邂逅
廊下の奥に人影が見えた気がした、その方向へミヤはゆっくり進んだ。
何もなかった。
人影が立っていた場所には薄い灯りと剥がれた塗装の壁が続いている。
ミヤは足を止めて、廊下の先を見つめる。
廊下は緩やかに曲がっていて、その先は見えない。
気のせいだったのかもしれない。
深層航路の長い降下と潜航艇の中での緊張が目に何かを見せたのかもしれない。
しかし、ミヤの観測員としての経験は別のことを告げている。
見えたものは見えた。
否定する根拠はない。
だから確認する。
ミヤは廊下の先へ進んだ。
中層の通路は奥に進むほど、古びていく。
壁の塗装は完全に剥がれ、配管が剥き出しになる。湿気の匂いが濃くなり、空気に金属の錆の味が混じる。
天井の蛍光灯は半分近くが切れている。
残った灯りは薄黄色で廊下に長い影を落とす。
ミヤの足音は廊下にこもる。
しばらく進むと床に何かが見えた。
ミヤは身をかがめる。
足跡だ。
新しい足跡が薄く埃の上に残っている。深海ステーションの作業員が履く硬い靴底の跡ではない。もっと軽い、布で巻いたような底の跡だ。一人分だけ。
ミヤは指先で跡の縁を触れる。
埃の上に残った跡はまだ崩れていない。ここを通ってから長くて数時間ほどだ。
ミヤは足跡の方向を確認する。
廊下の奥へ向かっている。
ミヤは立ち上がる。
ためらいはある。
観測員としての事前申請は〈シエラ・ディープ〉中層までだ。
下層への侵入は見つかれば管理庁からの責任追及が確実になる。観測員資格の停止、最悪の場合は身柄拘束に至る。
しかし、「ここに何かがある」という直感は消えない。
タチバナが見せた書物の三角形四つの印 ── それを追って、ハリスから〈シエラ・ディープ〉まで来た。中層を一通り見たが何もなかった。何かがあるとすれば、もっと深い場所だ。
ミヤは足跡の上を歩く。
下りる階段を見つけた。
古い金属の階段だ。塗装が剥がれ、手すりに錆が浮いている。下から湿気と古い油の匂いが上がってくる。
ミヤは手すりに触れる。
指先に古い油の感触が残る。
階段を下りた。
下層に踏み込む。
---
下層は中層よりさらに古い。
照明はもっと少ない。半分以上の蛍光灯が切れている。残った蛍光灯も薄黄色を超えて、ほとんど琥珀色に近い色だ。
ミヤは灯りの下を進む。
廊下の左右に扉がいくつか並んでいるが多くは閉まっている。鍵がかかっているのか、ただ閉じているだけなのかは確認しない。
一つの扉だけがわずかに開いていた。
ミヤは扉の前で止まる。
中からかすかな空気の流れを感じる。
誰かが最近開けた扉だ。
ミヤは扉に手を伸ばし、ゆっくり押し開ける。
部屋の中は薄暗い。
窓はない。天井の照明は切れている。廊下から差し込むわずかな光だけが部屋の輪郭を浮かび上がらせる。
部屋の中には古い観測機器が並んでいた。
ミヤは観測員だ。観測機器を見れば、それが何の機器かはおおよそ判断できる。
ソナー解析装置、潮流計、気圧記録機が並ぶ。それからミヤが見たことのない大型の機器が二つ置かれている。共鳴測定の装置に似ているがミヤの〈シズク〉にあるものよりはるかに精密だ。
数十年前のものだ、と思う。塗装の摩耗、機器の角の丸み、金属の酸化具合が年代を物語る。少なくとも三十年は経っている。
ミヤは部屋の中に踏み込んだ。
機器の一つに小さなラベルが貼ってある。
ミヤは顔を近づける。
「S」
一文字だけ。アルファベットの「S」。何の頭文字なのかは書かれていない。
ミヤは「S」を見つめる。
何かの記号だろうか。整理番号かもしれない。あるいは誰かの名前の頭文字なのか。
ミヤは指先で機器に触れた。
その瞬間が訪れる。
何かが響いた。
物理的な音ではない。
耳ではなく、頭の中で何かが微かに振動した感覚に近い。
ミヤは指を機器の表面に置いたまま、息を止める。
視界の端に何かが浮かぶ。
女性の手だ。
ミヤが見たことのない女性の手 ── 細長い指、観測者特有のペンだこ、左手薬指に細い銀の指輪が嵌まっている。
その手が機器のつまみを回している。
ミヤは目を見開く。
