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無音の領域

ミヤは午前九時に観測ポイントに到着した。


これまでの観測ポイントとは違う場所だ。沈黙海域の境界から約三海里の手前。ミヤがこれまで観測してきた中で最も境界に近い地点になる。


機関を停め〈シズク〉を停船させた。波は普段より少ない。風も弱い。海面は平らに近いがまだ普段の海らしい揺らぎが残っている。


ミヤは観測機器をすべて起動した。ソナー、潮流計、気圧計、塩分濃度計、海水温度計を決まった順番で立ち上げる。普段の観測では使わない機器も含めて全部を起動した。今日の観測はいつもより慎重に進める必要がある。


ソナーが最初の異常値を示した。


水深データに断続的な空白が現れた。三秒、五秒、十秒。空白の長さが過去の観測より明らかに長くなっている。これは想定の範囲内だ。境界に近づけば空白の長さは伸びるはずだとミヤは過去のデータから推測している。


塩分濃度計はわずかに低い値を示している。普段の海域より〇・三パーセント低い。海水温度計もわずかに高い。〇・二度。これらも想定の範囲内だ。


しかし、気圧計は普段通りを示す。風速計も普段の海域と変わらない値を示していた。海面の状態は視覚で見るほどには異常がない、ということになる。


ミヤは観測ノートに起動した機器の名前と初期値を書き込んだ。


ペン先が紙の上を走る音が機関の唸りの止まった船室にいつもより大きく響いた。


ミヤは観測デッキに上がった。


海を見渡す。水平線は普段通りに見える。空は晴れていて雲は少ない。船の周囲数百メートル以内に特別なものは何もない。


ただ風の感触がわずかに違っていた。


普段の海の風は塩の匂いを強く運んでくる。海上で長く暮らしてきたミヤにはその匂いの強さは肌で感じられた。今日の風にはその強さが少し足りない。塩の匂いはある。ただしいつもよりわずかに薄い。


ミヤは深呼吸を一度した。吸い込んだ空気には確かに塩が含まれている。普段より少ないが普通の海の塩だ。


ミヤは舵室に戻り〈シズク〉を境界に向かってさらに進める準備をした。境界線そのものに到達するまで約三海里。慎重に進めば一時間ほどで到達する距離だ。


機関の出力を最小限に上げる。〈シズク〉は、ゆっくりと前に進み始めた。


ソナーの空白がさらに頻発するようになる。十秒、十五秒、二十秒。一分のうち、三十秒以上がデータの空白で埋まる時間帯もあった。それでもソナーの装置自体は動いている。電源ランプは点灯したまま振動はいつも通り。データだけが届かない。


ミヤは進路を変えない。停船もしない。観測のためにここまで来た。引き返す選択肢は最初からなかった。


風はさらに弱くなる。気圧計は変わらない。風だけが別の何かによって弱められているようだった。


---


午前十時ミヤは通信機を起動した。


漂泊団のフキへの通信を定期的に行うことにしている。境界に向かう航行の間、一時間ごとに状況を報告する約束だ。お互いの安否確認のための取り決めになる。


識別コードを入力した。


応答ランプが点灯しなかった。


ミヤは時計を見た。一秒、二秒、三秒、十秒、二十秒。一分が経った。応答ランプは灯らなかった。


通信機の電源ランプは点灯している。装置自体は動いている。送信のインジケータも送信中であることを示していた。ただ相手側から応答が返らない。


ミヤは試しに別の周波数に切り替える。波音号の公式ルートに合わせる。応答がない。別のチャンネルに切り替えても応答がない。さらに別のチャンネルでも応答がない。


ミヤは通信機の前から離れた。電源は切らない。装置は動いている。電気的な問題ではないとミヤは判断した。


通信機のスピーカーからいつもなら届くはずの背景ノイズが聞こえなくなっていた。普段、通信機を起動していると微かな雑音がスピーカーから流れる。電波の中の様々な信号や、海上の電気的な揺らぎが雑音として聞こえる。


今、そのノイズが消えていた。


完全な無音だった。スピーカーは動いているのに何の音も出てこなかった。


ミヤはスピーカーに耳を近づけた。やはり無音だ。電気的な空白ではなく、明らかな「沈黙」になる。


機関の唸りもいつもより小さく聞こえるようになっている。実際に出力が下がっているわけではない。回転数を示す計器の針はいつもの位置にある。ただ耳に届く音だけが小さくなっていた。


