観測ノートは月例の現場報告書の形式だ。波音号への報告にはその形式で十分になる。しかし、管理庁の規定ではその形式は受理されないらしい。
「年に一度の定期報告書を、待つということですか」
ミヤは確認した。
「規定通りに、次の定期報告書の時期に提出してください」
担当官は答えた。
「緊急時の警報報告書は、人命が直接危険にさらされる場合のみです。今回はそれに該当しません」
「沈黙海域の拡張は、人命に関わる可能性があります」
ミヤは続けた。
「可能性ではなく、現に危険が発生している場合に限ります」
担当官が再び遮った。「現に発生しているとは認められません」
ミヤは黙った。担当官は観測ノートを閉じた。
「処理しておきます」
担当官は繰り返した。机の脇の箱にノートを入れる。箱の蓋を閉じる。
「他には」
担当官が訊いた。
ミヤは何も言わなかった。
「では終了です」
ミヤは立ち上がった。観測ノートのオリジナルは自分の鞄の中に残っている。机の上に置いたのはコピーだ。ミヤは部屋を出た。
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廊下は来た時と同じだった。
磨かれた金属の壁にミヤの輪郭が映り込んでいる。観測ノートを抱えていない今のミヤは来た時よりわずかに痩せて見える。ノートの重みが心の重みに変換されていた。
ミヤは出口に向かって歩いた。
廊下の向こうから人影が歩いてきた。
最初、ミヤはその人影に注意を払わない。職員の一人だと思う。お互いに視線を合わせず、無言で通り過ぎる、いつもの儀礼が始まるはずだった。
しかし、人影が近づくにつれて、ミヤは足が止まりそうになった。
クガだった。
五年ぶりに見る顔だ。クガは管理庁の制服を着ている。最後に見た時のクガはまだ管理庁に入っていなかった。
今のクガは別の顔をしていた。
制服を着崩している。シャツの一番上のボタンが外れている。靴は磨かれているが靴底にはわずかに泥がついていた。管理庁の規律を最低限だけ守っている、という風情だ。
目には疲労があった。目の下のクマが磨かれた金属の壁の光に反射されて、はっきりと見えた。
ミヤはクガの方を見なかった。
クガもミヤの方を見なかった。
二人は無言で歩み寄っていく。距離が縮まる時、ミヤの心臓の鼓動が早くなる。五年ぶり、それを意識しないようにしていた。
二人がすれ違った。
すれ違う瞬間、ミヤはクガの目線を感じた。クガはミヤの方を見ていない。しかし、注意はこちらに向いている。
二人は通り過ぎた。
ミヤは振り返らなかった。歩き続けた。
しかし、後ろで足音が止まった。
クガの足が一瞬止まった音だった。
ミヤも足を止めかけたが止めない。歩き続ける。クガの足音もすぐに再開した。二人ともお互いの足音を聞いている。
ミヤは廊下の出口まで歩いた。
クガは反対方向に歩いていったはずだった。しかし、ミヤが廊下の角を曲がる時、後ろにクガの足音がついてきていることに気づいた。
クガは距離を保って、ミヤを追ってきていた。
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ミヤは管理庁本部の建物を出た。
外は霧だ。建物の中の乾いた空気からハリスの霧の湿気の中に再び戻る。空気が肌に触れる感触が温度も湿度も急に変わった。
ミヤは建物の階段を降りた。
クガの足音が後ろから聞こえた。距離は十メートルほど。一定の距離を保って、追ってきていた。
ミヤは振り返らなかった。歩き続けた。
街路に出ると霧の中に人々の影が見える。霧の濃さは来た時よりも増している。隣の人の顔も見えないほどの濃さになる。
ミヤは橋を一つ渡った。橋の途中で後ろからクガの足音がついて来ていることをまだ確認していた。
橋を渡り切るとミヤは一度立ち止まった。
クガがミヤの背後に来た。
距離は二メートルほどだ。霧の中でお互いの顔も見えない。クガはミヤの後ろに立っていた。
「気をつけろ」
クガが小声で言った。
それだけだった。
ミヤは振り返った。
クガはすでに別の方向を見ていた。橋の向こうの霧の中をまるで何かを探すように。ミヤの方を見ていなかった。
「お前は何も提出しなかったことに」
クガが霧の方を見たまま言った。
ミヤは何も言わなかった。
「俺がそう記録する」
クガは続けた。
「だからもう来るな。ここには」
「クガ」
ミヤは初めて名前を呼んだ。
クガはミヤの方を見なかった。
「気をつけろ」
クガはもう一度言った。
そのまま、クガは霧の中に消えていった。足音が遠ざかり、足音も消えた。
ミヤは橋の上に立った。
霧はミヤの周りに濃く立ち込めている。クガの足音はもう完全に消えている。ミヤの周りには霧の白色だけが広がっていた。
ミヤは自分のデータの行方を考えた。
机の上に置いたコピーは担当官の机の脇の箱に入れられた。箱は閉じられている。「処理しておきます」と担当官は言った。
おそらくデータは処理されない。
クガはミヤが提出した記録自体をなかったことにすると言った。それはデータを保護することを意味するのか。それともミヤを管理庁の関心から外すことを意味するのか。両方かもしれなかった。
ミヤはオリジナルのノートを抱え直した。
オリジナルはミヤの鞄の中に残っていた。観測員として、データのオリジナルは自分の手元に必ず残しておく。それは父から受け継いだ習慣だった。
ハリスを出る時、霧はもっと濃かった。