視界の中央には何もない。女性の姿はない。ただ視界の端にだけ、その手の動きがある。
ミヤは手を引いた。
視界の端の手も消える。
息が荒くなっている。
これは観測機器の故障ではない。
ミヤの認識の問題だ。
ミヤは目を閉じ、息を整える。
機器に触れた瞬間、何かが流れ込んできた感覚 ── 過去の使用者の動作の残響、のような何か。
科学的に説明できる現象ではない。
少なくともミヤの知っている範囲では。
ミヤは目を開ける。
もう一度機器を見つめる。
「S」のラベルが薄黄色の光の中でわずかに浮かんで見える。
これは誰の機器だ。
「S」の意味は何だ。
そして、なぜ触れた瞬間に見たことのない手の動きが見えたのか。
ミヤの中で問いが積み上がる。
しかし、答えはない。
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ミヤは部屋の中央に立つ。
機器を見つめる。
「S」のラベルをもう一度見る。
その時、廊下から足音がした。
ミヤは身体を硬くする。
足音は一定のリズムだ。早すぎず、遅すぎず。
訓練された歩調 ── 観測員や、職業的に身体を整えている者の歩き方に似ている。
距離はまだ遠い。十メートル以上ある。
ミヤは扉の方向を向く。
逃げ場はない。
部屋には窓もない、別の出口もない。
ミヤは身を低くし、機器の影に隠れた。
足音が近づく。
ゆっくりとしかし確実に。
ミヤは観測員のノートを胸に抱える。鞄の中の道具を片手で握る。観測員用の小さなナイフ ── 自衛のための、最小限の刃だ。
足音が扉の前で止まる。
ミヤは息を殺す。
扉がゆっくりと押し開かれた。
廊下のわずかな光が部屋に差し込む。
人影が立っていた。
ミヤは機器の影からその輪郭だけを見る。
中肉中背、ミヤより少し背が高い。男だ。
痩せている。深海ステーションの住人らしい青白い肌をしている。
古い服を着て、布で巻いた靴底を履く。
足跡の主だ。
人影が部屋に踏み込んだ。
ゆっくり一歩、二歩と進む。
そして止まる。
ミヤを見つめている。
機器の影に隠れているはずのミヤをまっすぐに見ている。
見つかった。
ミヤは諦めて立ち上がった。
二人の距離は五メートルほどだ。
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ミヤは観測員のナイフを片手で握ったまま立つ。
人影は動かない。
ミヤはその男を観察した。
二十代後半か、三十前後だろう。
痩せた顔、目の奥が暗い。深海ステーションで育った者特有の、太陽光に焼かれていない皮膚をしている。
黒い髪を後ろで簡素に束ねている。
古い灰色の服、左肩に小さな繕いの跡が残る。
腰のベルトに小さな袋 ── 中身は見えないが何かが入っている。
男は武器を持っていない。少なくとも見える場所には。
ミヤは数歩、後ろに引いた。
機器の影から完全に出る。
男はまだ動かない。
ただミヤを見ている。
ミヤも男を見る。
そして、何かがある。
ミヤは自分の認識をもう一度確認する。
数秒前、機器に触れて感じた「響き」と、似ている。
目の前の男からもっと強い何かが流れてくる感覚がする。
ミヤはこれを「感じる」と表現する以外に言葉を持たない。
男の輪郭がわずかに別の色を帯びている。
視覚ではない。視覚を補う何か、別の感覚で捉えている。
ミヤは男が「もう一人」だと理解する。
理解の根拠はない。
しかし、確信する。
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レイは女を見ていた。
彼女は観測者だ、と即座にわかった。
肩の力の入り方、足の位置、ノートを抱える腕の角度 ── すべてが観測訓練を受けた者の身体の使い方だ。
鞄の中の手はおそらく刃物を握っている。観測員が自衛用に持つもの。
しかし、レイはもっと深いものを感じている。
これはずっと感じていた気配だ。
十三日前、深層航路を抜ける夜に感じた、遠い「観測する女」の気配 ── あの気配と目の前の女の気配が完全に一致する。