ミヤは深呼吸をした。


空気は普通だ。塩の匂いは少なくなっているが息はちゃんと吸える。酸素濃度には問題がないようだ。胸の動きもいつも通りに上下している。


ミヤは観測ノートに通信途絶の時刻を書き込んだ。午前十時七分。


ペン先が紙の上を走る音はいつも通りに聞こえる。耳のすぐ近くの音は影響を受けていないらしい。遠くの音 ── スピーカーや、機関の唸り ── だけが少しずつ「くぐもって」いた。


ミヤは航行を続けることにした。引き返すにはまだ早い。観測員の仕事は観測することだ。今のこの状況も観測の対象だった。


機関の出力をそのままにして〈シズク〉を境界に向かって進め続けた。


---


午前十一時〈シズク〉が沈黙海域の境界に入った。


ミヤは舵室から観測デッキに上がった。


海面は完全に平坦だった。


波がなかった。風がなくても海面には必ず微細な揺らぎがある。海中の対流や潮の流れによって水面はいつも動いている。しかし、その動きがなかった。


水面は鏡のように平らだった。〈シズク〉の船体が動く時周囲に小さな波が立ったがその波もすぐに消えた。普段なら、波は水面を横に広がっていく。今は波が立った瞬間に水が固まったように動きを止めていた。


ミヤは欄干に手をついて水面を見下ろした。


海の色は普段通りに見えた。深い青、というか、ほぼ黒に近い藍色をしている。光が差し込んでも深海の暗さがそのまま見える色だった。


塩の匂いがほとんどしない。海上で十年暮らしてきたミヤには塩の匂いがほぼ消えた状態は初めての経験だ。空気を吸い込んでも塩の刺激がない。海の上にいるのに海の匂いがない。


鳥の声もない。魚の跳ねる音もない。普段、ミヤが意識していなかった海の音がすべて消えていることに改めて気づいた。


機関の唸りもほとんど聞こえない。〈シズク〉の機関は動いている。船体の振動でそれがわかる。しかし、音は耳に届いていなかった。


ミヤは試しに欄干を手で叩いた。


音がした。


しかし、その音は普段とは違っていた。鉄の欄干を素手で叩いた時普段はある程度の響きが残る。今、響きがない。叩いた瞬間に音は消える。残響がない。


ミヤは欄干をもう一度叩いた。同じだ。残響がない。


空気が「重い」と感じた。


物理的な感覚としての「重さ」だった。気圧は変わっていない。気圧計の数字は普段通りだった。それでも肩の上に何かが乗っているような感覚があった。


ミヤは観測ノートを取りに観測デッキの机に戻った。


ペンを取り書き込もうとした。


しかし、何を書けばいいのか、わからなかった。


「波がない」と書こうとして止めた。「塩の匂いがない」「鳥の声がない」「響きがない」── 否定形ばかりが並んだ。


「無」を観測する方法をミヤは知らなかった。


観測員の仕事は「何かがある」ことを記録する仕事だ。水深、潮流、温度、生物反応を決まった順番で数字に置き換える。それらが「ある」ことを数字で記録する。「ない」ことを記録するためには対照群が必要になる。


ミヤはノートに唯一書けることを書いた。


「観測機器のデータ、すべて停止または変動。記述不可能な現象。」


ペン先が紙の上を走る音はまだ聞こえた。


それだけが確かな音だった。


---


午後十二時ミヤは観測デッキの欄干に戻った。


海面はまだ平らだ。風はない。塩の匂いもない。


ミヤは海を見ていた。観測員としてできることは見るだけになる。記録できるデータがない以上、自分の感覚を頼りに観察するしかない。


ミヤは耳を澄ました。


完全な静寂、と思っていた。しかし、耳を澄ますと何かがあるような気がした。


音ではない。音として捕らえようとすると何も聞こえなくなる。普段の意味での「音」は、確かに消えていた。


しかし、音とは違う何かが海の方からあるような気がした。


ミヤは欄干にもたれかかり、海面を見つめた。


何かが聴こえそうで聴こえなかった。


それを表現する言葉をミヤは持たない。音ではない。振動でもない。空気の流れの変化でもない。気圧の変動でもない。これらすべての物理現象をミヤは観測員として知っていた。今感じているのはそれらのどれでもなかった。