そして、もう一つ。
レイはこの女を知っている気がする。
これは共鳴感知の「もう一人」を知る感覚とは違う。
もっと古い。
もっと個人的な何かだ。
レイはこの女を以前にも見たことがある。
しかし、いつどこで見たか思い出せない。
レイの記憶は不完全だ。
五年前のエンの消失以前のことはほとんど思い出せない。
それより前の記憶は断片的にしかない。
しかし、この女の輪郭がレイの不完全な記憶のどこかと響きあう。
レイは目を細める。
その記憶の輪郭を追いかけようとする。
しかし追いかけると消える。
近づくと遠ざかる霧のような記憶になる。
レイは追いかけるのをやめた。
今ここで思い出す必要はない。
女はまだ動かない。
レイは女を見つめたままゆっくり息を吐いた。
胸の中で長く抑えていた何かが緩む。
ずっと自分一人だと思っていた。
共鳴感知の能力を持つ者は自分一人だけだとレイは信じてきた。
気配だけは遠くに感じていた。
しかし、物理的にもう一人を見たことはなかった。
今レイはもう一人を見ている。
レイは口を開く。
しかし声が出るまでわずかに時間がかかる。
何年ぶりに誰かへまっすぐ話しかけるのか。
ハリス・ディープ下層の商店での最小限のやり取りを除けば、誰かに言葉を向けた記憶が薄い。
レイは息を吸い、ゆっくり吐く。
「お前は、もう一人だ」
短くそう言った。
声は自分でも驚くほど低い。
喉が乾いている。
しかし確信は揺らがない。
---
女はレイを見ている。
表情はわずかにも崩れない。観測者の顔だ。
しかし目の奥に何かが動く。
女がゆっくり頷いた。
その動作は否定でも肯定でもない。
ただ「聞いた」という意味の頷き。
しかしレイはそれを了解と受け取る。
長い沈黙が降りる。
部屋の中の空気が二人の間でゆっくり流れる。
古い機器の金属の冷気が足下から立ち上る。
湿気が肌にまとわりつく。
廊下からのわずかな光が二人の輪郭を縁取る。
レイは女から目を逸らさない。
女もレイから目を逸らさない。
二人の呼吸はそれぞれ違うリズムだ。
しかしその違うリズムが奇妙な調和を作り始める。
意識して合わせているのではない。
自然に近づいていく。
レイはこれも共鳴感知の現象だと理解する。
共鳴者同士は互いに同調する。
意識せずに呼吸や鼓動が近づいていく。
これは知識として知っていた。
しかし体験するのは初めてだ。
そしてレイは思い出す。
エンがかつてこう言っていた。
「もう一人を見つけた時、お前は自分が一人ではないことを初めて知る」
エンは何を知っていたのだろう。
レイはエンが消えた夜のことをほとんど覚えていない。
しかしエンの言葉だけは断片的に残っている。
エンの言葉が今、現実になっている。
レイはもう一度ゆっくり息を吐く。
そして女に向かってもう一度言う。
「お前は、もう一人だ」
今度は繰り返しではない。
最初の言葉が観察の結果としての確認だったのに対して、二度目は宣告のようだ。
レイは自分の言葉の意味を自分で理解しきれていない。
しかし口が勝手に動いた。
身体が何かを知っている。
女はもう一度頷く。
そして初めて口を開いた。
「わたしもお前を見ている」
短くそう言う。
その声は塩で擦れた声だ。
海上の長い時間で塩を吸ってしゃがれている。
しかし揺らがない。
二人ともそれ以上は何も言わない。
部屋の中の沈黙が二人の間に戻る。
しかしその沈黙は出会う前の沈黙とは違う。
二人が互いを認め合った後の沈黙だ。
レイは部屋の中の機器に視線を移す。
古い観測機器が並ぶ。
レイはここに何度か来たことがある。
誰のものだったかは知らない。
ただ「S」のラベルだけが何かを示している気がして、何度か触れたことがある。
触れた時にレイは何も感じなかった。
しかし目の前の女はここに来て何かを感じたはずだ。
そうでなければ、女がこの部屋に踏み込んだ理由がない。
レイは女に視線を戻す。
女も機器の方を一度見て、レイに視線を戻した。
二人の視線が機器を経由してつながる。
何かが始まるという予感がレイの胸に薄く広がる。