耳が痛むような静寂、と表現するのが最も近い。しかし、痛みは肉体的な意味ではない。聴覚的な意味でもない。何かを聴こうとしてそれを聴く能力が足りないことの、心理的な痛みに近かった。


ミヤは思わず振り返った。


誰かがすぐ後ろに立っている気がした。


しかし、誰もいない。観測デッキにはミヤ一人しかいない。〈シズク〉に乗っているのはミヤ一人だけだ。


ミヤは振り返ったまましばらく動かなかった。


何かがすぐそこにいる気がした。


ミヤの後ろではなく、海の方からだった。船体の向こう、水面の少し下、または水平線の少し向こう。具体的な位置はわからなかった。ただ「何かがいる」という感覚だけが強くなっていった。


ミヤは怖くない。観測員の十年の中でミヤは多くの異常を見てきた。深海の生物の急変、突然の高波、原因不明の磁気異常を何度も観測する。それらを観測する時ミヤは恐れる前にまず観察する習慣を身につけている。


今も観察している。


ただし観察しても何も見えなかった。


ミヤは欄干に手を置いた。手のひらに鉄の冷たさが伝わる。手のひらの感覚はいつも通りだ。皮膚は感じることができた。


しかし、海の方の「何か」は、依然としてそこにあった。


ミヤは目を閉じた。


目を閉じてもその感覚は消えなかった。むしろ強くなった。


ミヤは目を開けた。


水平線を見た。


何も変わっていなかった。


ただ「何かがいる」という感覚だけがミヤの中に残っていた。


---


ミヤは観測デッキでしばらく動かなかった。


何かを観察し続けていた。しかし、何を観察しているのか、自分でもわからなかった。海面は平らなまま空気は重いまま音は聞こえないまま。時間が経っているのか、止まっているのかも確かでなかった。


その時通信機のスピーカーから音がした。


ノイズの音だった。普段の通信機の背景ノイズが戻ってきた音だった。


ミヤは観測デッキから舵室に降りた。


通信機のスピーカーから雑音に混じって人の声が聞こえた。


「シズクシズク応答してください」


フキの声だった。緊張した声だった。


ミヤは応答した。


「フキミヤです」


「ミヤ。よかった」


フキの声がほんの少しだけ緩んだ。


「三時間応答がなかった」


ミヤは時計を見た。腕時計は午前十一時を少し過ぎたところを指している。境界に入った時刻とほぼ変わらない時刻になる。


通信機の時計に目を移した。


午後二時十二分。


ミヤは目を擦った。もう一度両方の時計を見た。


腕時計は十一時九分。通信機の時計は十四時十二分。三時間と三分の差があった。


「ミヤ聞こえているか」


フキの声がもう一度届いた。


「聞こえています」


ミヤは答えた。


「お前のところで何が起きた」


フキが訊いた。


ミヤは答えに迷った。何が起きたかを自分でも完全には把握していなかった。


「観測機器のデータが、すべて記録不可能になりました。通信も三時間途絶していたようですが、私の体感では数十分でした」


「数十分」


フキが繰り返した。


「腕時計と装置の時計に、三時間のずれがあります」


「お前の時計はどこで止まった」


「止まっていません。動いています。ただ、装置の時計より三時間遅れています」


通信が一瞬沈黙した。


「ミヤ。すぐに戻れ」


フキが言った。


「境界の手前まで戻れ。今すぐに」


ミヤは舵を握った。


機関の出力を上げ〈シズク〉を反転させる。来た方向に向かって船を進めた。境界から離れるにつれて機関の唸りが徐々にはっきりと聞こえるようになる。風の感触も塩の匂いも海の音も少しずつ戻ってきた。


ミヤは舵を握ったまま何も話さなかった。


フキも何も訊かなかった。通信は繋がっていたが二人とも黙っていた。


境界から離れて十五分が経った頃、ミヤは時計を見る。腕時計と装置の時計の差はまだ三時間のままだ。ずれは縮まらない。


ミヤは観測ノートに最後の記述を書いた。


「五月十五日、十時七分から十四時十二分まで、通信途絶。観測機器停止。腕時計と装置時計に三時間のずれが発生。体感時間は約四十分。」


ペンを置いた。


ミヤは観測デッキに戻り海を見た。


東の方角に沈黙海域の境界がある。今は何も見えない。水平線は普段通りに見え、波は普段通りに揺らいでいた。

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